戦国武将御長寿ランキング

wikipediaより引用

戦国諸家

戦国武将の御長寿ランキングBEST10!最年長記録は一体誰で何歳まで生きたのか?

2025/07/21

過酷な合戦に駆り出され、そのたびに殺し殺されのストレスを抱えていた戦国武将。

実際に討死するケースばかりではないにせよ、ストレスや疲労が過度にのしかかるため、一般的に“長生き”というイメージは抱きにくいかもしれません。

しかし、それでも実在します。

80歳どころか90歳を超えただけでなく、あろうことか戦場にまで出ていたご長寿超人たちが。

一体どんな武将が長生きだったのか?

一番の長寿は誰だったのか?

さっそく80代から振り返ってみましょう!

※実は80代は意外と多いので「歴史の表舞台から途中退場する人」に絞って取り上げさせていただきます

 


武田信虎 享年81

武田信玄の父親です。

武田信虎/wikipediaより引用

天文十年(1541年)に息子から追放されると、駿河を経由して、その後は京都へ移り住み、天正二年(1574年)まで生きたとされます。

元亀四年(1573年)に信玄のほうが先に亡くなっているほど。

その後、信虎は甲斐へ戻って亡くなったようです。

※以下は武田信虎の関連記事となります(本記事末にもリンクがございます・以下同)

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尼子経久 享年83

山陰の大名・尼子氏の最盛期を築き上げた人です。

尼子経久/wikipediaより引用

十一カ国もの広大な版図を手に入れた立役者。

しかし跡を継ぐはずだった嫡子の尼子政久が、戦場で流れ矢に当たって急死した辺りから運命が狂い始めます。

経久は、政久の子である孫の尼子詮久(晴久)を後見したものの、天文十年(1541年)、その詮久が毛利氏の本拠・吉田郡山城を攻めて大敗北。

その直後の同年11月13日、経久は月山富田城で亡くなりました。

おそらく晴久に望みをかけて生きていたでしょうから、吉田郡山城の敗北で一気に心身への負荷が高まったのでしょうね……。

さぞ心残りが多かっただろうし、ここで晴久が負けていなかったらもっと長生きできたかもしれません。

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宇喜多秀家 享年83

秀吉に可愛がられ、前田利家の娘・豪姫を妻に迎えたことや五大老の一員となったことで有名な人ですね。

宇喜多秀家/wikipediaより引用

その恩顧もあって関ヶ原では西軍につき、敗戦後に八丈島へ流罪となりました。

当時の秀家はまだ満28歳と若かった上、八丈島の水がよほど合ったらしく、明暦元年(1655年)まで長生きしています。

実家に戻った豪姫が、宇喜多家に対して支援を強く訴えたことも大きかったでしょう。

ちなみに前田家からの支援は明治時代に宇喜多家が赦免されるまで続いたそうです。イイ話ですね。

秀家が八丈島に流されたのは慶長十一年(1606年)4月なのですが、実は慶長十年(1605年)10月と慶長十一年1月にこの島で噴火が起きています。

もしも慶長十年以前に流罪が決まっていたら、秀家は噴火の影響で難儀し、そこで亡くなっていた可能性も否定できません。

彼は「ギリギリのところで最悪の事態を逃れる」という運の持ち主だったのかもしれません。

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というわけで以降、90代部門を見てまいります。

さすがに戦国時代で享年90を超えた人はさすがに多くありませんが、比較的記録がしっかり残っている人が多いのが意外なところです。

 


鬼庭綱元 享年92

確実な生没年がわかる人の中で御長寿といえばこの人・その壱が鬼庭綱元。

伊達政宗の重臣の一人としてよく知られていますね。

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もちろん優秀な人だからこそなのですが、それ以外に彼は類稀な特徴を持っていました。

綱元の生年は天文十八年(1549年)、没年が寛永十七年(1640年)です。

そして主君である政宗の生没年は永禄十年(1567年)~寛永十三年(1636年)。

つまり「政宗の一生を見届けている」のです。

伊達政宗/wikipediaより引用

長寿な人は他にもたくさんいますが、この特徴を持つ人はかなり限られるでしょう。

しかも綱元と政宗の場合、綱元のほうが18歳も上ですから凄いですよね。

鬼庭家は、代々長命で知られており、さらに老年まで健康体な人が多かったとされています。

綱元の父・良直(左月斎)は73歳で戦場に出て討死していますが、そもそもその年で前線に出ている事自体が驚異的。

綱元は60近くになって突如政宗から隠居させられ、およそ2年後に復帰していますし、鬼庭家ではもはや「生涯現役」が家訓ですね。

いずれにせよ伊達家にとって忠臣が長生きしていることは幸運なことだったでしょう。

 

真田信之 享年93

確実な生没年がわかる人の中で御長寿といえばこの人・その弐です。

みんな大好き?真田幸村(信繁)の実兄として知られていますね。

真田信之/wikipediaより引用

若い頃からあまり体が強い方ではなかったらしいのですが、その分気を使っていたのか、93歳まで長生きしました。

まんま「一病息災」といった感じでしょうか。

しかし、関ヶ原後は、実家と妻の主家である徳川家との間に挟まれたり、90歳になった明暦元年(1656年)に隠居できたと思ったらお家騒動が始まったり、最終的に2歳の孫を後見しなければならなくなって亡くなる直前まで働いた。

