日宋貿易

宋銭/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

銭を輸入するだけで清盛ボロ儲け!日宋貿易が鎌倉に与えた影響とは?

2025/03/06

大河ドラマにせよ、歴史マンガにせよ。

社会に与えた影響が極めて大きいにも関わらず、あまり描かれないことがあります。

お金(経済や貿易)です。

戦国時代だって幕末維新だって、見どころとなるのはやはり合戦や討ち入り、あるいは政争・外交などであり、お金が主役になることは滅多にありません。

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、主役はあくまで武士でした。

しかし、経済貿易の話が完全に軽視されていたわけでもなく、本記事で注目したいのが【日宋貿易】です。

そもそもは平清盛が熱心に取り組んでいたもので、ドラマでも「頼朝なんかほっとけや!」とばかりに日宋貿易で得た輸入品に目をキラキラさせているシーンがありました。

月岡芳年が描いた平清盛/wikipediaより引用

あのシーンを見て『何をそんなにウキウキしているんだ?』と疑問に思われた方もいるかもしれません。

日宋貿易は、為政者に莫大な利益をもたらし、鎌倉時代に大きな影響を与えたのです。

なぜ、さほどに儲かったのか?

影響を与えるようになったのか?

古代から続く日中両国の交流を見ながら、日宋貿易を振り返ってみましょう。

 


倭国:東にある謎の島

東の海の向こうには、島国があるらしい――。

古来、中国大陸では日本のことをそう認識しており、象徴的な伝説がこちらでしょう。

始皇帝が方士・徐福に不老不死の霊薬を求めさせ、三千人の童男童女とともに東の海へ向かった――。

始皇帝/wikipediaより引用

三千人とはやぶさかではありませんが、日本各地で「徐福上陸伝説のある土地」があったり、「子孫だと名乗る一族」などがいたりします。

◆佐賀市観光協会 徐福(→link

始皇帝の時代から少し進んで、日中の交流を示すシンボルが、福岡で発掘された「漢委奴国王印」と、中国の史書『魏志倭人伝』でしょう。

とりわけ『魏志倭人伝』は、中国の歴史書においても珍しいほど日本の記述が多く、ミステリアスな卑弥呼の存在もあって、多くの方の関心を誘っています。

しかし、これには注意点があります。

魏、呉、蜀の三国に別れた中国では「どの王朝が正統であるか?」を示さねばならない事情がありました。

正史『三国志』は魏のあとを継いだ西晋時代に書かれていて、魏の正統性を示さなければならなかった。

つまり

「距離で言えば呉の方が近いのに、東の倭国は魏との外交を望んだ。これぞまさに正統ですね」

というように、魏の価値を高めるため長い記述が用いられたとも言えるんですね。

蜀の旧臣である筆者の陳寿は、そのせいで「魏に贔屓した!」と理不尽な批判を受けておりますが、それはさておき、中国における日本は東瀛(とうえい)とか扶桑(ふそう)という呼び方もありました。

東の方角にある仙人が住む場所という意味です。

要は、航海技術が発展するまで「よくわからない不思議な国」だったのです。

 


マナー違反の遣隋使

魏晋のあとは南北朝時代へ続き、その後、統一されたのが隋。

ご存知「遣隋使」の始まった時代であり、聖徳太子によるこんな逸話が有名ですね。

聖徳太子/wikipediaより引用

日出処(ひいずるところ)の天子、書を日没処(ひぼっするところ)の天子に致す。

日が登る国の天子から、日が没する国の天子に送る。

地理関係に乗っかるようにして「自分達は上り調子で、そちらは下り坂だ! こちらを下だと思わないように!」と宣言した強気な文面――対等の付き合いを求めたものと学校で習われた方も多いでしょう。

しかし現在、このフレーズだけを切り取って判断するのは「過大評価・拡大解釈」とされ、偏った見方には疑念が呈されています。

受け取った側の煬帝は本当に激怒したのか?

誇張されていないか?

