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マリー・アントワネット/Wikipediaより引用

フランス 週刊武春 女性

マリー・アントワネットは何故嫌われる? フェイク・ニュースで燃え上がった炎上セレブ

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世間知らずで傲慢。極めつけはこのセリフ。

「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」

庶民をあざ笑うかのような、上流階級の“上から目線”こそがマリー・アントワネットの代名詞であり、頭の軽い残念な女性という評価がついてまわります。

しかし実際は、彼女が放った言葉ではないことも歴史好きには知られており、Wikipediaには項目まで立ててありますが、世間での認識はなかなか改まることがありません。

一度ついてしまった評価を覆すことは難しく、フランスの歴史家も頭を痛めている問題です。日本で織田信長が、通り一遍の残虐無道な魔王として描かれるのと似ているかもしれませんね。

ではナゼ彼女はこうも悪名高いのでしょう? なぜそんなマイナスイメージが定着してしまったのでしょう?

 

注目を浴びるのはロイヤルセレブの宿命

ここでひとつ質問です。
ルイ14世、ルイ15世の王妃が誰だかご存じですか?
おそらく、パッと出てこないかと思います。

それでは彼らの寵姫はいかがでしょうか。
ルイ14世には人気ライトノベルのキャラクターモデルにもなった可憐なルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールらがいます。
ルイ15世の愛人には、政務に携わり、ヘアスタイルの名前に今も残るポンパドゥール夫人がいます。デュ・バリー夫人も『ベルサイユのばら』でおなじみでしょう。

こうしたフランスの王たちは、政略結婚で結ばれ、世継ぎを作る義務的な夫婦生活しかない王妃よりも、選び抜かれた美貌や個性を持つ寵姫の方を深く愛していたのです。

世間の目も、公の場に姿を見せて派手なファッションを見せ、より自由に行動できる寵姫の方に集まります。
貴族の女性たちは寵姫のファッションを真似、宮廷に出入りする人たちも寵姫の機嫌を取っていました。現代人がイヴァンカ・トランプやキャサリン妃のファッションをチェックしてニュースにするように、当時の人々は王の側にいる女性を熱心に見つめていたのです。

ところがルイ16世は真面目な性格で、妻であるマリー・アントワネットだけを一途に愛していました。
妻としてそれは喜ばしいことかもしれませんが、世間の目はそのぶん王妃に集まってしまいます。もしルイ16世に寵姫がいたら、王妃に向けられる非難の目はそらされたことでしょう。

平時ならばともかく、激動の時代において寵姫という盾を持たないマリー・アントワネットは不利でした。

少女時代のマリー・アントワネット/Wikipediaより引用

 

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フェイク・ニュースの犠牲者

寵姫という盾がないマリー・アントワネット。彼女のファッション、行動、何もかもが世間の好奇心にさらされました。
当初はファッションリーダーとして好意的に見られていたファッションも、揶揄や軽蔑の対象になります。マリー・アントワネットは我が子たちとともに描かれた肖像画を作成させ、優しい母親像を世間にアピールしようとしますが、効果はありません。

事態は悪化してゆきます。マリー・アントワネットには親しい女友達が多数いました。その交友関係も、実は同性愛関係ではないかと噂され始めます。

さらには革命後には、我が子に性的虐待を加えていたというでっちあげの嫌疑により、裁判にまでかけられています。
美貌の王妃はポルノの題材としても最適ってことでしょう。マリー・アントワネットには美しい肖像画だけではなく、下品な諷刺画も数多くのこされました。悪意を持った人々、好奇心旺盛な大衆にとって噂の真偽など、どうでもよかったんですね。

こうしたフェイク・ニュースが王室を揺るがすほどにまでなったのは、1785年の首飾り事件でした。
元は、前国王の寵姫であったデュ・バリー夫人のために作られたという、豪華な首飾りをめぐるこの詐欺事件に、マリー・アントワネットは一切関与していませんでした。
ところが犯人が勝手に彼女の名を出したため、世間は強欲な王妃が黒幕だと噂するようになったのです。

以来、世間でのマリー・アントワネットの評価は下落していきます。彼女は潔白でしたが、世間を騒がせる事件に関与してしまったことで、消えない傷がついてしまったのです。
この事件は、4年後に勃発するフランス革命の序章とみなされています。

婚姻儀式の様子/Wikipediaより引用

 

フランス国民はオーストリアが嫌い

国民がマリー・アントワネットを罵る言葉に「オーストリア女」というものがありました。
彼女が嫌われた理由はいろいろありますが、その中でどうにもならない一つが「オーストリア出身」ということでした。

偉大な女帝であるマリア・テレジアの末娘として生まれたマリー・アントワネット。母である女帝が政治的思惑を無視して縁組みを決めたわけがありません。

表向きはオーストリアとフランスの関係改善を願ってではありますが、それだけではありませんでした。意志薄弱と思われたルイ16世に対してマリー・アントワネットが政治的影響力を与えることを期待していた側面もあるのです。
オーストリア側の思惑に反してルイ16世は政治見識を持った君主であり、妻の政治的介入を受けることは最低限にとどめました。

そうはいえども、世間の目から見ればマリー・アントワネットは政治に口を挟もうとし、夫を尻に敷く妻に見えたことでしょう。
フランスの利益よりも、オーストリア皇女としての利益を考えて動いているようにも見えたことでしょう。
かくして国になじまない「オーストリア女」こと、マリー・アントワネットは憎まれるようになりました。

憎悪が頂点に達したのが1791年のヴァレンヌ事件です。
革命によって不自由を強いられていた国王一家がパリを脱出してベルギー近郊の村へ逃亡しようとしたのですが、途中ヴァレンヌという場所で捕まり、パリへ戻されてしまいます。この計画をマリー・アントワネット主導していたころから、国民は彼女がルイ16世をそそのかし、外国へ脱出してフランスを攻撃しようとしたのだと考えました。
フランス国民の害を為す「オーストリア女」としての悪評は頂点に達しました。

王妃となったマリー・アントワネット/Wikipediaより引用

 

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政治に口を出す女は嫌われる

マリー・アントワネットの出自以上に本質的な問題だったのが、彼女が女性であったことでした。

当時のフランスでは、女性が政治的影響を持つことが嫌われたのです。
マリー・アントワネットが夫を尻に敷いているという噂が流れた時点で、世間は彼女を冷たい目で見るようになりました。

フランス革命期は、政治的に活躍した女性が数多くいました。
そもそも革命の口火を切ったヴェルサイユ行進は、パンを求めた女性たちが起こしたものです。革命が掲げた自由と平等は女性にも適用されると胸を躍らせ、女性たちは理想と政治的な主張を掲げたのです。
武器を取り兵士として従軍しようとした女性もいました。

しかし、革命が進むにつれ、彼女らは逮捕されたり処刑されたりして、姿を消してゆきます。
彼女らに男性が言い放った言葉は辛辣でした。

「女性たちは家庭で夫を支え、子供を育て、政治に口を挟もうなどとは思うなよ」

革命の嵐が吹き荒れ、恐怖政治が一段落したあと、崇高な理想に燃えた政治家はほとんど残っていませんでした。
生き延びた政治家たちの大半は堕落し、贅沢三昧にふけりだします。彼らの周辺に残ったのは、政治的な野心とは無縁の、贅沢で享楽的な「メルヴェイユーズ」(伊達女)と呼ばれる美女たちでした。




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その中には、のちのナポレオンの妻となるジョゼフィーヌもいました。

ナポレオン最初の妻であるジョゼフィーヌ/Wikipediaより引用

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