応永十五年(1408年)5月6日は足利義満の命日です。
名前を聞いた瞬間「金閣寺の人ね」という印象が頭の中の9割ぐらいを占めそうですが、彼の膨大な事績を振り返れば、それはごくわずかのこと。
政治・経済・軍事・外交と多岐にわたって能力を発揮し、室町幕府の基礎を作った――というより、義満が三代将軍になって引き締めたおかげで十五代続いたとも言えるかもしれない。
その具体的な功績と、足利義満の生涯を共に振り返ってみましょう。

足利義満/Wikipediaより引用
母は二代将軍義詮の側室だった
足利義満は、幼い頃から色々と逸話に事欠かない人です。
例えば彼が生まれた延文三年(1358年)8月22日という日付。
祖父・足利尊氏が亡くなってちょうど100日経った日でした。
こうなると生まれ変わりだのなんだのという伝説になりやすい傾向がありますが、尊氏と義満は真逆といっていいほど似ていないためか、その手の話は聞きません。
義満の母は紀良子という側室でした。
石清水八幡宮の聖職者の娘で、母方から皇室の血を引いています。
当時、父の二代将軍・足利義詮と、正室・渋川幸子の間に生まれた男子は既に夭折していたため、義満は嫡男として扱われました。

足利義詮/wikipediaより引用
幼名は「春王」であり、なかなかめでたいというか、幸先が良さそうな感じがしますね。
我が子を失った幸子は義満を養子として扱い、義満もそれを受けて跡継ぎとしての自覚を育てていきました。
同母弟として足利満詮(みつあきら)という人がいましたが、彼は義満とは真逆に控えめな人物だったらしく、徹底して兄の陰に立って働き、後に自ら出家しています。
似てない兄弟のほうがうまくいくものかもしれません。
一方で、義満が生まれた頃はまだ幕府も政治も落ち着いておらず、父の義詮は南朝との戦いのために京都を出たり入ったりといった状況。
幼い義満も建仁寺に匿われたり、家臣に守られて播磨へ逃れていたりと、なかなか忙しない状況で育ちます。
播磨白旗城の主・赤松則祐とその家臣たちは、幼い次期主君のために正月の松囃子でもてなしたとか。
当時の義満は数え4歳でしたが、これが気に入ったのか、後々「毎年正月に将軍が赤松邸で松囃子を見る」という習慣を作っています。
この親密な将軍家と赤松氏の間で、後々【嘉吉の乱】という大事件が起きるのは皮肉なものです。
その件はまた別の記事で取り扱っていますので、よろしければ併せてご覧ください。
-

足利将軍が殺された嘉吉の乱|幕府衰退が始まった一大事件はグダグダな展開へ
続きを見る
幸い、程なくして京へ帰れることになりましたが、義満はこのとき途中で泊まった摂津(明石か須磨あたりとされる)の景色をいたく気に入って、
「ここの景色を京に持って帰りたい。お前ら運べ」(意訳)
とのたまったそうで。
破天荒で豪快な義満の性格をよく表す逸話ですね。
その後、家臣たちが何と言って義満を諦めさせたのかが気になるところですが、そこまでは記録されていません。
後世の人間からすると、そっちの方が気になるような……。
家臣に恵まれスクスク育つ
無事、京都に帰った足利義満は、管領・斯波義将の教育を受けながら、赤松則祐とも良い関係を続けました。
正平二十一年/貞治五年(1366年)には、北朝の後光厳天皇から「義満」の名と従五位下の位階を授かっています。
同年、貞治の変により斯波義将らが失脚したため、新たに細川頼之が管領となりました。
義満最大の幸運は、このように近臣が入れ替わっても、忠誠心のある人が常に側にいたことでしょう。
ほんの30年前に滅びた鎌倉幕府が、血縁者同士・御家人同士、はたまた御家人(幕府の家臣)vs御内人(北条氏の家臣)の争いに明け暮れていたのと比べると、奇跡といってもよい恵まれっぷり。
祖父の足利尊氏と、大叔父の足利直義も【観応の擾乱】でドタバタしていましたしね。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
そんな義満が家督を継いだのは貞治六年(1367年)12月のことです。
父・義詮が病没し、まだ11歳にして家督と将軍位を継ぎました。
元服は翌応安元年(1368年)4月のことであり、元服式の主だった役目は全て細川氏が担当、周囲をがっちり固めていたとか。
さすがにまだ実務はできませんが、細川頼之らによって土地制度や宗教関係の整備が進み、義満はそれを見ながら育ちます。
ちょうど幼い頃の北条時宗が、親戚である北条実時の仕事ぶりを見ながら成長したのと、構図的にちょっと似ていますね。
応安三年(1370年)には、朝廷から延暦寺とその支配下にある者への取締権を与えられ、順調に将軍として認められていきます。
さらに、北小路室町の地に新たな屋敷を建て、それまで住んでいた三条坊門第から引っ越しました。
このことから、足利氏の幕府を「室町幕府」と呼ぶようになっています。
義満は前述の「景色を持ち帰る」話からもわかるように、景観づくりを好んだらしく、公家たちから名木を集めて典雅な屋敷を作り上げました。
特に近衛家の糸桜(枝垂れ桜)は名指しで所望され、この屋敷が「花の御所」と呼ばれる由縁となっています。