重要なのは、前後を無視してそこだけ切り取り「中国に屈しない日本スゴイ!」と言いたい側の動機や心情を考察することかもしれません。

外交相手にこの文言を用いることが相応しいのかどうかの検討も必要でしょう。

また、朝鮮半島の王朝と比較すると、日本が中国に対して低姿勢とはいえない傾向も指摘されます。

プライドといった精神論ではなく、地続きであるか、海を隔てているかという地理的条件もあり、実質的に隋へ大打撃を与えた点で言えば、高句麗の方が上といえます。

隋の高句麗遠征は失敗し、大打撃を受け、王朝の命運を暗転させました。

朝鮮半島を武力討伐することは危険であると認識させた大きな分岐点です。

 

遣唐使:唐に近づきたい時代へ

そんな隋は無理が祟ってわずか二代で滅び、唐の時代となりました。

分裂状態から統一された唐は、世界最大の大帝国。

長安には、エキゾチックなイラン系の人々も見られる、それが当然の風景となったのです。

詩聖とされる李白の詩をご覧ください。

李白/wikipediaより引用

李白「少年行」

五陵年少金市東 五陵の年少 金市の東

銀鞍白馬度春風 銀鞍 白馬 春風を度る

落花踏盡遊何處 落花踏み盡くして何れの處にか遊ぶ

笑入胡姫酒肆中 笑って入る胡姫の酒肆の中

この詩には、高級住宅地から銀の鞍を乗せた白馬に颯爽とまたがり、イラン系ホステスのいるクラブへ向かっていく姿が描かれています。

今ならば高級リムジンを乗り回し、ドンペリを出すクラブへ向かうような姿ですね。

その是非はともかく、こんな唐が領土拡大の外交政策を進めたらどうなるか?

懸念を抱いた日本は行動に出ました。

663年【白村江の戦い】――日本は百済と連合を結成し、唐・新羅連合軍と戦ったのです。

唐の進出を食い止めたい日本と半島勢力が協力したわけですが、それ以前に高句麗が隋に大勝利をおさめていましたし、戦略としてはアリだったのでしょう。

しかしこれに敗れ、日本は方針を転換します。

唐と友好関係を築くことにしたのです。

結果、漢籍と仏典が日本に流入し、他にも唐には手本にすべき要素が大量にありました。

長安を手本にして平安京を作ろう。

漢籍を引用して文学作品を作り上げよう。

そんな時代の到来です。

ここで注意したいことがあります。

別に唐を真似ることは屈辱でも何でもありません。

アジアの規範として唐があり、多くの国が一歩でも近づこうと努力していた時代です。

これは洋の東西を問わず、先進的な文明国をいかに模倣して自国を作り上げるか、ということを人類は繰り返してきました。

 


日本に残る、巨大な唐

しかし、栄枯盛衰もまた歴史の必然。

唐にも翳りが見えてきました。

失墜の原因とされるのが【安史の乱】です。

様々な要因が重なったこの悲劇は日本人にも衝撃を与えます。

安禄山/wikipediaより引用

乱によって引き裂かれた玄宗と楊貴妃の悲恋を描いた『長恨歌』は特に愛されました。

紫式部は『源氏物語』の冒頭で、光源氏の母・桐壺更衣の寵愛ぶりを楊貴妃に例えるほど。

と、ここまでは教科書にもあるような美談ですが、それのみならずトンデモ妄想が日本にはありました。

楊貴妃が日本にたどり着き、息絶えたというものです。

そんな伝説のもと、楊貴妃の墓まで作られたのですから驚きでしょう。

◆ 楊貴妃伝説の寺 二尊院(→link

伝説の美女に対する憧れ自体は問題ありませんが、ここまで来るといかがでしょうか。

中には、

「楊貴妃の正体は日本人! 日本に攻め込もうとする唐の国力を落とすために送り込まれた、ハニートラップだったんだよ!」

なんて妄想まであったとか。

こうした動向の背景にあるのが、どうしても「中国に勝ちたい」という思いでしょう。

 

【安史の乱】から翳りが見え、ついには滅びてしまった唐。

遣唐使が終わり、唐も滅亡し、日本には国風文化が花開きました。

その結果、どうなったか?

