こちらは5ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【『べらぼう』感想あらすじレビュー第2回「吉原細見『嗚呼(ああ)御江戸』」】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
豊千代誕生の宴
そのころ、一人の赤子が生まれておりました。
10代将軍・徳川家治のいとこにあたる、一橋治済の嫡男・豊千代です。
招かれているのは御三卿当主でした。
田安家からは田安治察と弟の賢丸。
清水家の重好。
徳川家康は男子が多いものでした。男子がいないばかりに脆弱であった豊臣政権を教訓とした家族計画もあったのでしょう。
ところが2代目・徳川秀忠の時点で男子はたった2名。
そんなこともあり、結果的に8代・徳川吉宗は紀州家から入るしかありません。これではまずいと、御三家に続けて吉宗と家重の子を始祖として作られたのが御三卿でした。
おかしなことに、当の一橋治済と、田沼意次はここにおりません。
傀儡の舞が終わり、傀儡師が面を外すと、彼こそが治済でした。さらにもう一人はなんと田沼意次です。
ここで治済が嫡男誕生祝い参加の礼をのべ、「近頃傀儡に凝っている」と言います。田沼に話したら地方(じかた・演奏者)まで揃えてくれたのだとか。
腕前を自慢する治済を褒めちぎる老中たち。
「そうか、ではいっそ傀儡師にでもなるか!」
そう浮かれる治済ですが、目は笑っていないんですよね。
するとそこに大声が響きます。
「恥を知れ!」
田安賢丸でした。
「いやしくも吉宗公の血を引く身が、傀儡師にでもなろうかですと?一橋様、御身に流れるお血筋をいかに心得ておられる!」
年長者に敬意を示しつつ、そうきっぱりと言い切ります。
「戯れじゃ。そう熱くなられるな」
「武家が精進すべきは学問、武芸! 遊芸に溺れる前に我らにはなすべきことがあると思われぬか!」
そう迫られても治済はとぼけていて、豊千代を腕に抱いてこうきました。
「子なら、なしたぞ」
賢丸は踵を返し、憮然した態度で去ってゆきます。兄の治察が若輩者の言葉だと詫びています。
「なすべきことと言われてものう。我らには子をなす以外なすべきことなど……」
これには清水重好も同意。この人は料理を食べる姿からして、やる気のなさが漂っていましたね。
「然様然様。まさかのことが起こらぬ限り、我々の出番はございませぬ」
「まさかのこと……など、起きてはなりませんしなぁ」
そう言い、豊千代をあやす治済。
「しかし賢丸殿も、少々遊びを覚えた方がよいかもしれぬなぁ」
「歌会や能、鷹狩りなどならば、賢丸様もお楽しみいただけますでしょうか」
そう意次がいうと、武元は長い眉を揺らしつつ、こうきました。
「それがしは感服いたしましたがの。誇り高く、武家たらんとするあの心をむしろ見習うべきかと」
そう言われ、意次はうつむいてしまいます。あてつけに聞こえたのでしょうか。
「いやいやお許しを。時の流れについていけぬ年寄りの差し出口にございます」
「いや、右近将監様のお言葉こそ、主殿頭、感服いたしてございます」
そう頭を下げる意次と、さもおかしそうに笑う治済でした。
傀儡師には操る愉悦がある
ここは時代劇らしいというか、あまりにわかりやすいんじゃないかとハラハラしました。
傀儡師というのはまさしく、誰かを操って世を思うままに動かす様でもある。
治済と意次がそれを務めたということは、世間からすればこの二人がそう見える局面の到来を示しているといえるのでしょう。
治済は重三郎とは異なり、乱世に生まれていた方が適役だった人物ではないでしょうか。謀略、暗殺、裏切り、なんでもありで、たくましくのしあがるタイプですね。
