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【織田信長】
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1578年3月、上杉謙信が亡くなった。
信玄に続いて、またもや土壇場で巨星の死。
しかもである。
その死因については酒肴のとりすぎによる脳出血との見方が有力であり、天寿を全うするというより突然死に近かったため、後継者を指名できないまま跡取り問題という遺恨を残してしまい、上杉家では、いずれも義理の息子である上杉景勝と上杉景虎による内乱が始まった【御館の乱】。
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言うまでもなく、これほどの千載一遇の好機はない。
織田信長は斎藤利治を派兵し、上杉軍相手の【月岡野の戦い】で勝利を得て、更には柴田勝家にも進軍を促し、加賀から越中へと進ませた。
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かくして自然と出来上がっていったのが、家臣たちによる「方面軍」である。
畿内中央から全国地方へ。
部下たちに効率よく地域支配を進めさせるため、織田家では自然発生的に「方面軍」が設置された。
この「方面軍」という呼び方は現代に生みだされた歴史用語であり、考え方そのものは単純。各軍団長に作戦の裁量を与え、自由に攻略させたのである。
細かな指示をその都度送ってヤリトリしていたらコトが進まない――という極めて合理的な考えからであろう。
先の柴田勝家などはその代表であり、北陸方面から越後を担当していたことはよく知られた話である。
他の武将たちは以下のように任ぜられた。
織田家の方面軍
後の豊臣政権を考えると前田利家の名前がないのが、いささかシックリしないだろうか。
利家はこのとき柴田勝家に従い、北陸の攻略に携わっている。つまり加賀百万石の礎はこのとき出来ている。
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近畿担当が明智光秀というのも、後の本能寺へと続く道筋となっていて興味深い。
ただ、漠然とこんな印象をお持ちになられないだろうか。織田信長は、部下に大軍を預けて、「裏切られる」という懸念はなかったのか?と。
実はそういう鷹揚なところも織田信長の一つのキャラクターと思えて仕方がない。
むろん、日頃は安土城で政務を取っており、いざというときの守りも万全であっただろうが、一方で本能寺をはじめとする寺に泊まることも珍しくなく、後の明智光秀にしてみればこうした状況が日頃から念頭にあったのだろう。
織田信長はともすれば、戦国武将で理想の上司ランキングを集計すると必ず「恐怖の対象」となるが、実績だけ見ればむしろ逆。
働く者には自由を与え、結果を出せばよいという考えのようだ。しかも戦場では自ら前にでる。
出世欲の強い部下にとっては理想の上司かもしれない。
ちなみに佐久間信盛は、石山本願寺の攻略戦で結果が出なかっただけでなく、努力を惜しんで連絡すらよこさなかったことを織田信長に指摘され、更には「死ぬ気でドコかの領土を切り取るか、それとも高野山に引っ込むか?」というチョイスを用意され、自ら出ていった。
その一方で、石山本願寺の攻略は破格に難しく、佐久間でなく他の武将でも無理だっただろうという見方もある。
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鉄甲船と中国進出
1578年4月、織田軍は本願寺(大阪)へ出陣した。
嫡男の織田信忠が大将となり、従う者は明智光秀や滝川一益、丹羽長秀などの重臣たち。
同年3月に上杉謙信が亡くなっていたことは、同軍の出陣後に知らされたことになっていることからして、すでに兵力には相当の余裕があったのだろうか。
いざ織田方に謙信の死が報告されると、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀の3名は丹波(京都府北部)へ進軍することとなった。
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かように織田軍の勢力が安定して、方面軍が組まれたまではよい。
問題は羽柴秀吉であった
秀吉が請け負った山陽山陰方面の攻略は、毛利元就の作り上げた毛利大国が控えており、武田家や上杉家を相手にするのと同等の厳しさであった。
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秀吉は『軍師官兵衛』でお馴染みの黒田家を利用して、まずは播磨の制圧に取り掛かる。
そして、当初は地元の国衆から人質を提出させたり、現代では天空の城でお馴染みの竹田城を攻略して弟の羽柴秀長(豊臣秀長)を城代として入れるなど好調であった。
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前述の通り、前年(1577年)には上月城の攻略にも成功しており、「我に七難八苦を与えたまえ」の台詞で知られる山中鹿介(山中幸盛)を、主君の尼子勝久と共に入城させている。
尼子にとっては悲願の同家再興の機となった。
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秀吉にしてみれば、先の手取川の戦いの際、独断で戦場を離れて織田信長の怒りを買い、必死に播磨攻略に打ち込んだのは、これも前述の通り。
一方、織田信長も上機嫌になって、茶器(乙御前の釜)を褒美として秀吉に渡している。
ちなみに、1578年の年初には、五畿内ならびに周辺諸国の武将たちが安土城に招集されて新年の挨拶と同時に茶会が開かれている(織田信忠ほか、細川藤孝や明智光秀、荒木村重、羽柴秀吉などが参加)。
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また、織田信長の出費で、宮中の節会(せちえ)なども久方ぶりに開かれ、天皇を崇敬している様が『信長公記』にも記されている。
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しかしこうした平和は長く続かなかったのである。
村重突然の裏切り
