1578年8月20日(天正6年7月17日)は、尼子家の家臣・山中幸盛が謀殺された日です。
この方は山中鹿介や山中鹿之介(しかのすけ)の通称、あるいは、
「我に七難八苦を与えたまえ」
と三日月に祈ったという強烈なエピソードで、戦国ファンにはかなり有名な人物ですね。
さらには尼子三傑(十傑)に数えられたり、「山陰の麒麟児」などと呼ばれたり、とかくエピソードに事欠かない人です。
一体どうしてそうなったのか? 見てまいりましょう。
※本稿では「山中鹿介」で統一させていただきます。

山中鹿之介(山中幸盛)/Wikipediaより引用
尼子家臣の家に生まれた山中鹿介
山中鹿介は、山陰地方の雄・尼子家の家臣の家に誕生。
父・満幸は早世していたために生活は苦しく、母・なみの女手一つによって育てられたといいます。
幼少期から聡明かつ勇猛果敢だったと言われていますが、彼の生涯は江戸時代の講談で大きく脚色されたと考えられますので、どこまで本当かはアヤシイところ。
もちろん、並の人物ではないことは間違いないでしょう。
鹿介が歴史に名を残すことになったのは、ズバリ主君である尼子家が滅びたからです。
敵は毛利家。
【厳島の戦い】を終え、陶晴賢と大内氏を滅ぼし、中国地方の覇者として毛利元就が駆け上がり始めた頃のことでした。
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毛利家による月山富田城攻め
一方、尼子では当主・尼子晴久が急死し、その息子・尼子義久に代替わりして間もないころ。
この義久が、元就と張り合うにはとても力不足だったのでした。
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毛利軍は尼子氏に与する国人らを次々と味方につけながら進んできます。
そして、永禄五年12月(1563年1月)には尼子氏の本拠・月山富田城攻めを本格化させました。
序盤は尼子軍が勝ったこともありましたが、少しずつ補給線を断たれて月山富田城は孤立。ジリ貧状態になっていきます。
しかし月山富田城は「天空の城」と呼ばれた要害です。
さすがの元就もすんなり落とすことはできず、一度撤退しています。
そして半年後、再び城攻めを開始しました。
毛利に負けた2年後、尼子家再興運動を始めた
鹿介はたびたび一騎打ちでの勝利や夜襲を成功させるなど、多くの戦功を挙げていました。
しかし、半年ほどで城内の兵糧が底をつきかけ、逃亡者も出始めます。
もはや戦闘続行は不可能……。
1566年、尼子義久は、ついに毛利軍に降伏を申し出ました。
侵攻から3年。
毛利相手によく持ち堪えたと言うべきでしょうか。
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義久ら三兄弟と従者たちは、毛利方によって幽閉されることが決まります。
山中鹿介は随従を願い出ますが許されず、出雲大社で主君と別れたとか。縁結びの神社が今生の別れの場所になるとは、何とも皮肉な話ですね……。
その後、山中鹿介は「尼子家再興」に生涯を懸けることを誓います。
泣く泣く主人と別れたからこそ、何が何でも主家を再興させねば! と思ったのでしょうね。
二年ほど足取りがはっきりしない時期もあるのですが、永禄十一年(1568年)から本格的にお家再興のため動き出します。
まず、他の尼子旧臣たちとともに、京都で僧侶になっていた尼子誠久(勝久の祖父・政久の弟)の遺児・尼子勝久を還俗させて、旗頭にしました。
さらには各地の尼子遺臣らを集め、密かにお家再興のチャンスを窺います。
毛利家が九州の大友家と戦うために中国地方を留守にしたため、頃合いを見て、出雲へと侵攻しました。
再興軍は瞬く間に拡大して6,000人超え!
