画・富永商太

豊臣家

石田三成~日本一の嫌われ者を再評価! 豊臣を背負った忠臣41年の生涯

怜悧で狭量、人望に欠け、豊臣の天下を潰してしまった男――。

かつて石田三成のイメージと言えば悪性評価の一辺倒でした。

しかし最近では「義を貫いた忠臣」という良性三成像も着実に広まっており、人気を取り戻しつつもあります。

では、変わりつつある三成の実像とは一体いかなるものか?

本稿では史実ベースでの彼の足跡を追ってみたいと思います。

 

身長156センチ 石田三成の骨格は華奢

石田三成は永禄3年(1560年)、近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)にて誕生しました。

父・正継は石田郷の土豪であり、浅井家に仕える身。三成は二男にあたり、幼名を佐吉(左吉という表記もあり)と言います。母は浅井家臣・土田氏の娘でした。

元亀元年(1570年)浅井家は、織田信長徳川家康連合軍の前に敗北し、滅亡します【小谷城の戦い】。

小谷城の戦いを城郭検定保持者の城マニアが分析!山城の攻め方&守り方のセオリー

続きを見る

浅井長政は、淀殿(茶々)の父親です。

関が原の戦い前後となると、石田三成と淀殿の関係が注目され、“浅井氏の姫と家臣”としてのつながりを強調するものもありますが、実際のところは不明です。

浅井長政29年の生涯をスッキリ解説! 血は皇室へ続いた【信長を裏切った男】

続きを見る

主君の滅びた石田家の者たちは、その後新しくやってきた、織田信長の家臣・羽柴秀吉豊臣秀吉)に仕官します。

そこで注目されるのがこのエピソード。三成少年期といえば、とにかく「三献茶」が有名です。

豊臣秀吉 62年の生涯まとめ【年表付き】多くの伝説はドコまで本当か?

続きを見る

残念ながら、このお話は別人のものであるとか、そもそも史実ではないとされています。

旧浅井家臣の子に過ぎない青年が、電撃出世をするはずがない、よほど賢かったのだろう――という後世の憶測が、このエピソードを生み出したのでしょう。

※ちなみに三成よりも早くこの三献茶と同じことをしたエピソードが島津家配下の種子島一族にあります・参考までに

【戦国武将の賢夫人】古田御前~三成の三献茶エピソードの元祖は彼女?

続きを見る

「三献茶」伝説はともかく、三成が仕事のデキる男であったことは確かです。

小姓として仕官したのち、二十代前半で有能な家臣として、他家にまで知られるようになります。

加藤清正福島正則といった猛将とはひと味違い、事務系の仕事に適性を見せる三成。賢さを主君に見抜かれ、出世を遂げていた様子がうかがえます。

ちなみに三成は、遺骨をもとに複顔したため、身長や顔つきが判明しています。

身長は156センチで骨格はかなり華奢。江戸時代の記録によると、色白、目が大きく、睫は濃く、声は高かったとのこと。

復元された顔も無骨というよりも穏やかです。

近年演じた俳優の中では、『真田丸』の山本耕史さんが最も近い容姿ではないでしょうか。

 

若きエリート官僚・石田治部少輔

石田三成の名が他家にまで知られ、彼の名による“発給文書”が見られるようになるのは天正10年(1582年)頃から。

武田勝頼と武田家が滅亡し、【本能寺の変】で織田信長が倒れ、羽柴秀吉が天下取りへと邁進するようになった時期からです。

本能寺の変、真相は? なぜ光秀は信長を討ったのか 有名諸説を徹底検証!

続きを見る

山崎の戦い】や【賤ヶ岳の戦い】あるいは【小牧・長久手の戦い】など。

合戦のみならず政治活動でもライバルを倒し、天下を目指す秀吉。

三成も武功をあげますが、やはり彼は戦場よりも外交や内政で存在感を示すタイプでした。

天正13年(1585年)に秀吉は、従一位関白に就任します。

三成もこのとき、従五位下治部少輔に叙任されています。三成26才の時でした。

このころ担当した大事な役割は、対上杉家との交渉です。

当時の上杉家は、危機を脱したところ。

織田信長と対峙し、武田家の次は自分たちが滅亡すらのではないか、とすら考えていた上杉家です。ところが急転直下の本能寺により窮地を脱し、その後は天下人となる秀吉に接近を開始してました。

