斎藤道三/wikipediaより引用

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斎藤道三(利政)マムシの生涯63年まとめ! 最期は息子に殺された

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弟二人を殺し、さらに長良川で決戦

義龍からすれば、正式に家督を譲られた上(譲ってない説もあります)、息子・斎藤龍興もいて跡継ぎに困っていないのに、このような冷遇ぶりは許せません。

道三から見て孫にあたる斎藤龍興が病弱で、家督を継げなさそうだというなら話は別です。

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が、それならそれで義龍にもう一人か二人息子が生まれるのを期待するほうが穏当なやり方でしょう。

あるいはダメとなった時点で「じゃあ孫四郎か喜平次(あるいは彼らの息子)に」というなら、義龍の反感もそこまで大きくはならなかったはず……たぶん。

いずれにせよ、家族の中で孤立してしまった義龍は、父にも弟にも憎悪しか抱けなくなります。

そしてまずは孫四郎と喜平次の弟二人を呼び出して殺害し、その後、ついに親子は合戦に至ります。

その戦いこそが【長良川の戦い】です。

戦国時代とはいえ親殺しは相当な行為です。

武田信玄が父親の武田信虎を追放して非難されたぐらいですから、殺害というのはよほどのもの。

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事の次第を知った織田信長も自ら援軍を率いて美濃へ急行しましたが、それより早く道三の首と胴が離れてしまいました。

このとき出兵した信長が尾張へ引き返すとき、退路を確保するため自ら殿しんがりを買って出た――なんて話が『信長公記』に出ています。

大将自らとは、にわかに信じがたいですが、道三という後ろ盾を失った織田信長が、家中引き締めのためにクソ度胸を発揮したとも考えられますね。

なんせ若いときの信長さんは、戦場で自ら前に出て戦ったりすることも多々ありましたので……。

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いずれにせよ尾張へ帰国した信長。

今後は再び美濃とも対決モードで挑まなければならなくなったのですが、それから五年後の永禄四年(1561年)、織田家にとっては幸運にも斎藤義龍が急死し、息子の斎藤龍興もまもなく信長に敗れ、最終的に美濃国は織田氏のものとなりました。

長良川の戦いから一連の出来事は以下の記事に詳しいのでよろしければご覧ください。

長良川の戦いでマムシと激突! その後の高政(義龍)&龍興はどうなった?

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美濃と尾張で「身の終わり」って意外とシャレにならん

少し脱線しますが……。

「美濃尾張=身の終わり」という言葉遊びがあります。

元ネタは平安末期――。

源義朝を討った長田忠致という武士が、時が流れて源頼朝が挙兵した際に源氏軍へ参陣したところ、「働けば美濃尾張をやろう」と言われたことに由来します。

しかし、平家が片付いた後に頼朝は忠致を討ちました。

頼朝いわく「約束通り”身の終わり”をやろう」だとか……ダジャレじゃんとか言わない。

ただ、この周辺エリアでは、神話や歴史上の出来事が多いのもまた事実なんですよね。

◆神話の時代には、ヤマトタケルが伊吹山(滋賀県と岐阜県にまたがる山脈の主峰)の神をナメて返り討ちに遭いました

◆飛鳥時代には【壬申の乱】における激戦地が不破の道(現在は”県指定史跡・不破の関跡”になっているあたり)

◆美濃と尾張を手に入れた信長は【本能寺の変】で斃れ、関が原の戦い本戦も美濃です

豊臣秀吉は、信長死後に美濃で戦ったことがありますが、領地にしていたことはないので除外ということで

◆ついでにいえば、江戸時代にこの辺を領していた尾張藩は、御三家筆頭でありながら、唯一・一度も将軍を輩出できませんでした

オカルト的な話ではありますが、ここまでいわくが重なるとちょっと不気味ですね。

もうちょっと地政学寄りのお話をいたしますと、古代には不破の関・逢坂の関(現・滋賀県大津市)・鈴鹿の関(現・三重県亀山市)の東を「東国」と言っていましたので、近畿圏と東方が交わる地点ともいえます。

だからこそ東西の陣営がぶつかり合うことが多く、上記のような歴史が生まれやすかったわけです。

そこに縁起云々を感じるかどうかは、皆様個々人の感性におまかせするということで。

 

実は皇室にも血がつながっている!?

最後に、道三の血統のお話を少しだけしておきましょう。

大名としての斎藤氏は龍興の代で終わりましたが、道三の血筋は複雑に枝分かれしています。

例えば、江戸時代には旗本になった者や、臼杵藩主になった系統など、実は道三の血は長く細く続いていました。

なんと、公家に嫁いだ女性の系統から皇室にも繋がっています。

ホントに歴史上の「滅亡」と「全滅」は全然違いますね。何か新しい言葉を作ったほうがいいんじゃないかという気もしてきます。

んでここから先は、ちょいとマニア向けなお話。

「下剋上は道三が一人で成し遂げたものではなく、道三の前半生とされる時期のことは父親の功績だった」

そんな説が持ち上がってきて、また違った注目を浴びているのです。2020年大河ドラマ『麒麟がくる』でも同説が取り入れられておりましたね。

道三の二人説が持ち上がってきたのは、近年見つかったとある手紙が発端です。

出自に深く関わることもあるので、少し詳しく見ておきましょう。
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