「芸術家肌」って【=ちょいヤバい人】というイメージも併せ持ちますよね。
生涯で93回も引っ越しをした葛飾北斎なんかはその典型と思われますが、同じく江戸時代、文政元年(1818年)10月21日に亡くなった司馬江漢(鈴木春重)もその一人かもしれません。
どことなく中国っぽい名前は「しばこうかん」というペンネームです。
本名は”安藤峻”といいまして、こちらは現代にもいそうな感じがしますね。
早速その生涯を追ってみましょう。
※以下は葛飾北斎の生涯まとめ記事となります
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江戸の町人に生まれた司馬江漢
司馬江漢は延享四年(1747年)、ごく普通の江戸町人の家に生まれました。
小さい頃から絵が好きで、いつか絵の道で生活し、後世に自分の名前を残したいと考えていたようです。
それが見事に叶っているのですから、幼少の頃から自分の好みと仕事の適性がフィットしたんですね~。羨ましい。
そこで狩野派の絵師や浮世絵師などさまざまな人に弟子入りしてあらゆる技法を学びました。
日本画だけでなく西洋画や漢画(中国の絵)についても学んでいたといいますから、かなり好奇心や向上心の強い人だったのでしょう。
世の中、デカい目標の割に努力をしない人(私も含め……)もおりますが、江漢を見習いたいものです。
同時期の奇才・平賀源内と親交があったらしく、彼を通じて何人かの画家と知り合い、さらに新しい技法を身につけていったといわれています。
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源内とも馬が合ったようで、西洋の自然科学について教えてもらったり、一緒に鉱山へ行って採集をしたりといろいろやっていたようです。
風景画の参考にするという目的もあったのでしょうね。
源内のツテで蘭学者とも知り合いになり、オランダ語の文献から銅版画の作り方を読み解いて実際に作ってもいます。
蘭学者たちに手伝ってもらって入るでしょうが、外国語の資料しかない中でそれまで全くやったことのないものを作ったのですから、江漢自身の頭脳も相当のものだったのでしょう。
油絵を長崎のオランダ人から学ぶ
天明の大飢饉が終息に向かう頃(天明八年=1788年)には長崎への道中で初めて富士山を見て感動し、以降、富士山の絵をよく描くようになったそうです。
富士山って今でも天候次第では千葉あたりからも見えるんですが、当時はどうだったんですかね。
「間近で見るのが初めてだった」という意味でしょうか。
旅路の間は風景の写生を多く行い、「東海道五十三次」のモデルになったのではないかとされているものもあります。確定はしていませんが。
長崎にいたのは一ヶ月ほどで、その間、通訳の人と知り合いになったり、オランダの船に乗せてもらったり当時の一般人ではなかなかできないような体験をしたようです。
また、初めて本場の油絵を見て「日本にある材料で同じようなことができないだろうか」と考え、カンバスや油絵の具の代用品を生み出しました。
カンバスの布には絹(!)、絵の具には荏胡麻(えごま)の油に顔料を入れたものを使ったそうです。
荏胡麻油は傘の防水や漆器の彩色に使われていたので、それを使って油絵を描こうと思いついたのだとか。
言われてみれば「できそう!」と思えますけども、当時の状況からしてなかなか思いつけることではないですよね。
日本画の絵の具も膠(にかわ・動物の皮膚などから取ったコラーゲンを加熱したもの・純度の低いゼラチン)に顔料を混ぜて色を調整しますので、膠を油に置き換えて考えたのでしょうか。
ワタクシも高校時代にやったことがありますが、この混ぜる作業が結構楽しいんですよね。
水彩絵の具に比べると手間もかかる上、元が動物のアレコレなのでくっさいんですが、画家にとっては画材のにおいなんて慣れっこでしょうし。
もしかすると、江漢も絵皿の上で絵の具をぐるぐる混ぜているときに「コレをアレすればよくね!?」なんて思いついたのかもしれません。
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