 

いくつか事例を見てみましょう。

・漢文の読み方

現代の日本でも、国語の時間に漢文の読み方を習います。

日本の文化を学ぶ上では漢籍読解が欠かせないのですから、当然のこと。

ただし、日本の漢文読解は唐代までの“特化型”といえます。

唐時代の後、文法が変化した漢籍となると、読めなくはありませんが手間がかかります。

明清時代における漢籍、特にくだけた表現のものとなると、いっそ現代中国語で読んでしまった方が早いこともしばしばあります。

・日本人の漢詩

上杉謙信、伊達政宗、近藤勇渋沢栄一、乃木希典……彼らは漢詩を残しました。

こうした日本人の漢詩は、中国から見るとかなり興味深い事象となります。

「すごい、戦国武将も明治人も唐詩のように詠んでいる!」

言葉は常に変化していくものですから、中国でも文法や流行が変わり、時代によって漢詩も変わってゆきます。

しかし日本ではずっと唐で停止していたため、こんな不思議な現象が起こりました。

・「唐様」(からよう)

江戸時代にこんな川柳がありました。

「売家と唐様で書く三代目」

初代が苦労して建てた家を、書道だのなんだの家業以外にうつつを抜かして三代目が売りに出す――そう皮肉ったものですね。

この「唐様」とは、中国風の字体という意味。

具体的にいうと、文徴明が代表です。

しかし文徴明は明代の人物であり、要するに、中国は全部「唐」だと認識していたのです。

ちなみにフォントでおなじみの「明朝体」は、明代が発祥とされます。ややこしいですね。

・横光三国志

日中の国交が正常化されていない、あるいは活発化していなかった昭和のころ。

『三国志』や『水滸伝』をメディアにするとなると、時代考証がどうしても中途半端になってしまいます。

資料が入手しづらいのですから当然のことであり、衣装や甲冑の様式が唐に近いことがしばしばありました。

例えば人形劇『三国志』の甲冑は唐代の様式です。

現在でも日本人がぼんやりと「古代中国」とイメージした場合、唐代の形式になることがしばしばありますが、これは日本特有の現象。

唐はあまりに巨大であり、日本人の意識に残り続けたのです。

そして唐が無くなっても、経済的に結ばれた両国の関係は途絶えることはなく、交流は続きました。

いよいよ日宋貿易へと向かいましょう。

 

日宋貿易の時代へ

平安時代が末期に向かう中、荘園制度に依拠した日本の経済は限界を迎えつつありました。

そこで平清盛が目を向けたのが海の向こうの大陸。

博多津(現・福岡市)に来航している宋船を、京都に近い福原(現・神戸市)に来航させることにしたのです。

平清盛邸宅があった福原雪見御所碑/wikipediaより引用

清盛は、強風に耐えられるだけの人工島を作り、日宋貿易を実現させます。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、平清盛が宋人から満足そうに荷物を受け取る場面がありました。

では、唐から宋になり、日本には何がもたらされたのか?

『鎌倉殿の13人』に特徴的なワンシーンがありました。

後白河法皇の手紙からふわっと香ってくるいい匂いに、大興奮する三浦義澄と北条時政。

京都の貴人たちは、宋から届く香料を使っていたのです。

日宋貿易で輸入された品目をざっとまとめてみましょう。

【日宋貿易の輸入品】

・香料および薬品

・陶磁器

・織物

・書籍

・絵画、書等の美術品

・宋銭

漢方医学で用いる薬品や繊細な陶磁器、あるいは美しい布地など、魅惑的な文物が宋から続々と流入。

『鎌倉殿の13人』においても、京都の人々が着ている服の質感は坂東の人々とは異なり、例えば鎌倉から上洛した北条政子(小池栄子さん)や大姫(南沙良さん)が、京都の丹後局(鈴木京香さん)にボロカスに馬鹿にされるシーンもありましたね。

北条義時たちが木簡で米の産出量を計算する一方、京都の人々は紙に筆で文字を書きました。

飛鳥~奈良時代の木簡/photo by さぱしあ wikipediaより引用

その手本となる書だって宋が本場です。

 