しかし、泰平の世だと暇を持て余して碌でもないことをやらかす。多趣味で才人であるのはよいにせよ、それも使い方次第なのでしょう。
御三家と御三卿は確かに徳川宗家の延命システムではありますが、世界史的に稀有とも言える酷いエラーが発生するのもここです。
明治になってから旧幕臣は、水戸藩当主であった徳川斉昭と、その息子で一橋家当主であった慶喜のせいで幕府は滅んだと大いに嘆いたものでした。
御三家水戸の斉昭から、「ペリーを呼び出して切り捨てればよいのでござる!」とねじこまれるわ。
その斉昭の育てた連中が井伊直弼を討ち果たすわ。
おかげでテロリズムが横行する世の中になるわ。
慶喜は朝廷と幕府を天秤にかけて、どっちつかずの態度を取るわ。
味方を見捨てて大坂から江戸へ勝手に戻るわ。
確かにむちゃくちゃになるんです。
一橋治済の多趣味である描き方は、この一橋慶喜とも似ていると思わされ、実に禍々しいものがあるのでした。
そういう二連の凶星を美化した『青天を衝け』については、それこそキラキラコーティング大河ドラマと言えますので、これからもしつこく指摘していきます。
あ、そうだ。
どうしてあの長谷川平蔵が、この清廉潔白な田安賢丸の目にかなうことになるんでしょうね。どう展開していくのか……。
そのころ鱗形屋では、新しい『吉原細見』ができておりました。
MVP:平賀源内と「瀬川」
源内先生、申し訳ない。てっきり新之助が新しい彼氏かと思っていました。
そうでなく、菊之丞との思い出に生きていたんですね。
今回、重三郎のミッションにおいて重大な役割を果たす源内。
開始15分頃には出てくるものの、銭内と名乗ってからかい始めました。
遊んでいるだけかと思わせておいて、足が向かないはずの吉原についていくのは、「瀬川」を求めてのことだと徐々に明かされてゆきます。
あの底抜けに明るい顔に影が落ちてゆく、それを察知した花の井は流石です。
「瀬川」の舞姿と在りし日の菊之丞を重ねる源内の目は、うれしいようで、寂しいようで、見ていて圧倒されました。
吉原にはこういう夢を見せる力があると描かれたあまりに儚く美しい回でした。
それだけでなく、田沼意次と二人で経済の転換点についてもキビキビと説明してきます。
田沼政治の解説となると難易度がグイグイあがり、「歴史総合」対応だときっちりわかります。
難しい内容を、易しく噛み砕く。そんな役割まで彼は果たしてくれました。
近代へ向かう意識も、彼は体現しています。
科学者や発明家としての姿。
そしてゲイとしての矜持。
近代へ向かう中、同性愛者は自分の生き方を語り、そのうえで被る不利益も理解し、自己の確立を目指して行きます。
男一筋と照れも何もなくまっすぐ語る源内には、紛れもない近代の芽吹きが見えます。実にお見事です。
総評
さて、第1回の視聴率がワースト(12.6%)ということもあり、叩き記事もあがってきています。
吉原関連の描写でもかなり炎上しており、予測通りだということを感じております。
事前予想でも指摘しましたが、本作を「歴史総合」対応とみなせるか否か、ここで評価が分かれるんですよね。
例えば以下のような感想は、対応していないのだとわかります。
「大河ドラマといえば合戦がなければならない」
「泰平の世を描く意義がない」
「今どきこんな古臭い時代劇を見せられても……」
こういう意見を読んでいる時の私は、松平武元の意見を「流石右近将監殿」と受け止めつつ、無表情の田沼意次のような気分になっています。
だから「歴史総合」を意識しましょうと言いたい。今週なんて幕末史理解にも使える要素が出てきて、古臭いどころか極めて新しいものです。
流石にこれには突っ込みたい。
「平穏な“元禄時代”を生きる主人公では魅力がない」
元禄時代は5代・綱吉の時代ですぜ。『べらぼう』は10代以降ですよ。全然違うってーの!
