2016年に公開された映画『殿、利息でござる!』をご存知でしょうか?

殿、利息でござる!(→amazon)
磯田道史氏の著書『無私の日本人』を原作として、阿部サダヲさん主演で映画化。
キャッチコピーは「ゼニと頭は、使いよう。」であり、タイトルの「殿」役には仙台市出身のフィギュアスケーター羽生結弦さんが抜擢されたことでも話題になりました。
この見栄えからして、いかにも楽しげな映画となっていますが、個人的にはどうしても引っかかる点がありました。
「殿」というのが伊達家七代当主・重村だったからです。
劇中では、羽生結弦さんが颯爽とした姿で現れはしますが、この「殿」の経済政策のせいで多くの民が苦しんでおり、そんな彼を称えるのはいかがなものか……という違和感があったのです。
2025年大河ドラマ『べらぼう』を見ていくと、さらにその印象は強まるかもしれません。
なぜなら伊達重村は、田沼意次を相手に猟官運動を行った大名の代表格といえるのです。
己のプライドを満たすため、領民を苦しめてまで贈収賄に挑む――あの大名は一体なんなんだ?
主人公の蔦屋重三郎目線にしてみれば「馬鹿くせぇ田舎もんの殿様だな!」とでも、まとめられてしまいそうな。
伊達重村とは、ただの困った殿様だったのか?
寛政8年(1796年)4月21日は重村の命日。

伊達重村/wikipediaより引用
その生涯を振り返ってみましょう。
6代藩主・宗村の側室に生まれた二男
寛保2年(1742年)、6代藩主・伊達宗村に二男が生まれ、儀八郎と名付けられました。
母は側室であり、坂信之の娘。
延享2年(1745年)に長兄・久米之丞が没したことにより、儀八郎は世継ぎとされます。
伊達家では、5代目の藩主・伊達吉村が明君として知られていました。

伊達吉村/wikipediaより引用
吉村が隠居を願うと、あの吉宗が「明君として諸大名の鑑なのだから、しばし待て」と惜しんだとされるほど。
妻の冬姫も賢夫人として名高く、仙台の薫風は広く知られることとなったのです。
吉村の治世では藩の財政は健全であり、宗村への相続時も黒字でした。
しかし不運が重なり、財政は悪化してゆきます。
例えば宗村の正室は、8代将軍吉宗の養女である利根姫です。
将軍の姫となれば田舎のやり方で遇するわけにもいかず、仙台藩に大奥風の豪奢な気風が持ち込まれました。
将軍の姫君降嫁は大名にとってステータスシンボルであると同時に財政負担莫大という欠点があったのです。
江戸時代も後半に向かうにつれ、この困った現象が幕府も大名も苦しめることになり、仙台藩はその先行事例と言えました。
父の宗村が39歳で夭折
宝暦6年(1756年)、宗村が39歳の若さで没してしまいます。
宗村の寿命を縮めたのは、あまりに厳しい政治情勢ではないかと、当時から囁かれるほど、宝暦年間は悪夢の連続でした。
仙台藩は宝暦元年(1751年)に幕府から日光東照宮修繕を命じられ、莫大な金がかかり、その2年後の宝暦3年(1753年)には大洪水が発生。
そして宝暦5年(1755年)にはまたしても洪水、さらに不作が襲いかかります。
仙台藩の領民は飢饉に苦しみました。

宗村も病床に臥せっていました。
そんな殿を気遣うあまりか、奉行はこの惨状を報告しません。
やがてこれを知った宗村は激怒しました。
宗村は無理にでも一万両を捻出し、民衆救済にあてるよう指示を出しました。そして奉行たちの不甲斐なさを叱りつけたのです。
この怒りが宗村の寿命を縮めたとされています。
それほど怒りが激しかったのでしょう。飢饉に苦しむ民を憂いながら、宗村は亡くなりました。
若き重村、苦難の中で家を継ぐ
父が亡くなり、わずか15歳で大大名家を背負うことになった伊達重村。
その若さゆえに、叔父である陸奥一関藩主・田村村隆が後見としてつけられました。
この叔父は明君と名高い吉村の五男です。
藩主就任のタイミングとしては最悪でした。
飢饉はまだおさまらない。奉行の人事も揉めている。
多難な始まりにも関わらず、重村はあまり政治に関心を持たなかったとされますが、まだ二十歳にもならぬ殿ともなれば致し方ないことでしょう。
これは彼一人の問題でもありませんでした。江戸時代も半ばを過ぎると、将軍や殿ではなく、閣僚たちが政治を主導する傾向が強まっていたのです。

