天正三年(1575年)秋。
朝廷から「右近衛大将」という官職を得て、順風満帆かに見えた上洛中の織田信長。
そのもとへ、急な報せが届きました。
「岩村城(恵那市)を攻撃している我が軍の背後をつこうとして、武田勝頼が進軍しております!」
岩村城とは東美濃にある【織田vs武田】の最前線。
武田家攻略のため織田信忠が攻め込んでいたところ、その後詰め(救援)に勝頼がやってくるというのです。
そもそも岩村城は信長の叔母にあたるおつやの方が城主を務めていたところで、その後、武田軍の秋山虎繁(秋山信友)に陥落されたという経緯があり、今回の戦いを含めてまるでドラマのような展開を迎えます。
一体、それはどんな内容だったのか?
『信長公記』の記述だけでは経緯がわかりにくいので、他の文献も交えながら【岩村城の戦い】を追っていきましょう。
元亀3年(1572年)夏
東美濃の武将で、岩村城主の遠山景任が亡くなりました。
彼は織田・武田・斎藤氏などに挟まれた地勢の中で、なんとか半独立状態を保っていた器用な人物。
信長の父・織田信秀が台頭してきたあたりからは、やや織田家寄りの態度をとっており、信長の叔母・おつやの方を正室に迎えました。
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おつやの方は、美形が多いとされる織田家の中にあっても、とりわけ美しいとされた女性です。
しかし、何かの業を背負わされたかのような悲運の生涯を辿ります。
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遠山景任が亡くなったとき、おつやの方との間には男児がいなかったので、信長は、織田信広(信長の兄)と河尻秀隆を送って岩村城を押さえ、自身の五男・御坊丸(織田勝長)を遠山家の養子にするため送りました。
これが信玄を激怒させた。
そもそも織田と武田の国境沿いにある岩村城(遠山家)は中立的立場の緩衝地帯です。それを、どちらか片方が支配下に置いたらどうなるか?
信長のやった行為は「信玄さーん、今まで中立だったけどこれからは織田の支配にしますんで、よろしく♪」というように喧嘩を売ったも同然だったんですね。
もちろん黙っている信玄ではありません。
他ならぬ遠山一族も信長の支配強化に反発し、武田家へなびきました。
元亀3年(1572年)秋
この年、武田信玄が西上作戦を開始します。
信玄は軍を分け、おつやの方が籠もる岩村城には秋山虎繁を派遣。
秋山軍に囲まれ、とても守りきれないと判断したおつやの方は、
「私が虎繁殿と結婚する(=人質になる)ので、家臣たちの命は助けてほしい」
と交渉しました。
虎繁がこれを受け入れ、岩村城は武田軍のものになります。
※虎繁が結婚を迫り、おつやの方が仕方なく受け入れたという説もあります
信長は、この件については仕方ないと不問にするしかありません。
この時点での信長は、足利義昭や浅井長政・朝倉義景、長島一向一揆など周囲を敵に囲まれ、とてもじゃないけど岩村含めた東美濃にまで手が回らない。そんな状態だったのです。
元亀4年(1573年)
2月、虎繁とおつやの方の祝言が挙げられ(挙げていない説も)、御坊丸は人質として甲府へ送られました。
信長の子が、信玄のもとで暮らすという中々スリリングな展開です。
その半月後ぐらいから、岩村城周辺で織田と武田の衝突が散発するようになります。
しかし同年4月に信玄が病死したため、しばらく岩村城付近の情勢は静かになりました。
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天正2年(1574年)
明知城(恵那市)を巡って織田・武田が争い、織田軍が出遅れたため、城は武田軍の手に落ちました。
信長が、明知城の周辺に河尻秀隆や池田恒興を残して引き上げたのは、近隣にあった岩村城やその周辺の監視を信頼できる者たちに受け持たせたかったからでしょう。
河尻秀隆は信長の父・信秀時代からの老臣。
池田恒興は信長の乳兄弟ですから、信長にとって特に親しく、信頼の厚い者たちです。
同時に、このエリアがいかに重視されていたか、よくわかりますね。
天正3年(1575年)
天正3年5月【長篠の戦い】が勃発。
織田・徳川軍が武田軍に壊滅的な打撃を与えることに成功しました。
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これにより、武田側の拠点を攻略する下準備ができ、主に信長の嫡子・織田信忠がこの方面を担当することになります。
立地的に岩村城が取れれば、甲斐攻めの大きな足がかりになります。
逆に、ここを落としておかなければ美濃からの進軍が難しく、遠回りを余儀なくされる――ゆえに岩村城の攻略に取り掛かっていたところ、武田勝頼が挙兵し、冒頭の報せとなったのです。
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この勝頼進軍の報を受けた岩村城の武田軍は、いったんは勇気づけられたことでしょう。信長が報せを受ける前の11月10日、水精山(すいしょうざん)に陣を張っていた織田軍に夜襲を仕掛けています。
