万治二年(1659年)9月1日、火災により焼失していた江戸城天守閣の再建工事が中止になりました。
主導したのは保科正之。
上杉家の改易に「待った!」をかけてくれた人です。

保科正之/wikipediaより引用
まずはこの方の経歴をざっくり見ておきましょう。
子供とは思えない気の使いよう、気づきよう
正之は2代将軍・徳川秀忠の四男として生まれました。
なぜ徳川姓でも松平姓でもないか?
というと、お母さんが身分の低い侍女だったからです。
それだけならまだしも、秀忠の正室・お江(お江与)は嫉妬深い人だったので、どこの馬の骨とも知れない女と子供を作ったなんてバレたら一大事。

お江(崇源院)/wikipediaより引用
この時代、側室を迎えるには正室の許可が必要だったので、こっそり引き取るということができません。
身分の低い女性を入れたければ、一度それなりの家の養女にして体面を整える必要もありました。
というわけで、幼い正之は家臣の家で育てられることになります。
最初は見性院という武田信玄の娘に、その後、旧武田家臣の保科家に預けられました。
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しかし、このとき既に保科家には別の養子がおり、「もう跡継ぎの子が来てるんでしょ? 私が行ったらその子に悪いじゃないか」と渋ったといいます。
当時6歳でこの気配りよう、末恐ろしいほどの人格者です。
長兄・家光と次兄・忠長は骨肉の関係だったけど
こうして将軍の息子でありながら幼い頃から苦労続きだったせいか、正之は有能なことに加え、人格的にも優れていました。
人柄のよさは、長兄・徳川家光にも次兄・徳川忠長にも気に入られていることが何より物語っています。

徳川家光(右)と徳川忠長/wikipediaより引用
なんせお兄さん二人は骨肉の争いをするほどの仲の悪さでしたからね……。母親が同じ兄弟よりも、一人だけ生まれの違う正之のほうがうまくいったとは皮肉なものです。
家光は忠長と争っていただけに、性格的にも能力的にも優秀な正之が殊更可愛かったのでしょう。
一度は保科家を継いだ正之を大名に取り立て、最初は山形藩、次は会津藩を任せます。
この家が幕末まで続き、八重の主君、松平容保(かたもり)に繋がっていきます(松平姓になったのは三代目から)。
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容保があれほど佐幕(幕府側の味方)にこだわったのも、正之が家光から遺言された「徳川宗家をよろしく頼む」という言葉を家訓としていたためでした。
この家訓とは、
「大君之儀、一心大切ニ可存忠勤、不可以列国之例自処焉、若懐二心則非我子孫、面々決而不可従旨」
であります。
なんか重い感じですかね。
これを年に2回、藩主以下家臣全員が「読み聞かせ」します。
口だけではない 国民の復興が第一
さて、この血筋・性格・官職と三拍子揃ったスーパーマンの正之がどうして江戸城の天守を建て直さなかったのか。
そもそも天守がなくなってしまった原因は「振袖火事」ともいわれる明暦の大火。
江戸はもともと火事の多いところでしたが、このときの延焼面積・死者は特にひどいものでした。
戦争や地震を除けば、明暦の大火の被害は日本史上最大とまでいわれています。
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生き残った市民達も食うや食わずで、新しく住む場所にも困る状態。焼けた面積が広かったため、各大名屋敷やお寺、神社なども同じ悲劇を味わいました。
そこで、それまで江戸城周辺にぎっちり密集していた建物を、少しずつ区画整理すると共に郊外へ移していくことになります。
加えて、二度と同じような火事の起こることがないよう、延焼を防ぐための広小路や川の拡張なども行われました。
ちなみに駅の名前にもなっている「上野広小路」もあれです。
上野公園から南へ妙に道が広いのも彼の手がけたもの。関東大震災でもこの広小路のおかげでたくさんの命が救われたそうです。
現代江戸城に天守閣が復活する!?
これらの公共事業には、当然莫大なお金がかかります。
人手だって充分とはいえません。
そこで正之はティン!ときました。
「天守を諦めれば、他にお金がまわるしいいんじゃないか?」
そして町や江戸城の復興にある程度目処がついた頃、会議の席で正之は提案します。
「もう戦もないし、幕府も安定しているのだから、わざわざ天守を作って威圧するようなことはしなくてもいいでしょう。町の復興に全力を尽くすべきではありませんか」
重臣達は将軍縁者の正之がこんなことを言い出すのに加え、その意見のあまりのまともさに感服。
こうして、江戸城に天守が建つことは二度となかったのでした。
現在、江戸城址は皇居になっていますが、あの石垣は正之の決断の跡でもあるんですね。
一方で「天守閣をもう一度建てようじゃないか!」という話もちらちら出ているようです。
最近はお城ファンも多く、楽しみにしている方も多い反面、当時の天守閣を再現するのか、全く新しい現代風のモノができるのか、気を揉む方も多そうですね。
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【参考】
国史大辞典
保科正之/wikipedia









