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【幕末に頻発した大地震】
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倒壊事例は枚挙にいとまナシ
しかも、これはあくまで「火災で焼失した」面積です。
他に倒壊した家屋や地形が変わってしまったところも数え切れないほどあったということです。
一例を挙げると……。
・現在の日比谷から神田神保町あたりまでにあった大名屋敷が全壊
・文京区小石川にあった水戸藩邸で、藩主の側近戸田忠太夫と藤田東湖が圧死
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・旗本や御家人(直接幕府に仕える武士)の80%家を失くして路頭に迷う
・「こち亀」の舞台、亀有周辺で田んぼや畑が隆起するわ沼になるわで農民の収入がピンチ
・江戸城の櫓(やぐら)や門、石垣などが崩れる
などなど、枚挙に暇がありません。
江戸城の天守は大丈夫だったの?
と思われるかもしれませんが、実は、過去に大火事が起きて焼け落ちた時、保科正之さんの判断により再建を取りやめていたのですね。
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この時が一番感謝されたんじゃないでしょうか。
まさか外国と交渉中に、ボロボロの天守なんて見せられませんから。
というわけで大名屋敷も多く焼けてしまい、気になるのがトップたる将軍の安否です。
揺れが収まるなり、家臣や使用人たちに屋敷を任せ、江戸城へ走る大名が多かったそうで。
幕府には斜陽の兆しが見えて久しい頃の話ですが、「地震加藤」(※)がたくさんいたのは将軍にとって心強かったかもしれませんね。
たとえそれが、後継者争いの一因だったとしても……。
ともかく、将軍・徳川家定(篤姫の旦那さん)は無事でした。良かった良かった。
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※地震加藤とは……加藤清正が石田三成とのケンカが原因で謹慎をくらっていた頃、伏見大地震が起き、処罰覚悟で秀吉の下に駆けつけたところ許されたという話。実は清正より早く駆けつけたのが細川だったけど、身一つで来たのであんまり役に立たなかったとか……
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地震が明治維新を起こした?
江戸全体での人的被害はいかなるものだったか?
というと、当時の戸籍は今ほどしっかりしたものではないので、なんとも言えないのですが、犠牲者は数千人とも1万人前後ともいわれています。
甚大な被害があったことには変わりませんね。
まさに内憂外患ここに極まれりといったところですが、幕府は最後の力を振り絞って復興に当たります。
復興=荒稼ぎできるぜ!と目論む大工・職人に「ふっかけるんじゃないよ!」と命じたり(高値禁令)、炊き出しや備蓄米の供給などを行いました。
高値禁令のほうは効果が薄かったようで、
「だからふんだくるな!!」
とばかりに何度も出されています。
相次ぐ地震で各藩も疲弊していましたが、それぞれ工夫をこらします。
ただし、当時の天災は『お上の悪政のせいだ』と考えられたりしました。
ゆえに討幕軍の主体が薩摩や長州になったのも、こうした大地震の影響が少なかったのもありそうですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
国立天文台『理科年表』(→amazon)