『洛中洛外図屏風』に描かれた花の御所こと室町殿/wikipediaより引用
婚姻関係は?
将軍継承も済み、新たに屋敷も建てた……とくれば、次に片付けるべきは結婚です。
正室に日野業子(なりこ)という女性を迎えたのは応安七年(1374年)のことでした。
彼女は藤原北家の流れをくむ日野家の娘で、和歌を得意としており、義満に愛されたといわれています。
残念ながら二人の間に子供が生まれなかった(あるいは生まれても夭折した)ためか、義満は側室を多く抱え、あっちこっちで子供を産ませることになります。
しかし、後に将軍となる足利義持・足利義教の母である藤原慶子が亡くなったときの冷淡ぶりからすると、義満は正妻の業子を愛していたようです。

足利義持/wikipediaより引用
一方、慶子に対して冷たかったせいで、息子である義持との仲があまり良くなかった……という説もあります。あるあるですね。
義満の功績の一つに明(当時の中国)との貿易を大々的に行ったことが挙げられます。
少なくとも結婚する前後あたりからその構想を抱いていたようで、明に申し入れたことがありました。
しかし、その頃の明は
・南朝を唯一の通商相手としていたこと
・明の皇帝から見て義満は陪臣に過ぎないこと
から交渉失敗。
まぁ普通は、一つの国に二つの政権があるとは思いませんもんね。
南北朝時代は、外交関係においても、いささか面倒な事態を引き起こしていたんですね。
義満も「これは一筋縄ではいかない」と考え、いったんこの件は後回しにしました。
興福寺の強訴
足利義満の実務能力が評価されたのでしょう。
朝廷での官位もガンガン上がっていきました。
二条良基の支援を受け、公家社会の中にも積極的に入っていきます。

二条良基/wikipediaより引用
それがプラスに働いたのが、天授四年/永和四年(1378年)に起きた【康暦の強訴(こうりゃくのごうそ)】という事件です。
”南朝方に奪われた寺社領の変換を求めて、興福寺の宗徒が春日大社の神木を掲げて訴えてきた”というものでした。
強訴というと、かつて権勢を誇った白河天皇が「加茂川の水、双六の賽、山法師」と並び称した延暦寺のものが有名ですが、さらに古い歴史を持つ興福寺も度々やっています。
興福寺は、藤原氏の祖先である鎌足と不比等にゆかりの深いお寺であり、さらに春日大社には藤原氏の祖先とされる天児屋命(あめのこやねのみこと)が祀られています。
つまり、興福寺や奈良の宗徒が強訴にやってくると、藤原氏系の公家は実質的に出仕できなくなってしまう。
そして当時の貴族社会といえば、どこかしらで藤原氏と血縁がある家が大多数。
「お前らのご先祖様が怒ってるんだぞ!」みたいな名目を持ち出されるわけですから厄介です。
場合によってはご神木を御所の門前に放置して「神意が目に入らぬか!」みたいな態度を取ることもありました。
一応、ご神木を持ち出すにあたって儀式をするのですが、「そんだけ大事に扱うものなのに、屋外に放置するのはいいんかい!」とツッコミたくなりますね。
言わずもがな、朝廷の政務や行事のほとんどは藤原氏系の家によって成り立っています。
彼らが出てこなければどちらも滞り、世の中が立ち行かなくなってしまうわけで……だからこそ、強訴は朝廷にとって脅威でした。
寺とも対話を進めてバランス重視の政策
このときもいろいろな人が頭を抱えていたと思われますが、緊迫した状況の中で、足利義満はどうしたか?
というと「ウチは源氏なんで^^」(※イメージです)という理由で、堂々と出仕を続けたとのこと。
源氏は基本的に八幡神(誉田別命=応神天皇=八幡大菩薩)を守護神としています。
そりゃ関係ないっすけど、面の皮と度胸が揃ってないとこういうことはできないですよね。
ちなみに源氏と八幡神に関する出来事としては、鶴岡八幡宮で源実朝が暗殺されたり、足利義詮が八幡宮へ「死ぬまで兄弟で互いに守り合うことを誓います」という願文を収めたのに早くも息子たちの代で台無しになった……といった感じで、「別の神様を信じたほうが良くない?」とツッコミたくなるような事実もあります。
ついでにいうと足利尊氏は清水寺へ「直義にこの世の栄誉を全てお与えください」という願文を収めたにもかかわらず、観応の擾乱で台無しになって(して?)います。
閑話休題。
義満はさらに、強訴のせいで滞っていた歌会始(うたかいはじめ)などの行事を大々的に復活させ、逆に興福寺の宗徒を威圧しました。

