真田昌幸

真田昌幸/wikipediaより引用

真田家

真田昌幸は誰になぜ「表裏比興」と呼ばれたのか 65年の生涯で何を成し遂げた?

2016年の大河ドラマ『真田丸』。

主役の幸村を喰ってしまったのが、慶長16年(1611年)6月4日に亡くなられた真田昌幸でしょう。

主人公の父でありながら、あまりに濃厚なキャラクターは、草刈正雄さんの熱演もあって、絶大な人気を博しました。

 

もちろんこの像はフィクションですが、時代考証担当者が丹念に集めた史料をもとに、築き上げられたキャラクターでもあります。

三谷幸喜氏の筆力、スタッフの力量、草刈正雄さんの熱演あって誕生しました。

謀略と共に立場をコロコロ変え、ときに「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」とも称されるこの昌幸。

史実ベースで見ても、上司にはしたくないというか、あまりお近づきにはなりたくないというか……正直どうなのよ?と思うような部分もあります。

では、一体過去に、どんな所業があったのか?

本稿では、史実の真田昌幸像にメスをいれるべく、彼の一生を追ってみたいと思います。

 


三男として生まれた真田昌幸

天文16年(1547年)、真田幸綱(真田幸隆)の三男として源五郎が生まれました。

母は正室の恭雲院で、河原氏のむすめ

河原氏は真田氏または同族の海野氏家臣とされています。

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のちに宿敵となる徳川家康は、天文11年(1543年)生まれで4歳上です。

関ヶ原の戦いにおいて、戦えるほどの若さも残しながら、老獪さも備えている。そういう年齢層だと頭の片隅に置いてくだされればと思います。

そんな源五郎が誕生した時は、父の幸綱が武田氏について、実力を発揮していた時代にあたります。

幸綱の長兄・真田信綱には、武田氏傘下に入る前の苦い記憶があったかもしれません。

しかし、10歳年下の弟・源五郎ともなるとそんなものはありません。

代わりにじっくりと目にしたのは、威風堂々とした主君・武田信玄の姿でした。

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天文22年(1553年)。

真田氏がついに念願の本領回復を果たしたその年。

源五郎は人質として、武田氏の本拠地である甲府に送られました。

奥近習衆(主君の身の回りの世話をする)となり、信玄の姿を間近で見る機会を得たのです。

そしてその後は、武田一門に連なる武藤氏の跡を継ぎ、武藤喜兵衛尉と名乗るのでした。

16歳で初陣を飾る真田昌幸(武藤喜兵衛尉・歌川国芳作)/wikipediaより引用

こうした幼い頃の経験は、彼自身に大きな影響を与えたことでしょう。

国衆の三男でありながら、武田氏の若きエリートとして成長する。そんなアイデンティティが形成されたと思われます。

幼い頃から育まれた武田信玄への敬愛を、彼は忘れることができませんでした。

 


武藤喜兵衛尉から真田安房守へ

彼の父や兄は、武田家臣として目覚ましい活躍を遂げておりました。

特に、上野吾妻郡攻略における、真田氏の活躍は際立ったもの。岩下城を攻略して岩櫃城に入り、吾妻郡を掌中におさめたのです。

真田一族の多大な貢献を評価し、信玄は吾妻郡の支配を委ねました。

猛者揃い武田氏の宿老として小県を支配していた国衆の真田一族が、北上野という複雑な地域の支配を担うようになったのです。

北は越後の上杉謙信

南は相模武蔵の北条氏康

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強敵に挟まれた――この位置取りが後々大問題となっていくことを頭の片隅にでも置いていただけると助かります。

永禄10年(1567年)頃、父の真田幸綱が隠居し、家督を嫡男の真田信綱に譲りました。

そして天正元年(1573年)、武田信玄が没すると、翌天正2年(1574年)には幸綱も没します。

武田勝頼と真田信綱の時代はかくして始まるのですが……これが波乱の幕開けでした。

天正3年(1575年)、三河・長篠の戦い――。

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織田徳川連合軍を相手にしたこの激戦で、兄の真田信綱とその次弟・真田昌輝が戦死してしまったのです。

ダメージを負ったのは真田一族だけではありません。武田家臣の多くが失われる、大変動となる戦いでした。

源五郎改め三男・真田昌幸の運命も激変します。

兄・信綱には男子がいたものの、まだ幼すぎました。一族を束ね、武田を支えるにしては、あまりに頼りない。

かくして真田一族の当主は、武藤氏を継いでいた三男・昌幸が継ぐこととなったのです。

信綱の男子は幼すぎるため、勝頼が直々に昌幸を指名したのでした。

 