このときは、かつての敵だった山名祐豊の支援を受けていたといいます。
祐豊もまた毛利家に圧されていたので、「敵の敵は味方」理論で味方したのだとか。織田信長につつかれたため、大々的な支援はできなかったようですが。
やはり旧主ということもあってか、鹿介をはじめとした尼子再興軍はあれよあれよという間に3,000人ほどの規模に拡大。
各地で勝利を重ねて勢力を強め、かつての本拠・月山富田城奪還にかかります。
以前やられたのと同じように兵糧攻めを仕掛け、一時は城内の毛利軍から投降者が出るほどでした。
山中鹿介は石見方面でも多くの城を攻略し、再興軍を6,000人ほどに拡大しています。
これに刺激されてか、同じく滅びていた大内家の旧臣たちも、お家再興のため周防(現・山口県)で活動を始めました。
この二カ国での動きを受けて、元就は「今は九州に勢力を伸ばす段階ではない」と判断。
毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らに大内再興軍への対処を命じ、封じ込みに成功します。
吉川元春に捕まり……脱出!
その後、毛利軍は、鹿介ら尼子再興軍の鎮圧に向け、出雲へやってきました。
まだ月山富田城を攻略できていなかった尼子再興軍は、布部山(現・島根県安来市)で毛利軍を追い返そうとしたものの、あえなく敗北。
月山富田城へ毛利軍が加勢してしまい、攻略が余計に難しくなってしまいます。
命の懸かった戦場で、旗色が悪くなれば、テンションが下がるのがお決まり。この影響で、尼子再興軍は下火になっていきます。
しかし、絶望的な状況でもありませんでした。
毛利では、絶対的存在・元就の死期が近づきつつあり、毛利軍の一部が撤退したため、まだまだ付け入る余地があったのです。
実際、月山富田城の攻略こそ成功しませんでしたが、島根半島の各所を制圧し、海運ルートを確保しています。
とはいえ、です。
水軍と言えば毛利とばかりに、水軍の増派を行うと、形勢は再び逆転。
尼子再興軍の拠点が次々と落とされ、尼子勝久は隠岐へ逃れ、鹿介はあろうことか吉川元春に捕えられてしまうのでした。
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しかし、鹿介は一度失敗したくらいでは諦めません。
元春の隙を突いて脱出し、勝久の後を追いかけて隠岐で潜伏。
しばらくしてからて但馬(現・兵庫県北部)に渡り、協力してくれそうな武将と連絡を取って、再起の機会を伺います。
わずか1000の兵で鳥取城を攻め落としノリノリ!からの~
元就が亡くなって二年ほどだった元亀四年(1573年)、鹿介は再び動き出しました。
但馬から因幡(現・鳥取県東部)へ攻め込み、桐山城(現・鳥取県岩美郡)を攻略して拠点にして、再び月山富田城を目指すのです。
このときも鹿介以下、尼子再興軍の士気は非常に高く、約1000人の攻撃兵で、5000人が籠もる鳥取城を攻略しました。
しかも、わずか2ヶ月程度というのですから驚きです。
ただし、その後、毛利軍に鳥取城を奪い返されたり、味方を調略されて勢力を弱めたりして、一筋縄では行かなかったのですが……まぁ、相手は百戦錬磨の毛利ですしね。
というか根本的に、鹿介の言動を見ている限り、長期的な視野が欠けているような気がしちゃいまして……。
事が起きてからの動きはとても早いのですが、このときも鳥取城を奪い返されてから柴田勝家に連絡を取ったりしています。
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どうせなら早いうちに(毛利家とぶつかりあう)織田家や大友家を味方につけておけば、最初からもう少し良い状況を作れたんじゃないかと。
地勢については鹿介たちのほうが詳しかったでしょうけれども、兵数で上回るのはほぼ不可能なわけですし……せめて戦略でなんとかしないといけませんよね。
中国地方での協力者は、情勢の変化などにより毛利家に滅ぼされたり、降伏したりして、ますます尼子再興軍は孤立化していきます。
こうして、二度目の再興運動も天正四年(1576年)5月には頓挫してしまいました。そして……。
信長を味方につけ新たな再興運動をスタートさせるも
「もっと力を持つ人物に協力してもらわなければ!」
二度の失敗を経て、鹿介はそういった考えに至りました。