莫大な利益を産んだ宋銭

しかし日宋貿易における最大の輸入品は上記の品目にはありません。

宋銭です。

日本でも8世紀に中国を手本として和同開珎が作られますが、程なくしてそれが途切れると、秀吉時代に金銀貨幣が作られるまで、日本では貨幣が作られなかったのです。

それを流通させるのですから、これはもう入手した時点で莫大な利益となります。

前述の通り『鎌倉殿の13人』では、宋との貿易に夢中だった平清盛が源頼朝のことをあっさりと忘れるシーンもありました。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

輸入=莫大な利益となるのですから、それも致し方ないことだったでしょう。

2011年大河ドラマ『平清盛』では、主役である清盛の先進性の象徴として、宋との繋がりが強調されていました。

しかし今振り返ってみますと、皮肉にもこの作品は平家の限界を象徴するようでもありました。

2つの例を挙げたいと思います。

・平清盛が宋剣を愛用している

同作品では、平清盛が宋剣を装備していました。

これは設定としていただけません。

宋銭を輸入する一方、日本からは金、銀、水銀、硫黄、刀剣、木材、漆器などが輸出されました。

日本の武器は宋で人気が高かったのです。

いわば日本刀は自国が誇るブランド品の一つであり、そこで宋の刀剣を愛用していれば「なぜアナタは日本刀を使わない?」と信頼問題にもなってきましょう。

トヨタの社長がGMやBMWに乗っていたら、違和感ありませんか?

・清盛が源義朝と一騎討ちしてしまう

ドラマの見どころを指摘するのも野暮ですが……。

中国から『孫子』でも買い取って熟読していたら、こういう無茶振りはしません。

『孫子』の愛読者である曹操は「個人的武勇の自慢は、将のすることではない」と断言しています。むしろ恥ずかしいことなのです。

◆松ケン清盛、ついに玉木宏と一騎打ち!「一番心が震えた」と心境明かす(→link

宋とのつながりを強調して、清浄歓喜団(せいじょうかんきだん・現在も販売されている菓子)や船を作ることは素晴らしい挑戦でした。

しかし、輸出品目の特性や兵法軽視はいただけません。

もっとも平家に限界があったからこそ源氏が勝利するわけで、それも仕方のないことではあったのでしょう。

平家とその都である福原は短命に終わり、時代は鎌倉へと移ってゆきます。

 

鎌倉幕府と宋

では平家を倒した源氏は、宋との交易をやめたのか?

中国の影響は消え去ったのか?

そんなことはありません。

『吾妻鏡』では、北条政子の死に際し、こう記しています。

北条政子(江戸時代・菊池容斎画)/Wikipediaより引用

前漢の呂后に同じく、天下を執行せしめ給う。

前漢の呂后は、夫である太祖・劉邦の愛した戚夫人を惨殺し、政子の【亀の前騒動】どころではない猛烈さがあったとされています。

彼女らは悪女とされる点でも共通していると指摘されがちですが、ここでの記述は決して貶しているわけではありません。

呂后には政治手腕がありました。

政子もそう。

吾妻鏡』では二人を褒め称える文脈で伝えています。

呂后にせよ、彼女と並んで悪女とされる武則天にせよ、統治能力は優れていました。

唐は中国史上においても女性の行動が自由であり、強い時代であったと評されます。

この傾向は唐周辺の国家にも及び、新羅では善徳女王が国を治めました(在位632年-647年)。

 

