「北海道大好き! 移住もしちゃう!」という話って、ときどき耳にしますよね。
超有名なところでは倉本聰さんとか。
あるいは雨上がり決死隊・蛍原さんも北海道好き芸人として知られ、過去には富良野観光大使にも任命されたほどです。
もとより北海道には、開拓民として明治維新後に移住された方もかなりの数に上りますが、江戸時代における屈指の北海道好き歴史人ならこの方では?
天保七年(1836年)9月5日、山形出身の探検家・最上徳内が亡くなりました。
山形で最上というと、ずばり戦国大名の最上義光でしょう!と思われるかもしれませんが、徳内の実家は農家だったとされていますので、直接の関係はなさそうです。
おそらく地名から来ているのでしょう。
最上は、北海道が蝦夷地としてまだまだ未踏の領域だった頃に、八方手を尽くして幾度も足を運んだほどのツワモノ。
早速、その生涯を見てまいりましょう。
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蝦夷の住民に農業を教えたい
徳内は若い頃、東北各地でタバコの行商などをしていたといわれています。
商売にはいわゆる「銭勘定」はもちろん、さまざまな知識が欠かせませんので、おそらくそのあたりから学問に興味を持ったのでしょう。
徳内は、父の生前にこんな会話(意訳)をしたと言います。
「男子に生まれたからには、幼い頃から“これを成し遂げたい”と志を持つべきだ。お前はどうだ?」
「蝦夷には日本の文化が伝わっていないと聞いたことがあるから、一度そこに行っていろいろな文化を教えたい」
このエピソードが事実であれば、行商や家に出入りする人々からそのような話を聞いて、家業である農業などを伝えたいと思ったのでしょう。
なんだか上から目線の意識も窺えますが、農業は今も昔も生活の礎です。
農家出身の徳内であれば「農業がない蝦夷の住民はさぞ貧しい暮らしをしているに違いない。やり方さえ教えれば、もっと豊かに暮らせるはずだ」といった考えを抱いてもおかしくないでしょうか。
その父を亡くすと、徳内は27歳で江戸へ出て、幕府の医官・山田図南の家僕(雑用などをこなす仕事)になっています。
奉公しながら医学や数学を学んだらしいので、むしろ学問のついでに働き口を探したような感があります。
私塾に入ったり、長崎へ算術修行にも行ったり。
仕事も真面目にやってちゃんと給金をもらえていたはずですから、問題はなかったのでしょう。
現代でいえば、新聞奨学生や社会人学生みたいなものでしょうか。
田沼の重商政策に乗っかり第一歩
当時の幕府は、田沼意次が老中をやっていた頃です。
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意次は重商政策と北方防衛を兼ねて、蝦夷地の視察を行った後、開発に取り組もうと考えていました。
その調査隊メンバーに徳内の師匠である本多利明が選ばれます。
が、利明は病を患っていたため、代わりに徳内を推薦。
彼はまだ名を知られていなかったのか、学者としてではなく人夫として隊に加わることになりました。
思わぬところから、徳内はかつての夢へ第一歩を踏み出すことができたのです。
第一回目の蝦夷調査では、釧路~厚岸~根室の地理や、この地に住んでいたアイヌの文化を調べた後、千島・樺太・国後島へ。
この働きが認められた天明六年(1786年)、今度は単身で再び国後島へ渡り、択捉島・得撫(うるっぷ)島へも渡っています。
択捉島では、交易のために滞在していたロシア人と接触。
アイヌたちが通訳を務めてくれたようで、ロシア人とも交流し、彼の国の事情を学んでいます。
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