播磨(兵庫県)は、石山本願寺(大阪)から見て西方に位置しており、下手をすれば退路を断たれかねない立地。西と東から挟撃されるリスクを伴っている。
当初は織田方だった播磨三木城の別所長治も、毛利方についており、にわかにその危険性は高まっていた。
別所長治は織田信長に数回の拝謁をするなど、播磨平定での大きな足がかりとなっていただけに事態は決して軽んじられず、そしてその約1ヶ月後、実際に毛利の本隊も動く。
毛利輝元・吉川元春・小早川隆景・宇喜多直家という名だたる将たちが上月城を囲んだのだ。秀吉が攻略し、尼子一族が入っていた城である。
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三木城の攻略に取り掛かっていた秀吉は、すぐに上月城へ向かったが、谷と川に遮られて手出しが出来ず。
結局、織田信長の指示により上月城は事実上見捨てられ、尼子勝久は自害して果て、山中鹿介も後に殺されるのであった。
苦境はまだ終わらない。
同じく1578年10月、石山本願寺を囲んでいた荒木村重が突如として織田を裏切り、摂津の有岡城(伊丹城、兵庫県伊丹市)に籠城したのである。
まだ野望を捨てていない足利義昭の働きかけもあり、毛利と同時に村重も動いたのであった。
その説得に向かった黒田官兵衛が約1年に渡って村重に幽閉され、織田信長に「裏切り者!」と勘違いされたのは有名な話であろう。
このとき人質に取られていた官兵衛の息子(後の黒田長政)に殺害命令が下され、竹中半兵衛が独断で匿っていたというのもよく知られた話だが、実際のところ半兵衛の独断ではなく、秀吉も把握していた可能性が高いと思われる。
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このとき織田信忠の軍勢により、石山本願寺の攻略はかなり進んでいたが、有岡城が反目に回れば途端に息を吹き返しかねない。ましてや秀吉の中国侵攻も覚束なくなる。
むろん毛利方にしても正念場であり、瀬戸内海の毛利水軍―有岡城―石山本願寺ラインで織田を食い止めることは、自国の防衛にも適っていた。
そして両軍は衝突する。
いわゆる第二次木津川口の戦いだ(1578年11月)。
木津川口の戦い
同合戦で最も有名なのが、織田信長が考案したという鉄甲船であろう。
毛利水軍の焙烙玉に対抗するために作られた――とされる鉄製の巨船であり、九鬼嘉隆の九鬼水軍に託されていた。
ただ、この「鉄製」というのは真偽の程がかなり怪しい。
鉄で覆われていたという表記は『多聞院日記』に記載されているのみで『信長公記』にはない。
重要な部分だけ鉄で覆ったなどが考えられるが、かなり大きな船であったことは間違いなく、しかも「大砲」を備えていたというから(その威力については疑問ながら)、小型船ならば相手にならなかったであろう。
実際、この大型船が建造され、和歌山沖に繰り出したところ(2ヶ月前の9月)、毛利水軍との激突前に雑賀衆の船に鉄砲や弓矢などで攻められたことがあった。
和歌山を本拠とする雑賀衆は、もともと水運にも長けていたという見方があり(その流通経路が発達して鉄砲を多く入手するようになったとも)、決して弱い相手ではない。九鬼水軍は瞬く間にこれを撃退するのである。
そして迎えた11月、第二次木津川口の戦いが起き、九鬼嘉隆は600艘もの毛利水軍を一方的に退けるのであった。
戦いは「辰の刻(7-9時)から午の刻(11-13時)」というから数時間で終わったのであろう。数では圧倒された九鬼水軍だが、大砲を駆使して敵船体を大破させ、戦意喪失したところを撃破しまくった。
同海戦を見物していた庶民たちは感嘆としたそうである(信長公記より)。
戦争を見物する人々というとなんだか急に牧歌的な風景がアタマに浮かんでくるが、実際、合戦があると庶民はエンターテインメントとして見物していた(戦いが終わると落ち武者狩りをはじめる怖い観客でもあった)。
織田信長はこの巨船が完成した時点、つまり開戦前に、九鬼嘉隆へ「黄金」や「衣類」など大量の褒美を贈り、更には加増もしている。
船をみて勝利を確信して、よほど嬉しかったのだろう。おそらくや戦後も多大な褒美が渡されたハズだ。
有岡城の攻略
木津川口の戦いに勝利した織田信長は、同月(1578年11月)、摂津へ出陣した。
茨木城と高槻城での付城工作(砦の設置)を進めたのである。
両城には、荒木村重の謀反に従い、高山右近(高槻城主)や中川清秀(茨木城)が立て籠もっており、大軍で囲むと同時に両武将の調略を開始。
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まず、キリシタンの高山右近については宣教師や羽柴秀吉、佐久間信盛を遣わして、「降伏するなら布教を認めるが、反抗するならこれを禁じる」とし、中川清秀の茨木城には、利休七哲として著名な古田織部(重然)ら四武将を送り込んだ。
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織部と中川は親類であり、いずれも籠絡に成功する。
瞬く間に孤立するようなカタチとなった荒木村重。
後の村重・妻子らの、あまりに凄惨な最期を思うと、なぜこのときに有岡城の村重も降伏することができなかったのか。
高山右近や中川清秀が、織田信長から褒美まで貰っていることを考えれば、あるいは命は救われたかもしれない。
と、後世の我々には不思議に思えて仕方ないが、村重は村重で毛利の救援を信じており、その判断が鈍ってしまったようだ。
有岡城は二重三重に掘や柵が設置され、織田軍の厳重な警戒が続く。
こうした包囲網は約1年続き、1579年9月、村重が突如として有岡城から(救援を要請するためか)逃亡すると、あとはもう為す術がなく落ちるのみであった。
兵は次々に討ち取られ、城代だった荒木久左衛門も11月には開城を決意。まだ反織田方であった「尼崎城と花熊城」の両城を開城させるため、久左衛門は尼崎城にいる荒木村重の説得工作に向かう。
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と、これが不可思議なことに村重は一向に対決の姿勢を崩さない。
両城を明け渡せば、有岡城で人質となっていた妻子らは助ける――という条件が提示されたのに、それでも村重は応じなかった。
そこで歴史に残る凄惨な見せしめが行われる。
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