織田信長を味方につけるために京都へやってきます。
運良く直接会うことができ、信長は鹿介を「良い男だ」と褒め、「四十里鹿毛」という駿馬を贈ったとか。
そして織田家の客将扱いとなり、信長の中国攻略の一部として尼子家再興を目指すことになります。
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鹿介たちは、まず明智光秀の軍に加わり、各所の城攻めにかかりました。
敗走する明智軍の殿を務めて光秀から褒美をもらったこともあり、光秀はもちろん、織田家内での存在感も強めていったと思われます。
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それを信頼されてか、松永久秀討伐では信長の嫡男・織田信忠の下で働いており、久秀配下の武将と一騎打ちで勝利を収めました。
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上月城が毛利の大軍に囲まれる
その後、秀吉が中国方面攻略担当になったため、鹿介たちは明智軍から豊臣秀吉軍に移ります。
鹿介たちは播磨西部の上月城を拠点とし、ここから尼子家再興を目指すことにしました。
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しかし、2ヶ月ほどして3万以上という毛利の大軍に包囲されてしまいます。
なんという不幸な展開なのでしょう。
秀吉は1万ほどを率いて救援に向かったのですが、最終的に信長から「そこはいいから他を攻めろ」という命令が来てしまい、上月城は実質的に見捨てられることに……。
信長はおそらく、「鹿介がうまくやれればそれでよし、うまく行かなくても捨て石にはなる」くらいの考えでいたのでしょうね。
鹿介が有能でやる気があったのは確かですし、信長としては遠慮なく使える手駒が増えて万々歳だったでしょうし。
ついでにいえば、もしも鹿介がうまくやって本当に尼子家を再興できたら、それはそれで恩を売れますので、世間では「信長は亡国の将を助けてやった慈悲深い大将だ」という評価を買うことができたでしょう。
尼子勝久もまた泣かせることを言うのぅ
上月城では救援が期待できなくなった上、兵糧が尽きたために逃亡者が続出するようになりました。
正面切って戦うのは不可能と判断した鹿介たちは、毛利軍への降伏を選択。
おそらくは、このときも鹿介は「またダメだったなら、もう一度逃げてやり直してみせる」と思っていたのでしょうね。
しかし、毛利もさんざん手を焼いていますから、今度はそうそう甘くありません。
彼らの出した降伏条件は、尼子勝久と弟・助四郎の切腹、及び鹿介と立原久綱(鹿介と同じく尼子再興軍の中心人物)を人質にすることでした。
鹿介は降伏に際し、勝久の命だけは助けてくれるよう、吉川元春と小早川隆景に懇願したそうです。
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ですが、返事は「勝久が腹を切れば、城内の他の者の命は助けてやる」というもの。
つまり、勝久一人の命と、城内の兵全員の命を天秤にかけろ、ということです。
鹿介は勝久に対し、涙ながらに
「私もお供をしたいのですが、吉川元春は特に憎い敵なので、せめて奴の寝首をかいてから殿のお後に従います」
と言ったとか。
これに対し、勝久もまた泣かせることを言うのです。

尼子勝久/wikipediaより引用
私は一時とはいえ、尼子の大将という栄えある立場に立つことができた。
だから、自分が腹を切って皆が助かるならばそれで良い。
それに、元春は知勇に優れた男だから、そなたの思うような機会は来ないだろう。
だからお前は私の伴などせず、尼子の血を引く人物を探して、もう一度当家再興を目指してほしい。
かくして毛利軍の要求に粛々と応じたそうで……。
鹿介は、心ならずも二度、主君と涙の別れをしたことになりますね。
備中松山城への連行途中で暗殺!されてしまった
鹿介は輝元が在陣する備中松山城に連行されるハズでした。
しかし、現在の岡山県高梁市で毛利氏家臣の福間元明に暗殺されてしまいます。
これだけ粘っていれば、毛利からの各所で恨みも買っていたでしょうし、無理もありません。
毛利家から見れば、鹿介らが尼子再興を早く諦めていれば、北九州のいくらかは手に入っていたかもしれないのですから。