政庁があった仙台城(明治33年)/国立国会図書館蔵
いずれにせよ重村の治世が、当初から多くの困難に直面していたことは事実。
明君だった5代・吉村の代に堅調だった藩の財政も、6代・宗村の頃にはすっかり蓄えも底を尽きています。
宗村が怒りを露わにした奉行たちのやる気のなさも問題であり、重村の治世では派閥争いも続発していました。
藩主の質だけが問題ではない、仙台藩の宿命といえました。
日本史に通底する稲作依存という危険性
日本人と密接な関わりがあり、生きていくのに欠かせない米。
弥生時代に伝わった稲作は、日本列島に広く根付いてゆきましたが、寒冷な奥羽の気候は稲の育成に適していません。
要は不作になりやすい。
東北地方の戦国時代は、血縁の繋がりが強く、しばしば戦い方などが「ぬるい」と揶揄されることがあります。
しかし、それも仕方のないこと。農業生産性の低い地方では、派手な合戦をして多くの人口を減らすことが避けられたのです。
さほどに厳しい東北の稲作経営でしたが、江戸時代初期に転換期を迎えます。
戦乱の世を終えた大名たちが本格的な稲作の改良に取り組んだ結果、石高を大幅に増大させることに成功し、仙台藩も、藩祖政宗から数代かけて有数の米所となりました。

ただし、ノホホンとはしていられません。
気候が寒冷になると、東北の稲はまったく実らなくなってしまう。
そもそも、この稲作依存体質は、日本史の抱える宿命的な欠点とも言えます。
日本人ならお米を食べなくちゃ――そんな言葉は、突き詰めればなかなか危険。米がなければすなわち飢えてしまうことに繋がりかねません。
北海道開拓民や満洲国移住者にとっても稲作の実現は宿願でした。
なんとしても稲作をしたい!
そんな風に奮闘する日本人を見て、満洲に住む人々はこう不思議がりました。
「どうしてそこまでして米を食べたがる? 麦ではいかんのか?」
この疑問こそ、日本史を考えるうえでのヒントになります。
中国大陸の場合、南は稲、北は麦と、気候にあわせて穀物を分けて育てています。
日本でも、かつてはそんな工夫もあったのですが、江戸期以降、米の地位だけがどんどん高くなってゆくのです。
結果、それ以外の主食は見下されるほどでした。
例えば、稲作に不向きな土地であった薩摩藩ではサツマイモが重要な主食となっていました。それを悪口のネタとされ、薩摩藩士は「芋侍」とバカにされてしまいます。
あるいは小麦粉の生産が盛んで、うどんが名物である地方出身者は「あのうどんを食っている奴」と言われることもあったほど。
なぜ江戸時代は、そこまで稲作依存度が高まったのか?
全国各地から、はるばる米会所に集められた米。
その価格が上がるか、下がるか。
石高制度が根底にあるのは確かですが、商人たちがマネーゲームに興じた結果、米の商業的価値が高まったのです。

『浪花百景』米会所の様子・競りに熱中する仲買人たちの足元と、入口辺りで見守る人々。落ちた扇子やキセルから混乱ぶりが偲ばれる/wikipediaより引用
伊達重村の治世には、こうした時代背景がありました。
全国屈指の稲作地帯となった仙台藩。
米は、気候変動の影響を受けやすく、東北ではその危険性が一層高いのに、仙台藩では「米を売ること」を前提に、藩財政のやりくりを考えていました。
大藩としての格式も維持したいし、プライドもある。
けれども、財政は不安定である。
そんな危うい状況の中で、若き重村は殿となっていたのですね。
飢饉に無策、悪名が広まる仙台藩
父・宗村の寿命を縮めたともいえる仙台藩の飢饉。
天候不順も重なって、伊達重村の代にはますます悪化していました。
仙台藩首脳部は、飢饉に対しあまりに無策であったと後世評されます。なにせ宗村が病床で捻出した救恤金の一万両すら、支出した形跡がないのです。
宝暦の飢饉の時点で、仙台藩の餓死者は2万人から4万人と推察されます。
さらに全国的に飢饉が悪化した天明の飢饉ともなると、最大で推定30万人が死亡したともされます。
仙台藩は、周辺の藩に米を買い求めました。
飢饉で悲惨な目に遭っているのはその他の奥羽諸藩も同じことであり、余裕などありません。伊達藩の愚かさは軽蔑されました。
米がないのに、米を売ることを前提にしていることくらい、諸藩は理解しています。
大藩としての格式を保つため、領民を見殺しにするとは何事か!
彼らは、そうして仙台藩に対して呆れ果てていたのです。