私は2回目で「もう、参りました……」と土下座をしたい気持ちになってきました。
このドラマには、長年の疑問を氷解させる瞬間がある。
最終回までそれが続くかどうかはわからないけれども、ともかくすごいことです。
今週解けた疑問は、鑑賞する上でなかなかいいフックだと思うので、書き留めておきたいと思います。
ここ数年『内向型人間』とつく書籍があり、私も目を通しています。
人間の先天的な性格で、一人になる時間が必要で、じっくりゆっくり考えるタイプを指します。
内向型も、人との付き合いの中で元気を蓄えていく外向型も、一長一短でそれぞれが必要とされる局面があるのです。
それが近現代へ向かう中、外向型優位の時代が訪れてしまった――そう定義し、それでも内向型だって捨てたものじゃないと励ましてくれるのが、この手の本のパターンです。
今年の大河は、この「近現代へ向かう中、外向型優位時代が到来していった」という様をストンと見せてくれています。
重三郎のような、思いついたら即座に行動する陽キャ、いかにも外向型の人間は、危なっかしいことこの上ありません。
コソコソ何かするわりには雑だし、誰が聞いているかわからない松葉屋でいろいろ喋っているし、偽装も下手。
今回だって花の井がいなければ確実に失敗しています。
例年の大河なら、もう十回くらいは死んでいるでしょう。
しかし、江戸中期だと、この抜けているけど愛嬌たっぷり、和犬みたいなところがプラスになります。
明るく走り回る彼の姿を見て、周りは元気や希望をもらう。こんな明るい顔の彼が売るものなら手に取ってみようとなる。こういう明るくて人懐こい人間の営業効果が、近現代には重要視されていった。
それはなぜだろう?
答えは都市文化にあると思えます。
重三郎みたいな陽キャが、中世の村に生まれたとしても、せいぜい祭りで人気を集めるくらいしか特技が生きてこないとは思います。
それが人口が密集し、経済が発展した近世都市にいればこそ、口コミになって、人脈になって、さまざまなものが流れ込んでいく。
そう疑問がカチッと噛み合って、実に爽快でした。
ここまで考えると、戦国幕末のローテーションは、やはり弊害が大きいと思えてきます。
人間に求められる資質や才能が、歴史や経済の変化によってどうなっていったのか――それを考える上で、将棋の盤面をしつこく眺め回すような合戦ばかり繰り返していたら、そういう視点は持てない。
戦国幕末ローテーションって、歴史を名乗っているけれども、キャラクタービジネスというほうが正しいのであって、実は歴史の勉強にはなっていないのではないのか?と『光る君へ』『べらぼう』を見てきて、痛感させられる次第です。
日本の歴史フィクションは扱う時代が偏りすぎていて、偏見が大きいことを冷静に考えた方がよいのでしょう。
もう限界です。
大河界隈右近将監殿の反論はあるのでしょう。それはそれで敬いますが、当方必ずしも賛同は致しかねますのであしからず。
以下、余計なことながら
先週は、以下のように物議を醸した点があります。
・セクシー女優が女郎の死体役で起用されたこと
・あの全裸死体場面そのものがおかしい
・朝顔の見ぐるみを剥いだ死体処理係の非人に対し、重三郎が罵倒したのはひどい
・田沼意次と重三郎が面会するのは「ファンタジー」だ
・アウシュヴィッツのような吉原を美化しているのは女が被害者だからだ
上から順に一つずつ見てまいりたいと思います。
・セクシー女優が女郎の死体役で起用されたことは職業差別だ
これについては、職業差別というより労働契約問題に思えます。
海外の例を出しましょう。『ゲーム・オブ・スローンズ』シーズン1では、女優本人が裸体を見せていました。デナーリス役が代表例です。
当時はまだシーズン2以降を制作するかどうか未定で、ヒットするかどうかも確証のない状態。
ボディダブルを使うのではなく、裸体を撮影することまで役の契約条件に含まれていたのでしょう。
シリーズが大ヒットしたシーズン5では、サーセイが全裸で歩く場面ではボディダブルが使われています。別の俳優の裸体に、サーセイの顔を合成したのです。