「沼田領問題」が始まった

武藤から真田へ――運命が激変した後、ターニングポイントは天正7年(1579年)に訪れます。

この年、上杉謙信が没すると、後継者の座を巡って上杉景勝と上杉景虎が対立しました。

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勝頼は逡巡します。

はじめのうちこそ景虎支援でした。景虎は、関東・北条氏康の息子であり、謙信の養子となっていたのです。

北条側との対立を避けるためにも、景虎支援の立場でおりました。

しかし、後に景勝側からのアプローチを受けると、態度を中立へと変更したのです。

結果、4月に景虎が自刃して、景勝の勝利が確定。

勝頼は、北条と敵対するかどうかは、迷っていたことでしょう。積極支援ではなく、消極和解で、あくまで中立の態度だったわけです。

しかし、弟・景虎を失った北条氏政からすれば、そんなものは苦しい言い訳に過ぎません。

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北条氏から上杉家に入った景虎ではなく、その敵対者である景勝に味方するとはいかなる所存か! そう受け止められ、結果、武田と北条の間にあった「甲相同盟」の破棄へと事態は進んでいきます。

両国の同盟は、信玄時代から振り返ってみても付いたり離れたり不安定で、この一件を機に、完全に破棄されたと言えます。

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こうなると、外交方針を切り替えねばなりません。

佐竹義重との間に【甲佐同盟】を締結。

上杉家の新当主である景勝のもとへ菊姫(武田信玄五女)を嫁がせました。

今度は、長年の宿敵だった武田と上杉が関係を結び【甲越同盟】となったのです。武田と北条の決裂は決定的でした。

となると、一番の影響を受ける者は誰か。

先程の地図を思い出していただければおわかりでしょう。

自領(上野吾妻郡)が北条に隣接している昌幸です。

もちろん怯む昌幸ではありません。それどころか【北条ロックオン!】の姿勢が見え始めます。

第一は、天正7年(1579年)末頃に変えた通称でしょう。

「喜兵衛尉」から「安房守」へ。

ただの改名なんかではなく、彼および主君の動向と重なりました。上野沼田領を虎視眈々と狙っていた昌幸にとって「安房守」は宿敵の通称でもあったのです

宿敵とは、北条氏邦。

北条氏康の四男で、当主・氏政の弟でもある氏邦は、北条一門の御曹司でした。

その相手に敵意を示す通称を選んだのです。

年が明けて天正8年ともなると、昌幸は沼田城の本格攻略に着手しました。

このころ昌幸の宿敵との因縁も生まれております。

天正7年、徳川家康の嫡男・松平信康が自刃。その母・築山殿(瀬名姫)が殺害されました。

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原因は諸説あるものの、その背景には武田の影もあったのではないか――とされています。

真偽はともかく、武田と徳川の間にも対立の芽は生じていました。北条は武田との対抗上、徳川との連携を探っていたのです。

周囲の状況を一度整理しておきましょう。

武田を取り囲んでいる勢力は、

北条
上杉
徳川

のビッグネーム3家。

真田氏の領土は、何度地図で見ても、頭痛がしてきそうな位置ですよね。

まさに混沌とした交通の要衝。昌幸の父・幸綱の代から苦労を重ねて来たものでした。

昌幸の性格は、「表裏比興」はじめ、当時から信頼ができない奴と評価されて来ました。

「こんなところに自領があれば、仕方ないんじゃあ!」と、彼にかわって主張したいところです。

平山優氏『武田三代』付録地図が非常にわかりやすいのでで、ぜひともご覧ください。

想像するだけで胃に穴があきそうな――そんな昌幸の状況をご理解いただければと思います。

彼の波乱万丈な生涯にとって、虎視眈々と狙う「沼田領」は、非常に重要なポイントでした。

 

武田家滅亡

昌幸の主君である勝頼は、このころ深刻な状況にありました。

天正8年(1580年)の時点で、運命のカウントダウンは始まっていたのです。

織田信長とその同盟者である徳川家康の力は増し、圧迫感を強める一方。

武田勝頼は、追い詰められていくのです。

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2016年大河ドラマ『真田丸』は、この滅亡前夜から始まります。

あのとき昌幸は、勝頼の前で調子の良いことを言いながら、家族の前であっさりと「武田は滅びるぞ」と宣言しており、その表裏比興の者っぷりに視聴者は度肝を抜かれたものです。

武田の宿老として、昌幸は察知できていたのでしょう。

天正9年(1581年)末、勝頼は躑躅ヶ崎館から新府城への本拠移転を決意します。

しかし、改革は遅きに失しておりました。

運命の天正10年(1582年)が開けると、妹婿にあたる木曽義昌が反旗を翻します。

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それだけならまだしも重臣である穴山信君(梅雪)も続きました。

このころ浅間山も噴火して、まさに踏んだり蹴ったり。当時の天変地異は、運命であるとして重く受け止められたものです。

『真田丸』初回においてこの噴火が取り上げられたのも、まさに運命的な演出でした。

外からは織田信忠の侵攻。

内側からは相次ぐ謀反。

つまり……。

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