興福寺の僧兵/wikipediaより引用
「オメーらの脅迫なんざ屁でもないわ! 言いたいことがあるならもっとはっきり言ってこいや!」という感じでしょうか。
イヤミなんですが、明るいというか、小気味いいというか。
振り回される周りの人々は実に気の毒ながら、後世から見ると痛快で面白いのが義満という人なんですよね。
こうした精神攻撃は興福寺に大きな打撃を与え、以降、強訴をしても京都市内までは入ってこられなくなりました。
とはいえ、義満は「ざまあ笑」では済ませず、興福寺だけでなく延暦寺にも直接対話をするシステムを設けたり、寺領確保や仏事再興などにも務めてバランスを取りました。
締めるべきところは締めた、という感じですね。
征夷大将軍が現職の天皇をおもてなし
その翌年からは、幕府や守護大名に関するトラブルが増えてきます。
かつての重鎮・斯波義将が管領・細川頼之の罷免を求めてきた【康暦の政変】では、康暦元年(1379年)閏4月に頼之をクビにして、管領の座を義将に入れ替えました。
しかし、翌年に頼之は赦免され、幕政に復帰。
上記の強訴への対応と併せて考えてみると、
「義満は、頭に血が上っている相手をいなすのが非常にうまかった」
ような印象を受けます。
立場からすれば、断固として立ち向かうこともできただろうでしょうけれど、それで失うものの多さや重さを意識していたんじゃないか、と思えます。
武家の知恵と政治家としての打算がうまく働いているといった感じでしょうか。
そんなこんなで京都が落ち着いたため、朝廷でも義満を高く評価しました。
従一位という高位を与えられた後、翌永徳元年(1381年)3月には、後円融天皇を自宅である室町第でおもてなし。
征夷大将軍が現職の天皇をもてなす……なんてことができたのは、義満くらいのものでしょう。
平清盛が似たようなことをやっていますが、彼は将軍ではありませんし、迎えた場所も本宅ではありませんし。

月岡芳年が描いた平清盛/wikipediaより引用
天皇をおもてなしした直後の6月には、内大臣の官職も受けました。
同時期に、義満は公家式の花押を使うようになり、どんどん朝廷に食い込んでいきます。
そして左大臣を受けた後は「准三后(じゅさんごう)」という、太皇太后・皇太后・皇后に準ずる地位まで与えられるのです。
これには、当時宮廷で起きた事件も影響していました。
後円融上皇の上臈局厳子と義満の密通が疑われ、上皇自ら厳子を刀の峰でぶん殴りまくるという、実に荒っぽい話です。
厳子が父の家へ退出したとき、相当な怪我を負っていたらしく、義満が医師を手配しています。
義満は上皇に「密通などしていません」と弁明しましたが、なかなか怒りは解けませんでした。
しかしこれは上皇という存在の権威を自ら貶めたことにもなります。
それでいて義満は上皇に礼儀を尽くしたので、どうにか威厳を保てている状態でした。
それを悟った後円融上皇は、その借りを返すために准三后の地位を与えたのです。
上皇がカッコ悪くて厳子が可哀想過ぎる経緯ですが、義満としては棚からぼたもちみたいなものですね。
守護大名には実力行使
寺社に対しては剛柔使い分けていた感が強い足利義満。
その反面、守護大名とのトラブルについては、実力行使が多いのも特徴です。
① 美濃の有力者・土岐氏の内紛を力でねじ伏せて土地を没収(土岐康行の乱)
② 山陰で11ヶ国もの守護を務めていた山名氏清をわざと反乱させて討伐(明徳の乱)