当初の契約時、サーセイは全裸撮影を許可する条件がなかったのではないか?と私は推察します。
別にデナーリス役が差別されていたのだとは、考えにくいのです。
こういう契約に従って裸体を撮影させるかどうか、左右されるものでしょう。
セクシー女優なら脱いでいいと差別したというよりも、全裸を晒す契約条件をのめるのがセクシー女優だったと考えた方が自然に思えるのです。
その上で「あの全裸場面そのものがおかしい」という批判があるのであれば、その通りだと思います。
あの場面に子役が参加していたのは、児童保護の観点からすると問題があると思います。今後の改善を望みます。
・朝顔の見ぐるみを剥いだ死体処理係の非人に対し、重三郎が罵倒したのはひどい
『鬼滅の刃』の話をさせてください。
あの「遊郭編」には鬼兄妹が出てきます。劇中では遊郭という特殊な生育環境のせいで、人生観が兄妹ともに視野狭窄に陥り、歪んでいたことがわかります。
重三郎もそういうところはあります。
倫理観を身につける教育機会はない。そういう二十歳そこそこ、七歳で親に捨てられてそこから働き詰めの江戸中期の青年に対し、現代人権思想を学んだかのような言動を求めるのは、高望みではないでしょうか。
そういうことをスマートフォンで打ち込んでいるのかと思うと、なんと言いますか……高みの見物ぶりにゾッとしちまうと言いますか。
己の身を振り返ってみて、あの年代の頃なんて私もくだらないことしかしてなかったもの。重三郎にやたらと高い倫理観を求めることは、私には到底できません。
それなりに高い教育をうけ、『論語と算盤』なんざえらそうに掲げておいて、ああいうことをした渋沢栄一は、批判相応だと思いますが。
・田沼意次と重三郎が面会するのは「ファンタジー」だ
まず、ファンタジーの定義がおかしくありませんか。
「九郎助稲荷がスマホを手にして解説するなんて、ファンタジーだ」
こういう批判なら、真っ当だと思います。
好みに合わない人は当然のことながら一定数いるでしょう。怪力乱神を語りたくない立派な方は一定数おられるものです。
しかし、田沼意次と重三郎が語ることは、“ファンタジー”とはいえません。
こういう反応があることは、制作スタッフが重なっている『麒麟がくる』でもありました。女医の駒が将軍やら明智光秀と親しくしていることが“ファンタジー”だとさんざん批判されたものです。
ならば、言い方をもっと適切にしましょうよ!
「頭が高い、控えおろう!」
あたりではありませんか?
要するに、駒にせよ、重三郎にせよ、下々の者がお偉い方に対等な口をきくのはけしからん。そういう封建的なマインドセットゆえに出てくる意見ですよね。
しかし、世の中には身分にこだわらず、下々の意見も気聞き入れようとするできた人もいるものでして。
こういう批判が出てくる方は、寛大で尊い態度をもつ人に意見を聞き入れてもらった経験がないから“ファンタジー”だと主張したくなるのではないでしょうか。
自分がそうだからと、天下万民がそうだと思われても困ります。
自分が卑屈な価値観の持ち主だからと、それに合わないドラマを叩いたところで、何かよくなりますか?
それに田沼意次の場合、重三郎のような者の意見まできちんと聞き入れる方が、時代考証として正解です。
意次は身分を問わず広く意見を聞き入れたことが政治的特色とされています。そのキャラクター性を示す上であの場面はむしろ巧みでした。
この“ファンタジー”論者の中には、江戸時代の武士は無礼な民なんて切り捨て御免だということを語っておられる方もおります。
いや、江戸時代中期は些細なことで刀を抜いたら大問題になります。
切り捨て御免なんてそうそうしないもの。幕末の治安悪化の中でそういう悲劇が発生し、その印象が強く残されたのでしょうね。
それにしても、こうして振り返ると見えてくるモノがあるのです。
日本人の意識はまだ身分に縛られてるってこと!
何度でも蒸し返しますが『青天を衝け』はどうでしょう?