鎌倉仏教

鎌倉時代は仏教が盛んになりました。

多くの寺社と仏像が作られますが、仏像の制作や仏事には白檀が欠かせない、そして香木は輸入しなければならない。

そもそも仏典も、インドから伝わったものを中国で翻訳し、それが日本に伝わりました。

そうした仏典を学んだからこそ、鎌倉仏教が発展してゆくのです。

質素倹約を好み、武芸を鍛錬する質実剛健――のみならず王朝貴族たちのものとされてきた漢籍由来の教養を、鎌倉の武士たちも身につけつつありました。

智勇兼備の新たな理想像は、かくしてできあがってゆきます。

そんな鎌倉武士の頂点に立つ三代目将軍・源実朝は、日宋関係を考える上で重要な人物となります。

源実朝/Wikipediaより引用

顕著な例が、南宋から日本に渡ってきた建築家・陳和卿です。

陳和卿は、源平合戦の頃に日本の地を踏み、兵乱で焼けた東大寺の復興に尽力。

頼朝が面会を求めても、その殺生を嫌い断った陳和卿が、建保4年(1216年)、鎌倉に姿を見せたのです。

そして実朝への拝謁を望み、願いが叶うや、三拝し泣き出しました。

実朝が驚いていると、なんでも実朝は宋にいた高僧の生まれ変わりであり、彼はその門弟であったというのです。

このことは実朝が5年前に見た夢と一致。

誰にも明かしたことのない夢でした。

かくして実朝は宋へ渡ることにし、大船を作り始めます。

陳和卿に大船の建造を命じた源実朝/wikipediaより引用

翌年にできたこの船は残念ながら失敗してしまい、建保7年(1219年)2月13日に実朝は公暁の凶刃に倒れ、宋へ渡る夢は叶わなかったのでした。

とはいえ、これには重要な意味合いがあります。

宋人からみて野蛮な者は面会しない――頼朝はそう判断されました。

それが源実朝になると、陳和卿自ら会いにくるのですから、洗練された将軍の姿がうかがえるのです。

実朝の夢は破れたものの、宋との交流は続き、鎌倉の人々は変わりました。

仏典や漢籍を読みこなし、白檀の仏具を用いる。法、制度、礼法が浸透し、猛々しいだけではない存在となりました。

儒教由来の仁義礼智信を学び、撫民とは何か考えるようになる――日本人の規範となる、武士の像はかくして形成されてゆきました。

 

「華夷闘乱」の時代

気象変動は歴史に大きな影響を与えます。

後漢から魏晋南北朝へと続く乱世の背景には寒冷化がありました。

辺境に生きる人々は、寒冷化により食料を求めて北から南下。

温暖化すると、さらにその勢いを増しました。

1206年、チンギス・ハンがモンゴルの部族を統一するとユーラシア大陸を席巻。

その勢いは日本にまで到達し、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)が起こります。

蒙古襲来絵詞/wikipediaより引用

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この間の1279年、最後の幼帝・趙昺(ちょうへい)は海に沈み、宋は終わりを告げていました。

日本と中国の変動は、不思議な一致を見せているとも言えます。

京都にある朝廷は長安をめざした平安京を作った、いわば唐のフォロワーでした。

一方で武家政権は、それとは別の文化、日本の政権をすすめてゆく。

両者は「都鄙(とひ)」――すなわち都と田舎という呼ばれ方をしました。

中国大陸では、漢民族とそれ以外の民族を「華夷」と称しました。

宋がモンゴルによって滅ぼされたことは、この秩序が破壊されたということです。

北条義時は【承久の乱】を「華夷闘乱」と記しています。

彼の中では、朝廷には向かうことは狄が華に挑むことだと認識していたのでしょう。

『将門記』には、平将門の言葉として次のような記述があります。

「今の時代は、実力で勝利を収め君主になることができるのだ。

我が国ではそうでなくとも、そうする人の邦もある。

さる延長年間(923−931)、大契丹王が正月一日に渤海国を討ち取り、東丹国と改めて掌中におさめたというではないか。

力づくでそうしたのではないか」

武士が朝廷を武力で屈服させ、新たな国を作ること。

華夷の逆転を、平将門の頃には意識されていて、それを実現したのが北条義時でした。

江間小四郎義時こと北条義時/国立国会図書館蔵

13世紀とは、日中ともに華夷秩序が入れ替わった時代といえる。

こうした激闘と融合を経て、歴史は続いてゆくのです。

 

意義深い日中関係は続いてゆく

では宋から見た日本とは、どんな印象だったのか?