鹿介には人格者だったと思しきエピソードが複数あるのですけれども、暗殺された直後にもこんな話があります。
彼が殺されたとき、側には二人の小姓がついていたそうです。
彼らは鹿介の遺体を川岸に葬り、その塚の上に桃の枝を差して「もし天に情けがあるのならば、この枝を大木となしたまえ」と念じ、二人とも切腹したのだとか。
その後、毛利の追っ手が二人の遺体を鹿介の塚に並べて葬ってやったそうです。
関が原での大谷吉継と湯浅五助、そして藤堂高刑(高虎の甥)を思わせる、武士らしい話ですね。
が、なぜかそのうち「この木を削って飲めば、瘧(※)が治る」と噂されるようになり、あっちこっちから人がやってきて削っていったので、その桃の木は枯れてしまったのだとか……。
病気が恐ろしいのはわかりますが、人の墓標になっている木を削るのも罰当たりというか、祟りがありそうで怖いとか思わなかったんですかね。
まぁ、真田お梅(真田幸村の娘)の墓も「歯痛に効く」という噂が立ってボロボロになってしまっていますし、類例はたくさんあるので、かつての日本では珍しくなかったのかもしれませんが。
※瘧(おこり)……蚊を媒介とするマラリアのことで、当時の日本では感染率・死亡率が高かった
「お家に尽くした悲劇の武将」として持て囃され
鹿介の他にもいた尼子旧臣は、亀井茲矩(かめいこれのり)という人物を中心として秀吉の家臣となり、戦国と江戸時代を生き延びたといいます。
ヒロイックなのは鹿介ですが、「自分の家を残す」という目的を達したのは茲矩や亀井家ということになりますかね。
鹿介は江戸時代に「お家に尽くした悲劇の武将」として講談でもてはやされるようになり、英雄視されるようになっていきました。
おそらく、鹿介は徳川家康たちとは戦っていないので、そういう扱いにしても問題なかったのでしょう。
また、
・幼い頃から文武両道
・勇猛な美男子
・鹿角の兜
・数々の名刀を所持していた
というような、わかりやすいトレードマークが複数伝わっているのも英雄化の理由と思われます。
天下五剣の一つ「三日月宗近」を一時所持していた説もありますね。
ただこれは「三日月に誓いを立てた」というエピソードから、後世になって結び付けられた可能性も高そうです。
話ができすぎてますし、そもそも三日月宗近は所持者や伝来に謎が多いですからね。
生まれ変わりがあるとすれば源平時代の武将かな
鹿介が所持していたとハッキリわかるのは「新身国行」という太刀です。
勝久との今生の別れの際に贈られたとされているので、ほんの一瞬ですけれども。
鹿介が暗殺された後、新身国行は秀吉に献上され、豊臣家が所蔵していました。江戸時代の記録に登場しないため、大坂落城の際に焼失したと考えられているようです。
三日月宗近や新身国行は、太刀(たち)と呼ばれるタイプの刀です。
源平時代などの一騎打ちが多く行われた時代に好まれた反りの大きな刀で、戦国時代では名物・美術品・宝物としての価値はあっても、愛用する人はさほど多くはありませんでした。
力自慢を誇示するために、太刀よりもさらに大きい大太刀というものを愛用した人もいますが、ごく少数派です。
室町時代以降は「打刀」というタイプが好まれています。
何がどう違うのかというと、太刀は長いため馬上からも相手を斬ることができます。
打刀は太刀よりも短いので、白兵戦や集団戦に向くとされています。
室町時代以降であれば、単純に「刀」といった場合はだいたい打刀です。時代劇などの殺陣で使われているのも、おおむね打刀でしょう。より短ければ脇差かと。
打刀が生まれたために集団戦が主流になったとも言えますし、その逆と見ることもできますね。
一騎打ちを得意とした鹿介が、三日月宗近や新身国行を持っていた、というのは辻褄が合うというか、合いすぎというか。
やってることといい、一騎打ちが得意なことといい。
鹿介は戦国時代というよりは源平時代の武将のようです。
輪廻転生というものが本当にあるのならば、源平時代の誰かの生まれ変わりなのかもしれません。
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【参考】
国史大辞典
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山中幸盛/Wikipedia