とはいっても、上杉家は始めから秀吉に臣従すると決めていたわけでもなく、両者には緊張感が漂っていました。

よく三成は人付き合いが悪く横柄だとされますが、重要な外交交渉を担う者が本当に無愛想で、取り付く島もないような人物であるとは考えにくいです。

むしろ彼は細かい気配りのできる一面も持ち合わせていたのではないでしょうか。

なお、三成と上杉景勝およびその家老である直江兼続が親しいという描写が、フィクションではよく見られます。

直江兼続の真価は「義と愛」にあらず! 史実に見る60年の生涯まとめ

続きを見る

残された三成→景勝宛の書状を見ると、なかなか親しげな様子のものもあるようで、天正14年(1586年)の景勝上洛の際には、三成が出迎えています。

ただし、彼の外交官としての活躍は上杉家に対してのみではなく、他の多くの大名家に対しても外交窓口として活躍しています。信頼できる外交窓口としての三成像が見えて来ますね。

この年、三成は堺奉行に任じられました。前任者の松井友閑とは親子ほどの年齢差があり、彼がいかに若くして重責を任されていたかがご理解いただけるでしょう。

結婚時期は不明ですが、この頃にはしていたと思われます。

相手は宇多頼忠の娘。実は、真田昌幸の正室も宇多頼忠の娘という説があります。

真田昌幸~表裏比興と呼ばれた幸村の父・65年の生涯~真田丸で草刈正雄さん

続きを見る

この説に従えば、三成と真田昌幸は、妻が姉妹同士で義理の兄弟ということになります。

 

九州仕置から小田原征伐、そして検地と次々に

秀吉が天下を統一するにあたり、三成はますます忙しくなります。

九州の仕置き、後陽成天皇の聚楽行幸への対応、関東の北条氏攻め【小田原征伐】、そして検地。

ときに天皇を粗相なくもてなし、ときに大軍勢を率いて行軍するための輸送を徹底する――そんな実務能力を次々に求められるのです。

小田原征伐で秀吉相手に退かず! 北条家が強気でいた小田原城はどんだけ強い?

続きを見る

外交担当としても忙しい日々が続きました。

秀吉が再三止めても蘆名氏を滅ぼした奥州の伊達政宗への対応。
出羽庄内で対立する上杉氏と最上氏への対応。

こうした「奥羽仕置」では、不満を持つ者による一揆も続発し、三成はこの対応にも追われています。

彼の性格が「義の人であったか?」というのはとりあえず横に置くとしても、この高い実務能力はきちんと評価すべきでしょう。

日本史の授業で習った秀吉の革新的な政策の数々を、実行に移していたのは三成ら官僚です。

大変な仕事量です。

そしてこの三成の役目が、彼の嫌われる一因かもしれません。

天下人秀吉の意志で行われて処理であっても、秀吉に怒りをぶつけることができずに、執行者である三成に怒りや苛立ちが向かってしまう、と……。

中間管理職の苦悩が三成にはつきまとっていたのではないでしょうか。

 

そして文禄の役が始まった

秀吉の天下統一に伴い、豊臣に従属する者たちも大名として転封されます。

三成は美濃国内に10万石程度で封じられました。

そして文禄元年(1592年)。
秀吉は「唐入り」、すなわち朝鮮出兵を行うことになります。

参戦者は大変な苦労をしたことで知られるこの戦役。中でも、超大軍の兵糧や船舶輸送を管理した三成の仕事量は、膨大なものであったはずです。

渡海しない大名たちも、肥前名護屋城に滞在していたわけで、ともかく大変なことです。

15万の豊臣軍が名護屋城から朝鮮出兵~なぜ秀吉はこの地に超巨大城郭を築いた?

続きを見る

しかも同年3月に渡海した三成が直面したのは、厳しい戦況です。

名護屋にいた頃に想定していたものより、状況ははるかに深刻でした。

三成は漢城に入ると、諸将に秀吉からの命令を伝える役目を果たし、膠着した戦況の中、渡海したまま年を越します。

翌文禄2年(1593年)には、渡海先で“碧蹄館の戦い”や“幸州山城の戦い”に参戦。後方支援だけではなく、戦闘にも参加しています。

三成のいる漢城は、凄惨な状況でした。

人馬の死体が積み重なり、生き残る者も飢えてやせ衰え、まさにこの世の地獄です。もはや漢城の支配を継続することは不可能でした。

このまま、ただ撤退すれば、そこを追撃されて大損害を被ります。

もはや明との休戦交渉しか活路はありません。

やむをえず三成は、明軍の講和使・謝用梓・徐一貫を伴って肥前名護屋に向かうことになりました。

この和睦は、偽りだらけでした。

謝用梓・徐一貫は明の正式な使節ではなく、参将に過ぎません。また日本側は「明の征圧には至らないものの、降伏させた」と偽ることで、秀吉の怒りを抑えようとしていたのです。

所詮は、偽りの和睦です。日本が勝利を前提とし、明の皇女降嫁や朝鮮王子を人質とする非現実的な条件をつきつけたため、交渉難航は必至……。

これに関わった三成らの心労を想像すると恐ろしくなります。
※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-豊臣家
-,

© 2020 BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)