性的搾取だの、人権軽視だの、そういうことを大河ドラマがやらかしたのは今年が初めての如く、声高にSNSで主張しておられる方がいます。
打ち切りにしろだの。NHKは性的搾取を促進しているだの。
そう主張されることは結構です。
しかし、しつこく問いかけますよ。
『青天を衝け』のときは、見た上で黙認しておられましたか?
問題に気づきませんでしたか?
そもそも見ていない?
悪質度でいえば『青天を衝け』の方が勝ります。
なにせ渋沢栄一が主人公で、伊藤博文や井上馨まで出てきますから。徳川斉昭の性的暴虐ぶりも酷いものがありますね。
それなのに、くどいようですが、どうしてあのときは静かだったのか。
お札に選ばれる人だから、そこまで酷くないと思ったのだとか?
吉原は問題だけど、日本の朝鮮半島支配およびそこでの渋沢栄一は問題がないと思ったのだとか?
だとすれば、極めて残念としか言いようがありません。
今年の大河はある意味、人を見る上でいい道具になるんじゃないかと思います。
今年の大河を大仰に叩いていながら、『青天を衝け』は無邪気に礼賛しているような人は、人の価値を中身でなく肩書きで判断していないか、要注意と判断できるかもしれません。
ものは使いよう。よく考えてお使いくだされ。
・アウシュヴィッツのような吉原を美化しているのは女が被害者だからだ
吉原は確かに残酷で劣悪な環境にありました。
ただし、だからといってそれをアウシュヴィッツに例えるのは、無駄な論争を引き起こしトラブルを招くのでご遠慮いただきたく。
アウシュヴィッツではなく、こういう場合は「ホロコースト」のような気がしますので、そう訂正しつつ、話を先に進めましょう。
ホロコーストは、日本人にとっての広島・長崎のような特殊な悲劇であり、民族のアイデンティティにも関わるものです。
たとえどんな悲劇であれ、やすやすと並べるものではありません。
海外では「破滅する」という意味で「ヒロシマ」「ナガサキ」を使われることがあります。
無神経ですし、不愉快で胸が痛む日本人は多いかと思います。ここまで書けば、ホロコーストのたとえを悲劇として持ち出すことの重要性がご理解いただけますでしょう。
ホロコーストは絶滅を目的としており、吉原のような労働環境が極めて劣悪な結果、犠牲者が多いシステムとはまた別です。
それにそもそもとして、どうして日本が主体となった惨劇や悪事はいくらでもあるのに、ナチスドイツのホロコーストを持ち出すのか。
ナチスドイツと枢軸国であった日本人が、その悪事を持ち出すあたりもセンスのなさが見えてくるものがあって辛いうえに、日本の責任を忘却していますよね。
吉原――国家が近代へ向かう中で生み出され、必要悪とされてきたシステム。
そういう位置付けを踏まえると、比較対象は奴隷制度や危険な鉱山労働、捕鯨船等を私は思い浮かべます。
労働そのものがフィクションの題材に扱われるという点でも一致するとなると、ナポレオン戦争期間の「英国海軍もの」との比較はいかがでしょう。
島国であるイギリスにとって海軍力は重要であり、フランス軍の上陸から祖国を守り抜いた海軍はまさしく盾でした。
そうはいっても、必要悪ともいえる組織です。
労働環境は劣悪極まりなく、水兵は志願者や犯罪者だけではたりません。そこで沿岸部で拉致してきた不運な市民を無理やり戦艦に乗せていました。
戦闘時、大砲の火薬を運搬するのは、小柄な少年兵が向いています。こうした少年兵は孤児をそうしていました。小学校低学年程度の少年まで戦艦には乗り込んでいます。
士官は一応、中上流階級の子息が志願します。
そうはいっても、家業を継げない次男以下が口減らしのように、13歳ほどで着任させられることも多いものでした。
要するに、社会からあぶれた連中を、蛆虫の湧いた固いビスケット程度しか食べられない戦艦に乗せて危険な戦闘に駆り出していたということです。