体調以外の苦労もなかなか多い人でした。

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龍造寺家兼 享年93

龍造寺隆信の曽祖父で、同家の基礎を築いたとされる人物です。

といっても「龍造寺本家の力が弱まったので、分家出身の家兼が実権を握った」という流れでした。

当時の龍造寺氏は少弐氏の家臣として働き、あるとき大内氏との戦で主君への援軍にいかなかったため、少弐家臣の恨みを買ってしまいました。

そして家兼が90歳を超えた頃にその復讐として城から追い出されるのですが、なんとその後奪還に成功しています。元気過ぎます。

追い出されたときに息子や孫をことごとく殺されているので、その仇討ちのために力を振り絞ったのでしょう……辛い……。

奪還の後は出家していたおかげで、生き残った龍造寺隆信を還俗させて家を継がせ、生涯を閉じています。

龍造寺隆信/Wikipediaより引用

他にも毛利家の家臣に90代まで長生きした人が散見されるのですが、食事や運動に何か秘訣があったのか、遺伝的な特徴なのか気になるところです。

ちなみに長命のイメージが強い毛利元就は享年75でした。長生きの部類ではありますが、この記事では若く感じてしまいますね。

以降は、ちょっと別次元な方たちを見てまいりたいと思います。

 

北条幻庵 享年97?

北条早雲の末子で、北条氏の重臣だった人です。

北条幻庵/wikipediaより引用

彼の場合は生年に諸説あるため、没年・享年もハッキリとはできないのですが、90代で亡くなったとされます。

なんと、北条五代のうち四代もの間に仕えました。

『北条五代記』では天正十七年(1589年)11月に亡くなったとされているため、これが事実であれば小田原征伐の前に亡くなり、一族の滅亡を見ずに済んだことにもなりますね。

他にも説はありますが、天正十七年没のほうが幸せかもしれません。

 

石田重家 享年97あるいは98

石田三成の長男です。

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普通なら真っ先に処刑される立場だったのですが、関ヶ原後、すぐに京都妙心寺の寿聖院へ入れられ、助命嘆願があったことにより救われました。

その後も生涯僧侶として過ごし、貞享三年(1686年)に亡くなったとされます。

生年はハッキリしていないのが難ですが、逆算すると天正十六年(1588年)前後でしょうか。

秀吉が刀狩りを命じた年です。

重家が亡くなった頃、江戸幕府は五代将軍・徳川綱吉の代になっていて、あの「生類憐みの令」に向かう政策が打ち出され始めた頃でもあります。

本人にどのくらい幼い頃の記憶があったかはわかりませんが、複雑な立場でこれほど長生きするのもそれはそれでしんどそうですね……。

 

大島雲八 享年97

岐阜県関市出身の大島雲八(実名は大島光義)。

93歳で関ヶ原の戦いに参戦した武将ですね。

大島雲八(大島光義)/wikipediaより引用

生まれが永正5年(1508年)ですので、天文3年(1534年)の織田信長はもちろん、大永元年(1521年)の武田信玄や享禄3年(1530年)の上杉謙信よりもずっと上。

それが関ヶ原の戦場にいたのですから、信じがたい健康体ですよね。

地元の関市でもその活躍が称えられていて、「関鍛冶伝承館」に展示されている甲冑は凄まじく迫力があります。

以下の関連記事にその画像がございますので、お手数ですが、そちらでご確認よろしくお願いします。

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南光坊天海 享年108?

”戦国~江戸時代初期の長寿”といえばこの人を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

南光坊天海/wikipediaより引用

彼も生年不明ですが、寛永二十年(1643年)に108歳で亡くなったとされます。

ちょうど煩悩の数になるのは作為的なものなのか、本当にそうだったのか。

天海は徳川秀忠や家光に健康の秘訣を伝授していたそうですので、本人が心身の健康管理に積極的だったからこその長生き、という可能性も無きにしもあらずですね。

享年から逆算すると、天海は天文四年(1535年)前後の生まれということになります。

これが正しければ織田信長島津義弘丹羽長秀らと同世代。

天海といえば「正体は明智光秀説」もありますが、光秀の生年が永正十三年(1516年)説や享禄元年(1528年)説など諸説あり、まぁ、あくまで飲み会用の冗談と考えておきましょう。

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さて、ここで終わってもよいのですが、もう二人だけ見ておきたいと思います。

出自が不明だったりリアリティが薄かったりしますので、ロマン枠として受け止めてください。

 

滝川益氏 享年108?

滝川一益のいとことされる人物で、一益に従って各地を転戦していたようです。

大永七年(1527年)生まれで寛永十二年(1635年)没らしいのですが、一益が天正十四年(1586年)に亡くなった後の動きがよくわからず、従って享年についても不明瞭です。

天海と同じく享年108なのも、やはり作為的なものを感じるような……。

 

渡辺幸庵 享年130?

天正十年(1582年)生まれ、宝永八年(1711年)没とされます。

徳川家に仕え、江戸時代に入ってからは徳川忠長(三代将軍・家光の弟)の傅役を務めていた人です。

徳川忠長/wikipediaより引用

しかし忠長が寛永十年(1633年)に切腹させられたためお役御免となり、その後は中国や東南アジアを40年(!)放浪した後、帰国して亡くなったとされます。

亡くなった時は130歳だったらしいのですが、人間の遺伝子的な限界が120歳くらいらしいので、本当はそれ以下のはず。

もしくは途中から息子と混同されているか、生年の記録に誤りでしょう。

事実であれば、科学がひっくり返りますので、記録ミスと考えるほうが自然だと思います。

諸々の理由で長生きに関する価値観も多様になってきましたが、やはり古い時代に長命だった人についてはシンプルに「すごい」と思ってしまいますね。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
『戦国武将事典 乱世を生きた830人 Truth In History』(→amazon
日本人名大辞典

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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