北宋・歐陽脩(おうようしゅう)の『日本刀歌』を意訳します。

※茶色文字が意訳となります

昆夷道遠不復通

昆夷 道遠ければ 復(ま)た通ぜず

昆夷(こんい・西方少数民族)の国は遠く、まだ行き来ができないんですね

世傳切玉誰能窮

世に伝う 切玉(せつぎょく) 誰か能(よ)く 窮(き)わめん

だから、そこにあるという伝説の宝刀がどんなものか、まだわからないんですよ

寶刀近出日本國

寶刀近く日本國に出で

そこでご覧ください、この隣国日本からやって来た宝刀!

越賈得之滄海東

越賈之(これ)を 滄海(そうかい・青い海)の東に 得う

これを越のバイヤーが海を東に超えて入手したんですね!

魚皮裝貼香木鞘

魚皮 裝貼る 香木の鞘

魚皮を用いたこの細工、鞘は香木でできています

黄白閒雜鍮與銅

黄白 閒雜(かんざつ)す 鍮(ちゅう)と銅

真鍮と銅でメッキしてあるんですね

百金傳入好事手

百金にて 傳え入る 好事(こうず)の手に

これをコレクターが百金で手に入れたわけです

佩服可以禳妖凶

佩服(はいふく)せば 以て 妖凶を 禳(はら)う可(べ)し

こんなの装備したらどんな凶悪な敵だって倒せちゃう!

傳聞其國居大島

傳え聞く 其の國は 大いなる島に居り

聞くところによると、その国は大きな島国で

土壤沃饒風俗好

土壤 沃饒(よくじょう)にして 風俗好(よ)しと

とても豊かな土地で、住んでいる人のマナーもよいんですって

其先徐福詐秦民

其の先徐福(じょふく) 秦の民を詐(たばか)り

なんでも昔、徐福が秦の民を騙して連れて行って

採藥淹留丱童老

藥を採(と)ると 淹留(えんりゅう)して 丱童(かんどう) 老いたり

薬を採取すると連れて行って、そのままそこで歳を取るまでいたとか

百工五種與之居

百工五種 之(これ)と與(とも)に居り

その中にいた職人の技術が伝わっているんですかねえ

至今器玩皆精巧

今に至るまで 器玩(きがん)は 皆精巧

今でもその技術が伝わっているみたいで、ともかくスゴイ!

前朝貢獻屢往來

前朝に 貢獻して 屢(しばしば) 往來し

唐の時代には両国間で交流していたそうなんですね

士人往往工詞藻

士人往往(おうおう) 詞藻(しそう)工(たくみ)なり

文化人交流もあって、とても上手な詩を作るそうですよ

徐福行時書未焚

徐福 行く時 書未だ焚(や)かざれば

徐福が日本に行った時は、焚書坑儒の前でした

逸書百篇今尚存

逸書(いつしょ) 百篇 今尚存す

だから日本には、我が国ではもうなくなった書物が百篇もあるとか

令嚴不許傳中國

令厳しくして 中国に伝うるを 許さざれば

しかし、日本は法律でこうした書物を我が国に伝えないのならば

舉世無人識古文

世舉(こぞり)て 人の古文を識しるもの無し

この世の中から消える古典が出てきてしまう!

先王大典藏夷貊

先王の大典は 夷貊(いはく)蔵れ

かくして私たち祖先の著作は異国にある

蒼波浩蕩無通津

蒼波 浩蕩(こうとう)として 津(しん)を通ずる無し

海が荒れ果ててもう行き来ができないとすれば

令人感激坐流涕

人をして 感激せしめて 坐(そぞろ)に 流涕(りゅうてい)せしむるは

悔しくて、苦しくて、涙が溢れてきます

鏽澀短刀何足云

鏽澀(しゅうじゅう)たる短刀も 何ぞ云(い)う足らん

錆びた短刀があっても、古文の代わりにはならないのです

日本は、中国では途絶えてしまった伝統を引き継ぐ役目を果たしました。

こうした伝統的な意識があるからこそ、清末の日本への留学生は和服を着用。

由来は中国大陸のもので、満洲族の衣服より伝統的だとみなされたのです。

金聖嘆が途中で打ち切りにした『水滸伝』が大陸で流行しすぎて、そればかりが流通するようになってしまった結果、本来の版が日本にだけ残っていたこともありました。

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日中間の交流抜きにして、日本の文化・生活は成立しません。