海軍の戦闘は大砲の撃ち合いで、砲弾にあたれば人体は一瞬で挽肉になります。海に落ちればサメの餌になるか溺死します。嵐が来て沈めば戦艦が墓場と化します。何か反抗的なことをすれば、肉が裂けるまで鞭打ちを喰らいます。
戦死者は階級問わず、基本的に水葬。遺品は仲間内で売却される。四肢切断率が高い上に手術は無麻酔で行う。士官以外は退役後、一切の保証なし。当時の港には、物乞いと化した老水兵がいたものでした。
読んでいて気分が暗くなってきて、なんでお前はこんな話をするのかとイライラしている方もおられることでしょう。
しかし、イギリスでは「英国海軍」ものは定番人気コンテンツなのです。
そうやって英国海軍ものを楽しんでいるファンに向かって、イギリス人はこんなことを言わない。
「英国海軍は海賊行為じみた略奪もする。犯罪を推奨しているのか?」
「少年兵が火薬を運ぶ姿を見て、疑問に思わないの?」
「こうした戦艦内では性的暴行も多数発生していた。こんなものを見て喜ぶ連中は、性的搾取を喜んでいるに違いない!そういうボーイズラブ作品もある」
「そもそも英国海軍は、帝国主義の手先だ!」
内心そう思うのは自由だけれども、保管されているHMSヴィクトリー号を爆破しろだの。ネルソン像は倒せだの。英国海軍小説を発売中止にしろだの。その作者は恥晒しだの。差別主義者だの。言わないわけです。
そういう過去の厳しい歴史を経て、今がある。そこを理解して、フィクションはフィクションとして楽しむだけの環境が整っているわけです。
もしかして、日本はそうなっていないのだろうか?――SNSで『べらぼう』打ち切り署名をやれ!と気炎をあげる意見を読み、そう思ってしまいました。
歴史には、現代人から見れば到底受け入れられないものやことがあります。
それを現代のモラルに合わせて変えるべきだと言い張りたいのであれば、歴史劇鑑賞に向いていないとしか言いようがない。傲慢だとも思います。
NHKでも放映された『アンという名の少女』とその反応も思い出しました。
『赤毛のアン』を原作とするあのドラマは、原作にはない先住民、黒人、カナダ人への差別を描きました。そのことを受け入れられないファンが怒っていたものです。
当時の問題構造をあえて切り込むと、妙な反応が返ってくる。
一体どうしたものでしょう?
近代史もの。「歴史総合」で扱う視点でもある民衆目線のもの。そうしたものに慣れていないせいで、妙なエラーを起こしている、それこそべらぼうな反応が多い。
私としては、このままあと十年は近代史もの、最低限戦国幕末ループ以外の大河を続けて、歴史観ごと一新しないと色々まずいのではないかと思ったほどです。
長くなりましたが、ここまでしつこくいろいろ考えたくなるほど、今年の大河ドラマはべらぼうな領域に突っ込んで行っているようです。
流石に考えすぎて疲れました。
あわせて読みたい関連記事
鱗形屋孫兵衛は重三郎の師であり敵であり 江戸の出版界をリードした地本問屋だった
続きを見る
田沼の時代を盛り上げた平賀源内!杉田玄白に非常の才と称された“山師”の生涯とは
続きを見る
ありがた山の寒がらすってどんな意味?まんが『大河ブギウギ べらぼう編 第1話』
続きを見る
『べらぼう』主人公・蔦屋重三郎~史実はどんな人物でいかなる実績があったのか
続きを見る
恋川春町の始めた黄表紙が日本人の教養を高める~武士から町人への出版革命
続きを見る
直前予想!大河ドラマ『べらぼう』は傑作となるか?タイトルから滲む矜持に期待
続きを見る
田沼意次はワイロ政治家というより優秀な経済人? 評価の見直し進む
続きを見る
田沼意知(意次の嫡男)が殺され 失われた江戸後期の発展 そして松平の圧政がくる
続きを見る
◆全ての関連記事はこちら→(べらぼう)
◆視聴率はこちらから→べらぼう全視聴率
◆ドラマレビューはこちらから→べらぼう感想
【参考】
べらぼう/公式サイト