「弓馬の道」という言葉があるように、古代~中世の武士にとって弓矢は、魂とも言える大切な武器。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、源頼朝が弓を構えたり、山内首藤経俊や比企能員の矢に一本一本名前が書かれていたり、逆に「あまり得意じゃない……」と源義経がしおらしくなっていたり。
なぜ彼らはあそこまで弓矢に思い入れがあったのか?
大切とは言うけれど、実際、武士にとってどんな存在だったのか?
本稿では、鎌倉武士と弓矢について考察します。
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和弓:扱いが難しいのはなぜか
人新世(じんしんせい)――最近、こんな言葉を耳にしたことはありませんか?
人類の活動が「地球の環境や生態系に影響を与える時代」を指しますが、振り返ってみると人類はずっとそうでした。
直立歩行で道具を操る。
道具が発達しすぎて、野生動物を滅ぼしてしまう。
すなわち武器が進化するわけですが、その中でも、世界各地の文明圏で古くから用いられたのが弓矢です。
遠くまで飛び、獲物をもたらす――あまりに画期的な道具だったことは、世界各地の神々や勇者が弓を持っていることからもご理解いただけるでしょう。
要は神聖な道具であり、『鎌倉殿の13人』の舞台でも、その存在は際立っていました。
源平合戦の名場面には、弓にまつわるものが多い。
那須与一が腕前を見せた「扇の的」。
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義経が弓を海に落としてしまい、自分の弓が弱いことを知られたくないと必死に回収した「弓流し」。
『鎌倉殿の13人』でも象徴的なシーンがありました。
頼朝の命を受け、義経が出陣を果たす場面です。
このとき頼朝は余裕をもって弓を引いているのに対し、義経は腕が震えていました。
義経が放った矢が、兄・頼朝の矢を的から弾き出しましたが、注目すべきは義経の非力さでしょう。
義経にとって頼朝の弓は強過ぎたのです。
第11回の放送でも、兄の義円が強い弓を引く様子を義経がムスッとしながら眺める様子がありました。
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実は、頼朝は弓の名手と伝えられています。
一方で義経は、強い弓を射ることが難しい「弓流し」の逸話がある。
兄弟には腕力差があり、かつ、義経がそれを恥じていたことがわかります。
ではなぜ、そんなことが起きるか?
というと「和弓」だったからとも言えます。
和弓は、腕力と精密な動きが要求されます。
他の文化圏では、もっと扱いが簡単な弓が使われていました。
例えば、アイヌ文化を描いた漫画アニメ『ゴールデンカムイ』に登場する少女アシリパは、弓を使いこなします。
小柄で幼い彼女でも使えるほど、アイヌの弓矢は軽い。
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さらに中国では、古代から「弩」が盛んに使われていました。
「諸葛弩」という連弩は、あの伝説の軍師・諸葛亮が開発または改良したとされるもので、仕掛けを使いこなせば連射もできるほど。
百年戦争前半戦で猛威を振るった、ウェールズとイングランドの長弓。当時はただの「弓」と呼ばれていたものが、後世「長弓」と呼ばれるようになりました。
ロビン・フッド伝説のイメージ通り、強力な武器です。
それでも持ち味は連射性能であり、貫通力と精度は要求されません。弓兵は武士ほどの鍛錬を積んでいたわけではありません。
こうした弓と比較すると、段違いに扱いの難しい和弓の特性が浮かんできます。
和弓は難しい――だからこそ武士の誇りと結びついてきました。
和弓は大きく強くなる
元々は狩猟目的で使われていた弓。
それは日本も同じで『三国志』「魏志倭人伝」には、短く原始的な弓を用いていたことが記されています。
装飾と改良が進んだのが平安時代中頃から。
それまでの「丸木弓」の外側に、竹を貼り合わせた「伏竹弓」が生まれました。
竹を貼るワケですから、接着剤が重要な役割を果たし、そこには膠(にかわ)が用いられています。
発明当初は破損しやすいという弱点がありましたが、時代の進歩につれて弓の強度も改良。
『鎌倉殿の13人』の舞台となる当時は「三枚打弓」が最先端でした。
前面だけではなく裏表両面を覆ったもので、さらに時代が降って室町時代になると、側面まで囲った「四方竹弓」が登場します。
弓の芯に竹を入れた「弓胎弓」(ひごゆみ)も開発されました。
弓を射るためには、弾力も必要となります。
動物性繊維で補強する場合もありますが、日本では用いられず、弓そのものを長くします。
木を竹で補強し、長くする――そんな改良の過程で、和弓の特性が助長されていくんですね。
長い。
美しい。
命中精度が高い。
連射は難しい。
貫通力がある。
腕力と技術が必要。
そんな取り扱いの難しい弓で、なるべく正確に敵を射抜き、馬上騎射もこなす――かくして源平合戦に向かう時代、弓は非常に高度な技術が要求されるようになっていました。
となると今度は、武士たちも戦場で気になって仕方がない。
「これほど強い矢を射たのは誰であるか?」
それをアピールするためにも、彼らは自分の矢に名前を書き込んだのです。
頼朝の乳母子でありながら挙兵に従わず、【石橋山の戦い】では平家方についた山内首藤経俊。
彼は、後に捕らえられた際、頼朝を射った矢に自身の名前が書いてあったことから、弁明の機会を失っています。
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なぜ、そんな真似をしたのか?と疑問に思いませんでしたか。
そこには武勇の極み「弓術」を誇りとする、武士の気質があったのです。
平安時代から源平合戦の頃までは、弓を持つ勇者が顕彰されてきました。
「弓馬の道」という言葉があるほどで、以下のような武人たちがズラッと並びます。
この「弓馬の道」とは、本来、弓術と馬術という意味ではありません。
騎射(馬に乗った状態で弓を射る)と歩射(馬に乗らずに弓を射る)ことを指しました。
弓を射る技術がそれだけ重視されていたのです。
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