天明飢饉之図/wikipediaより引用
【天明の飢饉】は、世界規模の気候変動の影響もあります。
フランスでも飢饉が発生し、【フランス革命】につながったとされます。
それほどまで深刻な状況であるにも関わらず、仙台藩は政治的に無策、藩の上層部が無能とされても致し方ない状況でした。
仙台藩が際立った無策を見せつけ、死屍累々となる一方、一人も餓死者を出さない藩もありました。
松平定信が藩主をつとめる白河藩です。
この飢饉の際の対応が、松平定信の老中待望論を形成することとなります。
領民の苦難を顧みない重村
伊達重村の評価が厳しくなってしまうのはなぜか?
むろん、飢饉に対して無策であったことはあります。
それだけではなく、同時代に生きたフランス王妃、マリーアントワネットと通じる要素もあります。
重村より一回り若い1755年に生まれた彼女は、累代の負債が重なるルイ16世の時代に、イメージを悪化させかねない軽率な行動をとりました。

マリーアントワネット/wikipediaより引用
プチ・トリアノン宮殿建設。
豪華なドレス。
賭博三昧。
王妃の支出範囲内といえばそうですし、【アメリカ独立戦争】援助への戦費捻出と比較すれば、些細な金額といえます。
しかし民衆からすれば「俺たちが飢えに苦しんでいるのに、王妃はなんなんだ!」と怒りをたぎらせる要因となってしまう。
重村もそうでした。
領民目線でその行状を振り返ってみると、芳しくない行動が目撃されています。
重村は藩祖政宗以来の狩猟好きでした。
鷹の産出に熱中し、領内を長い時間をかけて回る。
何十羽も鷹を連れて領内を回り、獲物を自慢する姿は、領民からすれば腹立たしいものであったことでしょう。藩領内には苦々しい思いが伝えられています。
鷹狩りだけならば、悪名は領内のみに止まります。
全国区にまで高めたのは、甚だしい【猟官運動】でした。
田沼意次はじめ、幕閣、大奥にまで贈賄した大名として、重村は歴史に悪名を刻むこととなるのです。
幕閣、重村から「手入」される
明和2年(1765年)、伊達重村の名が幕閣で浮上します。
仙台藩家老に、なんとしても少将から中将に昇進したい、として幕府に「手入」するよう依頼したのです。
時代劇風にいえば「よきにはからえ」というところであり、藩医で才気あふれる工藤平助が探りを入れると、老中・松平武元から好感触を得ることができました。
さらには、御用取次である田沼意次にも根回しを行います。

田沼意次/wikipediaより引用
当時の田沼意次はまだ御用取次であり、老中になるのはまだ先のこと。それでも彼が大大名の「手入」を受けるあたりに、田沼意次の政治ポテンシャルがみえます。
この明和2年の「手入」の相手は、以下の通りです。
ここで最も重村と縁が深いのは、冨永愛さんが演じる高岳です。
重村はせっせと高岳に書状を送ります。上様に贈る馬はどんなものがよいのか。幕府から依頼された工事をうまくやる自信がないなどなど。
これに対する高岳の返事はまるで面倒見のいい教師のよう。
「あなたの世話がよかったのか、上様は馬を喜んでいましたよ」
「工事を失敗した大名なぞおりませぬ! きっとうまくいきますよ」
なんとも親身ではないですか。仙台藩祖・政宗と母の義姫の関係を思い出します。
しまいには重村は、なんと江戸城を出たすぐの場所、桜田御用屋敷内に高岡の屋敷を作ってしまったのでした。
一体何事なのか? どういう関係なのか?
実のところ、重村は高岳に頼り、甘える理由はありました。
重村の養母は利根姫といいます。彼女は紀伊徳川家当主・徳川宗直の娘にあたり、8代将軍・吉宗の養女となり、伊達宗村の正室となりました。
このとき、利根姫の侍女として“ゆう”がつけられます。この“ゆう”は主人の死後大奥へ戻り、“三室”と名乗りました。彼女は聡明なのか順調に出世を重ね、“高岳”と名を変え、筆頭老女として大奥の頂点に君臨したのでした。
重村からすれば、養母の周辺にいた叔母さんのようなもの。そんな女性が大奥の頂点にいることは、実にありがたいことなのです。
冨永愛さん扮する高岳が、重村を心配し励ます様子を、心の中で思い浮かべるのもまた一興ですね。
重村本人が顔を見せずとも、彼の影は『べらぼう』序盤から見え隠れします。平賀源内は田沼意次に対し、仙台藩の経済政策を話しておりました。
こうした「手入」に関与した工藤平助は、【田沼時代】に重要な役割を果たす【蝦夷地政策】の立案に深く関わっています。
重村本人は出番がなくとも、仙台藩は【田沼時代】の象徴として、大きな役割を果たすことでしょう。
さて、この明和2年(1765年)、伊達重村による「手入」は失敗しました。
しかし明和4年(1767年)には、念願の中将昇進が叶います。
この後も重村は、大名にとってステータスシンボルとなる家治直筆の絵や、着用した装束を得るために、まだ贈賄を続けるのでした。
相手は田沼意次や高岳となります。
明君の孫であるだけに、江戸の民も「堕落しちまったモンだ」と鼻白んだことでしょう。
重村にも改革の志はあった
こうして振り返ってみると、伊達重村は暗君以外の何者でもないように見えるかもしれません。
重村の時代、仙台藩ではしばしば政変が起き、藩内の閣僚たちが派閥構想を断行します。
慢性的に領民を苦しめ続ける飢饉に無策でありながら、政争を続けるとはどういうことなのか……。
政に関心が薄いとされる重村としても、ただ漫然と事態を眺めていただけともいえません。
彼なりに旧態依然とした政治体制ではうまくいかないのではないかという焦りはありました。
【田沼時代】には各地で改革を志す大名や重臣が出現します。この時代、気候変動や経済危機にみまわれ、変わらねばならないという思いを強める者は多かったのです。
その改革は時に迷惑も生じさせております。
仙台藩で鉄銭を鋳造した結果、隣の藩でこの「悪銭」と「良銭」(銅貨)を両替して儲けようとする不届者があとをたたず、仙台藩周辺が大迷惑を被りました。
そのためこの政策は短期間で頓挫しています。
成功した改革としては、藩校養賢堂拡充があります。
まずは人材育成から政治を立て直すという取り組みは意義深いもので。
重村の代には工藤平助という俊英もいます。彼は『べらぼう』でも存在感を見せることでしょう。
重村に対する評価の厳しさには、明治以降の歴史も関係しています。
そのころの薩摩藩主は島津重豪でした。彼も金の使い方が激しく、藩の上層部にとっては頭痛の種だった。
しかし幕末の名君とされる島津斉彬が重豪をロールモデルにしているとされ、薩摩藩が【明治維新】の勝者となると、斉彬から重豪にまでさかのぼり評価されるようになったのです。