山名氏清/wikipediaより引用
③ 大陸との貿易で莫大な財を築いていた大内義弘を挑発し、半ば騙し討ち(応永の乱)
この辺はなかなかドス黒いものが見えますが、尊氏や義詮の時代のことを考えると、こうでもしなければ収まらなかったのでしょう。
祖父や父の轍を踏むまいと考えて、短期解決を優先したのでしょうか。
後年の【応仁の乱】でも、将軍が積極的に行動しなかったために、話と戦がこじれて戦国に突入してしまっていますし。
その後も寺院の建立を並行して複数行ったり。
摂関家と親密になって偏諱を与えたり。
武家として初めての源氏長者(公家・武家問わず源氏の流れを汲む中で一番官位が高い人)になったりもしました。
教科書では「義満の権力がスゴかったので誰も逆らえませんでした」というような雰囲気で簡単にまとめられてしまっていますが、この辺も押さえておくと理由がわかって面白いですね。
強訴に毅然と立ち向かったり、行事を復活させたり、武家同士の争いを鎮めたり、義満がそれに見合う功績をきちんと挙げていたからこそ、そういう立場になれたのです。
むやみやたらに刀を振り回して威張り散らしていたわけではありません。
むしろ、周りの人々が義満に媚びへつらって女性を差し出したりしていました。
どっちかというとこれのほうが問題かもしれません。古今東西よくある話ですけれどもね。
また、義満は「イメージ戦略」を効果的に用いた人でもあります。
富士山や厳島神社、高野山、春日大社への遠足(超訳)もやっています。
もちろん、ただの遊びではありません。
中央政権で充分に権威を得たので、次はそれをできうる限り広い範囲に見せつけ、
「いざとなったらワシがここまで来て相手してやんよ!」
と示したのです。
この頃には義満の活動はほとんど公家的なものになっており、花押も公家風にしたほどでしたが、「だからって武力を捨てたわけじゃないからな」と釘を差したのでしょう。
南北朝問題を解決(仮)
足利義満の功績として最も挙げられる頻度が高いのは、やはり【南北朝の統一】でしょうか。
祖父・尊氏がこじれさせたこの問題を、孫の義満が平和的に解決しています。
義満が主導し、南朝・北朝それぞれから折衝担当がついて、
・南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇へ三種の神器を引き渡す
・後小松天皇の皇太子は南朝方から立て、両統迭立の状態に戻す
などで合意しました。
明徳三年/元中九年(1392年)閏10月に結ばれたため、【明徳の和約】と呼ばれます。
このとき南朝方の代表者に楠木正儀(まさのり)がいるのがなかなか興味深いところです。

『名誉三十六合戦』楠木正儀(歌川国芳作)/wikipediaより引用
ただしこの一件は後小松天皇に詳細が伝えられないまま進められたようで、義満の死後にもう一度問題が再燃することになります。
それで誰が対処にあたるかというと、当然跡を継いだ義満の子・足利義持なわけで……そりゃ父親のことが大嫌いになりますよね。
ちなみに、義満は明徳の和約が結ばれてからおおよそ二年後、応永元年(1394年)12月に将軍職を義持に譲って出家しています。
もちろん実権は手放していません。
ではなぜ足利義満は出家をしたのか?
明に対しては名より実を取った?
足利義満が出家をしたのは、明への貿易許可を求めるためでもありました。
中国の王朝は代々「ウチの臣下になるなら付き合ってやってもいいぞよ」というスタンスの外交でしたので、そういう形式にしないと交渉にも応じてくれない。
そこで義満は国内の問題を一通り片付けた上で、明の皇帝に
「大明の皇帝陛下にお手紙を奉ります」
で始まる手紙を送り、改めて交渉したのでした。
義満が形式上、明の臣下になり、日本の主権者という扱いになるのです。
この作戦がうまくいき、明から「そんならお前を”日本国王”にして貿易してやんよ」(意訳)という許可が出ます。
こうした経緯から「義満は皇位を簒奪しようとした」なんて言われたりもしますが、実際は違うのではないでしょうか。
中国の歴代王朝から見て、「王」は中国に朝貢する国の代表者のことです。
つまり、日本の官職を辞した後の義満が日本国王になったということは、義満が個人的に明の臣下になったということになります。
これなら、天皇や朝廷の権威や立場は損なわれません。義満が狙ったのはそこだと考えられないでしょうか。
実質的に明へ引っ越すわけでもありませんし、貿易で見込める利益のほうがずっと重要ですし。
そもそも、天皇よりエラくなりたいなら、明の皇帝の家来になるのもイヤだと思うほうが自然でしょう。
よほど明を神聖視していて、日本を卑下していたならともかく、そのそぶりもありません。
書面の上では明の皇帝を主君として、義満自身のことは「臣」と書いていますし、明の要求で倭寇(海賊)退治をしたり、来日した明の使節を手厚くもてなしたりはしていますが、貿易で得られる富に比べれば安いはず。
義満の性格からして「書面でへーこらすれば、貿易させてくれるなんて、意外とチョロいよな笑」ぐらいのことは思っていそうです。
また、朝廷が大金を必要とした際、義満は気前よくお金を出しています。
行事そのものにも積極的で、公家の作法も学び、礼儀に沿った振る舞いをしていました。
朝廷に食い込んで意のままにするため、ともとれますけれども、武力でねじ伏せたり「金の無駄だから行事などやめろ」と強要することも可能だったはずです。
それをしなかったのは、「皇室と朝廷をできるだけ良い状態に保っておいたほうが、自分たちのためにもなる」という計算が働いていたからではないでしょうか。
上記のように、義満は「自分は源氏の名門である」という自負があります。
そして源氏の大本は皇室です。
それをかなぐり捨ててまで、心の底から明の臣下になりたいとは思わなさそうなんですよね。
これはあくまで私見ですし、義満の心中まではわかりませんが。
文化育成にも余念なく
その後の足利義満は京都北山に別荘を建てて移住。
現代でも有名な「鹿苑寺金閣」を含むところです。