歐陽脩がこうして詠んだような状況は、現在でもあります。

日本のお正月に欠かせないものといえば、お屠蘇があります。

「まだお屠蘇気分が抜けなくて」なんて言い回しもありますよね。

この屠蘇を作るためのスパイスをまとめた屠蘇散のパッケージを読んでみると、「華佗が考案した」と書かれてあります。

『三国志』ファンならおなじみの、伝説的な名医です。調べてみると、確かに中国から渡来したものでした。

それならば本国でも飲むのか?と現地の方に聞いてみると、もうそんな習慣はないそうです。

1月7日は七草粥があります。これも中国由来かつ、現地では廃れた習慣。

5月5日には、福井市で「越前朝倉曲水の宴」が開催されます。

一乗谷遺跡で、朝倉氏が行っていたイベントを再現する祭りで、曲水の宴の再現は太宰府天満宮等でも行われています。

この曲水の宴も中国由来。

『三国志 Secret of Three Kingdoms』には、曹操が曲水の宴を開催する場面がありますが、これも中国では「流觴曲水」と呼ばれるもので、王羲之による書道の傑作「蘭亭序」はこの遊びを記したとされています。

時代が下ると変わっていったこの行事の原型をいかにして再現するか、努力がなされています。

山本若麟 『蘭亭曲水図』/wikipediaより引用

唐から伝えられた文化を平安貴族たちが尊び、その風習を真似した――そんな名残が今に至るまで伝統として残っているのです。

・下駄

下駄も中国由来です。

魏晋時代には下駄コレクターがいたと『世説新語』にはあります。

『三国志』もので諸葛亮が下駄をカランコロンと鳴らして出てきても、全く問題はありません。ファンアートで孔明に履かせても大丈夫!

これが今はない!

中国では花魁の高下駄に「エキゾチックだなあ」とうっとりしたり、浴衣に下駄を履く姿に憧れたりしながら、こんな風にツッコむ状態が発生します。

「ちょっとー、なんで日本独自のもの扱いなの? 今のうちの国にはないの?」

・抹茶

抹茶については、栄西が二日酔いの源実朝に「御覧ください、この唐(から)の素晴らしい飲み物!」と勧めた逸話があります。

しかし、中国では明の洪武帝が「抹茶は手間がかかりすぎるし、やたらと高級ブランド化するぼったくり業者がいてけしからん。庶民も飲めるように抹茶は禁止、煎茶だけにしろ」と布告を出した結果、廃れました。

一方で、日本では定着しなかった中国由来の慣習や制度もあります。

導入されながら定着しなかった科挙制度。

そもそも導入されなかった宦官制度。

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そして、誤解されているものもあります。

儒教です。

中国由来のものでありながら日本は取り入れなかった――そんな誤解が時に広まったりしますが、それは過ち。

日本でも儒教は大いに取り入れられました。

歴史的に、互いの文化を伝え合い、高めていった日本と中国。

優劣をつけるのではなく、理解しあうことこそ、本来の伝統ではないでしょうか。

日本のラーメンにせよ、漫画にせよ、アニメにせよ、芸能人にせよ、そしてフィギュアスケートの羽生結弦選手にせよ、中国では気に入ったらそれを誉め、応援します。

それが大きな度量というものです。

 

大河ドラマは日本史を扱うもの。

しかし日本史と中国史を繋げることで見えてくるものもあります。

『鎌倉殿の13人』を見ながら宋のことを想像し、楽しみ方が広げるのも一興ではないでしょうか。


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【参考文献】
岡本隆司『中国史とつなげて学ぶ日本全史』(→amazon
小島毅『中国の歴史7 中国思想と宗教の奔流』(→amazon
宮崎市定『中国の歴史8 疾駆する草原の征服者』(→amazon
伊藤『日本像の起源』(→amazon
渡邊義浩『中国における正史の形成と儒教』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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