島津斉彬/wikipediaより引用
仙台藩は、会津藩と並び【明治維新】の敗者筆頭であり、評価されることはありません。
大藩である仙台藩は、周辺の藩から傲慢だととらえられることもありました。
その風潮は北海道開拓にまで引き継がれ、屯田兵由来の道民でも「仙台藩の連中とはつきあってはならね!」と苦々しく語る人が昔はいたとか。
しかし、重村にもきちんと評価したいところはあります。
仙台には素晴らしい女性がいる!
伊達重村には人材育成の志がありました。
それも男性だけでなく、女性にも発揮されています。
仙台藩の明君である5代吉村は、妻である冬姫も賢い女性であり、夫妻でよき治世を築き上げたと評されました。
ところが6代吉村の時代に、これが崩れます。
8代将軍・吉宗の養女である利根姫を迎えたからです。

利根姫/wikipediaより引用
前述の通り、将軍の姫君ともなれば仙台藩でもそれに応じたものとなり、正室の暮らしぶりは江戸大奥様式に置き換えられ、華美なものとなってゆきました。
重村は、これを吉村・冬姫時代の質素なものへ戻すことにしたのです。
彼の正室である惇姫は、華美な暮らしぶりではなく、その心の美しさが残された女性。
貧民救恤のために千両を捻出し、米や粥を配り、三千人がその恩恵にあずかったとされます。
落飾し、観心院となった晩年には、赤子養育仕法設立のため、二万両を供出しました。
この時代には「仙台風」と称される藩独自の女中の作法も確立し、仙台は婦徳が発揮される気風があったといえます。

惇姫(観心院)/wikipediaより引用
そんな中、日本史上に輝く女性文人があらわれたのも、必然のことかもしれません。
工藤平助の娘であるあや子は、仙台藩江戸屋敷に生まれ、才知あふれる女性に育ち、重村の正室である惇姫に仕えて様々な見聞や己の思想を書き残しました。
後に女性文人・只野真葛として執筆に生き、かの曲亭馬琴すら舌を巻くほどの見識を発揮するのです。
仙台藩に生まれたからこそ花ひらいた、偉大な才女といえました。
そして時代が下り【明治維新】後のこと。
伊達成実を祖とする、亘理伊達家邦実正室であった保子は、屯田兵と共に北海道へ渡りました。
彼女は手製の芋団子を配り、皆を励まし、自ら開拓に励み、いつしか「伊達開拓の母」と呼ばれるようになりました。
大正2年(1913年)、仙台にある東北大学は、日本で初となる女子学生3名の入学を許可しました。
ジェンダー史の観点から見ると、仙台には女性の才知を肯定する伝統があるのです。
前述の通り、明治以降、評価がされにくい東北の歴史業績。
『べらぼう』で仙台藩に注目が集まり、再評価されることを願ってやみません。
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【参考文献】
J・F・モリス『伊達家 仙台藩』(→amazon)
高橋富雄『陸奥伊達一族』(→amazon)
藤田覚『田沼意次』(→amazon)
安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(→amazon)