ついでにいうと、鎌倉幕府が倒された後、公家の西園寺公宗が後醍醐天皇を暗殺しようとした場所でもあります。
土地なら他にも選べたでしょうに、なんでそんなところを選んだのかについては、やはり理解し難いところですが……義満の性格からすると
「景色が気に入ったからここがいい。曰く付き?そんなのワシは気にしないもんね!」
なんて理由でもおかしくはなさそうです。
ここに移った後の義満は、能を大成させた観阿弥・世阿弥らを庇護しつつ、【北山文化】と称される文化を花開かせます。
公家たちによって和歌や管弦、蹴鞠の会なども開かれ、ようやく京の町が「花の都」らしさを取り戻していきました。
この間、一応将軍職を継いだはずの義持は頭を押さえつけられたような形。
しかし義満は他の子供達をほとんどお寺に入れて、後の禍根が残らないようにしていたので、まずまずの処置をしていたのではないでしょうか。
一時は異母弟・義嗣が後継者にされそうでしたけれども。
とはいえ、さすがの義満も寄る年波にはいつまでも勝てず……応永十五年(1408年)病に倒れ、何度か持ち直しながらも同年5月6日に亡くなります。
享年51。
現代からするとまだ若く思えますが、当時でしたら大往生と言っていい年齢でしょう。

大日本名将鑑 足利義満公(月岡芳年画)/wikipediaより引用
最期の最期で、あまり仲の良くなかった息子・足利義持が、快癒の祈祷をあっちこっちに命じてくれたのは、救いだったかもしれません。
義満の遺骨は相国寺塔頭鹿苑院に葬られました。
残念ながら、鹿苑院は江戸時代中期の天明八年(1788年)に起きた【天明の大火】で焼けてしまい、その後、明治時代の廃仏毀釈で寺ごとなくなって、当時のお墓がどこの誰だかわからなくなってしまいました。
代わりに金閣が昭和まで残り続けたので、義満本人としては本望だったかもしれません。
よくわからん理由で放火されてしまいましたが、放火後の写真ですら美しく見えてしまう建築物など、世界に目を向けてもそうはないでしょう。
武力以外の方法も巧みに用いた義満。
彼のようなタイプこそ、現代人が見習うべき人なのかもしれません。
あわせて読みたい関連記事
-

足利将軍が殺された嘉吉の乱|幕府衰退が始まった一大事件はグダグダな展開へ
続きを見る
-

南北朝時代|何年続いた?両統迭立に始まり明徳の和約以降も燻った不毛な争い
続きを見る
-

室町幕府の初代将軍・足利尊氏|ドタバタの連続だったカリスマの生涯
続きを見る
-

足利義詮を地味将軍と呼ぶなかれ|尊氏の跡を継いだ二代目は難局を突破
続きを見る
-

白河天皇→上皇→法皇の「院政」が炸裂! 藤原摂関家の影響力を排除せよ
続きを見る
【参考】
安田 元久『鎌倉・室町人名辞典』(→amazon)
久水俊和『「室町殿」の時代』(→amazon)
国史大辞典





