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【吉原女郎の恋】
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「情死」せめてあの世で結ばれることを願って
「死」の中には、もっと悲惨なようで、救われるような、別の道もあります。
情死――いわゆる“心中”です。
相思相愛の相手と、この世ではなくあの世で結ばれること。
『源氏物語』の世界観では、男女揃っての「情死」はありません。結ばれぬことを悲観して衰弱死したり、入水をしてしまう人物はおりますが、“死”を契機に結ばれようとすることはありません。
ではいったい、心中とは何時から日本史に根付いていたのか?
というと、これが江戸時代の文化が生み出してしまった悲しい現象なのです。
5代将軍・徳川綱吉のころ、【元禄文化】と称される華やかな流行が一世を風靡しました。
この流行は上方が中心であり、元禄16年(1703年)、その代表的な存在である『曽根崎心中』が大ヒットしました。
近松門左衛門の作品であり、文楽や歌舞伎の題材とされると、一気に話題作となったのです。

『曽根崎心中』お初と徳兵衛のブロンズ像(大阪露天神社の境内)/wikipediaより引用
江戸時代前半は、上方の流行が江戸まで伝播してきます。
これを「下る」と言いましたが、心中ブームという厄介な現象まで同時に下ってしまい、江戸まで到達。
忘八にとっては、商売道具が死なれてしまう大迷惑な現象でしかありません。
幕府にしても許容できるはずはなく、8代将軍・徳川吉宗は、厳しい禁止令を出しました。
「忠」の字を二つに分けて、逆さまにすると「心中」になる――まこと「忠」をコケにする言語道断の行為であるとして、厳しく取り締まったのです。
「心中」という言葉も禁じ「相対死」と言い換えました。
享保7年(1772年)に出された禁止令は、以下のような内容です。
・男女で計画し、自殺することと定義する
・不義のはての相対死は、死骸を放置し、葬儀を行ってはならない
・一人が生存した場合、殺人として処理する。二人とも生存した場合、三日晒し、非人とする
死んだら埋葬されない。
生き延びても非人とされる。
このような罰則が規定されましたが、現実問題、これが歯止めになるか?というと、そう簡単な話でもありません。
根底にあるのは、遊郭の搾取構造です。
底なし沼のような女郎の待遇がある限り、どうしたって心中を願うものは出てくる。
その根本を解消しようとせず、罰則だけ規定しても何も解決にはなりません。
『べらぼう』の舞台は、江戸時代中期です。
確かに戦はない、太平の世ですが、別の悲劇は依然として残されています。
第1回冒頭で、九郎助稲荷は「たい尽くし!」と欲にまみれたこの時代をまとめていました。
愛し、愛されたい――うつせみと新之助の願いは、そんなささやかなものです。
嘘にまみれた吉原で、そんな真を見出してしまったがために、運命が暗転してゆく二人。
誰もがハッピーエンドを願っていたでしょうが、結局、足抜けに失敗した彼女は元に戻されていました。
そのとき女将の“いね”が、
無計画な足抜けで身分証明書もないままどう生きていくつもりだったのか!
夜鷹(最下層の女郎業)にでもなるしかないぞ!
と激怒しています。
仮に足抜けに成功していたら、より一層、厳しい現実が待っていた可能性は否めないでしょう。
「情死」でなくとも、真ゆえに死を選んだ女郎もいた
心中ものの作品は、ジャンルごと禁止とされました。
上方では近松門左衛門が定番ジャンルとして定着しましたが、江戸ともなればそれはもう厳しい審査を受けます。
仮に『べらぼう』に出てくる連中に尋ねてみたら「そいつァいけねぇな……」と苦い顔をされることでしょう。
ただ、厳密に「相対死」でない事例はあります。
「日本史上初」ともされるシリアルキラーは、江戸時代前期の白井権八です。

歌川国貞『東海道五十三次の内 川崎駅 白井権八』/wikipediaより引用
18歳でカッとなって人を殺し、吉原の小紫と深い仲になった。
遊ぶ金欲しさに強盗殺人を繰り返し、犠牲者は130人から185人以上とも言われている。
延宝7年(1679年)、鈴ヶ森で処刑された。
これだけだと胸糞悪い殺人鬼の話で終わりですが、当時は、小紫が後追い自殺をしたため伝説のカップルとされ、講談や浮世絵に歌舞伎、映画ですっかりお馴染みの存在となったのです。
心中ものは絶対厳禁なのにシリアルキラーはよい――江戸の基準はなんとも不思議なものです。

一雄斎國輝『白井権八 後二小むらさき』/wikipediaより引用
幕末明治となると、甚だ珍しい女郎が称賛の対象とされます。
外国人相手に横浜で開かれた、岩亀楼の喜遊です。
彼女は外国人から身請けされるとなると、それを拒んで命も絶ったのです。
享年19。
彼女がこうも称えられたということは、裏を返せば大半の女郎は、相手が外国人だろうと気にしなかったということなのでしょう。
シリアルキラーに殉じるにせよ。
愛国心に殉じるにせよ。
これも「真があっての運の尽き」に含まれるのかもしれません。

高橋由一『花魁』/wikipediaより引用
称賛されるにせよ、打ち捨てられるにせよ。
女郎たちは死してもなお、安寧とはほど遠い境遇に甘んじるしかありませんでした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
小野武雄『吉原と島原』(→amazon)
渡辺憲司『江戸三〇〇年 吉原のしきたり』(→amazon)
白倉敬彦『江戸の吉原 廓遊び』(→amazon)
藤原千恵子『図説 浮世絵に見る 江戸吉原』(→amazon)
他