織田軍の包囲を打ち破り、進軍してくる武田勝頼との合流を試みたと思われます。
しかし、河尻秀隆らが応戦したため、武田軍にとっては失敗で終了しました。
京都の信長が勝頼出馬の知らせを聞いたのは、それから4日後の11月14日夜。
一報を受け取るやいなや、直ちに京都を出発し、15日には岐阜へ戻っています。この神速ぶりはさすがといったところですね。
大将格21人、武士1,100人余りを切り捨て
岩村城からの夜襲をしのいだ信忠軍は、今度は攻めかかってきた武田軍へ反撃を開始しました。
岩村城の将兵たちは撤退して城を目指し、場内へ戻れなかった者たちは付近の山中へ逃亡。織田軍の捜索・追撃によって大将格21人、武士1,100人余りが発見され、切り捨てられたといいます。
援軍も望めず、頼みの綱の奇襲は失敗――。
こうなると不利な籠城軍に取れる選択肢はそう多くありません。
徹底抗戦して最後の一兵まで戦うか、何らかの条件と引き換えに将兵の命を助けてもらうか……。
このときの岩村城は後者を選びました。
信忠の家臣・塚本小大膳を介して、降伏と引き換えに城内の者たちの助命を嘆願してきたのです。
塚本小大膳は、信長の馬廻りから信忠の家臣になった人で、主に東美濃で活動していたため岩村城の武田軍にもある程度知られていたと思われます。
織田軍は小大膳の補佐・目付として塙伝三郎をつけ、話を進めました。
伝三郎については、あまりよくわかっていません。
後に【本能寺の変】の際も信忠に従って討死しているので「身分はあまり高くないが、信忠に信頼されていた家臣の一人」というところでしょうか。
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こうして【岩村城の戦い】は信忠軍の完勝に終わるのです。
問題は二人の処分でしょう。
虎繁と家臣二名が投降してきた
11月21日、交渉を終えた岩村城主・秋山虎繁とその家臣二名が降参してきました。
彼らの降参の条件は、城に残っている者を全員助命すること。
信忠が三人を岐阜へ護送すると、受け取った信長は長良川の河原で彼らを磔刑にしています。
ほか城内に残った敵は討ち死にあるいは織田軍に焼き殺された……と信長公記には書かれているのですが、これだと降参の条件を反故にしたことになりますね。
また、別の史料では「当初、秋山らは赦免される予定だったが、信長は突然処刑した」ということになっており、食い違いが大きくなります。
このとき、武田軍に城を明け渡した信長の叔母・おつやの方も、信長に処刑されたといわれています……が、信長公記にはそもそも彼女に関する記載が全くありません。
まあ、信長の妹であり、特に浅井氏との関係で重要だったはずのお市の方ですら、信長公記にはほぼ登場しません。
太田牛一の価値観によるものでしょうか。
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おつやの方は逆さ磔で処刑された、もしくは信長が手ずから切り捨てたともいわれていますが、これも定かではありません。
一つ気になるのが、おつやの方が子供を産んでいたことです。
おつやの方が産んだ男児は村上水軍へ
おつやの方は元亀4年(1573年)に「六太夫」という男児を産んだとされます。
おつやの方の元の夫・遠山景任が亡くなったのは元亀3年(1572年)8月。
秋山虎繁と結婚したのが元亀4年(1573年)3月頃。
両者に父親の可能性があるのです。
もしも信長が「おつやの方が敵の子供を産んだ」と判断したなら、処刑に至ってもおかしくはないでしょう。
六太夫は岩村城が落ちる直前に逃げ延び、巡り巡って瀬戸内海の村上水軍に入ったといわれています。
そして慶長五年(1600年)9月18日、【関ヶ原の戦い】局地戦の一つ・三津浜夜襲(「刈屋口の戦い」など複数の呼び名あり)で討死したとか。
★
岩村城へ向かっていた武田勝頼は、城が落ちたことを知って甲斐へ帰還せざるを得ません。
備えのため岩村城に河尻秀隆を入れた信忠は、24日に岐阜へ凱旋。
ときに織田信忠18歳のことでした。
家臣らに大きく支えられていたとはいえ、まだ家督を継いでもおらず、初陣や元服からほんの2~3年という状況を考えれば、出来すぎではないでしょうか。
信忠の将来性に大きく期待できる戦果といっても過言ではありません。
そしてその働きは織田家中ではなく、外部にも認められていくのでした。
なお、おつやの方に関する詳細記事は以下にございます。よろしければ併せてご覧ください。
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【参考】
国史大辞典
平山優・株式会社サンニチ印刷『信虎・信玄・勝頼 武田三代』(→amazon)
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
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