津田宗及『贈答百人一首』

文化・芸術

信長に抵抗した堺の豪商・津田宗及|なぜ織田家に重用されたのか

大河ドラマ『豊臣兄弟』で織田信長の資金要請を突っぱねた自治都市の堺。

会合衆(えごうしゅう・かいごうしゅう)と呼ばれる豪商たちを中心に町は運営されており、その中でも中心的人物だったのが津田宗及だ。

ドラマではマギーさん演じるやり手の商人という姿で描かれていたが、史実では一体どんな人物だったのか?

実際のところ、宗及は信長にどこまで抵抗したのだろうか。

津田宗及『贈答百人一首』

津田宗及『贈答百人一首』/wikimedia commons

今井宗久千宗易(千利休)と共に「三宗匠」にも数えられ、茶人としての一面も持っている津田宗及の実像に迫ろう。

 

紹鴎に茶を学んだ天王寺屋

津田宗及の生年は不明。

父の津田宗達が永正元年(1504年)生まれなので、大まかに見積もって宗及は1520~30年代辺りの生まれだろうか。

宗達は天王寺屋という商人であり、茶人の大家・武野紹鴎から茶の湯を学んだ一人であった。

そんな父のもとで、宗及もまた紹鴎に茶を学び、豪商かつ茶人として大成していく。

しかし永禄十一年(1568年)、突如、窮地に立たされる。

尾張から上洛してきた織田信長により、堺に対して2万貫の矢銭(やせん・軍資金)が課されたのだ。

当初の宗及は、対信長で強硬論に近い立場だったともみられる。

織田軍の上洛戦直後に新たな堀を造成して合戦に備えたほどだ。

どうやら宗及は、四国~摂津エリアで一大勢力を築いていた三好三人衆が、信長に対抗するだろうと考えていたようで……。

しかし永禄十二年(1569年)1月、「本圀寺の変」で事態は急変する。

 


今井宗久に遅れを取るも

四国から摂津を経由して本圀寺へ攻め込んできた三好三人衆。

本圀寺には、明智光秀や三淵藤英などの諸将がいて、僧侶の和睦交渉もあって攻略は進まず、細川藤孝や池田勝正らの援軍の一報を聞くと撤退してしまった。

直後に織田信長も再上洛しており、織田軍におそれをなした堺はついに要求を受け入れる。

このとき他の会合衆に先んじて信長に通じていたのが今井宗久だった。

今井宗久の肖像画

今井宗久/wikimedia commons

宗久は信長の上洛直後から茶器の名物を献上するなどして接近。

堺が信長に直轄化されることになると、宗久は領地を与えられるなど立場も優遇され、事実上の堺責任者に任じられた。

しかし宗及も巻き返しをはかっていく。

 

織田家へ接近

永禄十二年(1569年)2月、佐久間信盛柴田勝家らが派遣されてくると、接待を担当したのが津田宗及であった。

織田軍の諸将100人ほどを大座敷に迎えて饗応。

以降、しばらく目立った記録はないが、信長が上洛するたびに茶会が開かれ、堺や京都の町人たちと交流を持ち、そこでも宗及らが重用されている。

天正二年(1574年)1~2月にかけては、逆に岐阜へ出向いて、信長からの歓待を受けている程だ。

今井宗久に遅れをとっても、信長からの評価は低くなかった。

同年4月に相国寺で大茶会が開かれた際には、茶頭として千宗易(千利休)と共に宗及も登場するほか、古代から国宝級の香木として知られる「蘭奢待」も与えられるなど、別格の扱いを受けている。

蘭奢待

蘭奢待/wikipediaより引用

もちろん宗及自身も、その好意に応じた。

織田方の武将に茶器を献上したり、茶会に招いたり、天正六年(1578年)4月20日には信長の嫡男・織田信忠の茶会が妙覚寺で開かれ、その席にも列している。

このときは佐久間信盛父子から信忠へ献上された茶器のお披露目だった。

信忠は石山本願寺攻めの総大将として大坂方面へ出陣した後のことであり、織田家の代替わりを宗及や堺衆へ浸透させる目的もあったかもしれない。

また、宗及は筆力にも優れていた。

『津田宗及茶湯日記(つだそうきゅうちゃのゆにっき)』(天王寺屋会記)には、信長・秀吉・光秀など、重要人物が出席した茶会の様子を記録。

正確には、宗及の父・津田宗達と息子の津田宗凡も含めた三代、天文十七年(1548年)から天正十八年(1590年)の茶会の記録が綴られている。

今日の歴史研究にとっては非常に重要な存在だ。

 

光秀との関係は?

津田宗及の大きな特徴は、明智光秀との接点だ。

明智光秀の肖像画

明智光秀/wikimedia commons

天正六年(1578年)以降は明智光秀が毎年1月に開いていた茶会に参加し、そのとき使われた茶器の記録も残している。

多くは信長から拝領したものであり、天正十年(1582年)1月の茶会では、床の間に信長直筆の書が飾られていたことが宗及の茶会記に記されている。

本能寺の変のわずか半年前の出来事である点が興味深い。

だからであろうか。本能寺の変の黒幕として宗及や堺衆が挙げられることもある。

しかし決定的な証拠はなく俗説の一つにすぎない。

信長に重用されている宗及がクーデターを望む理由は考えにくいだろう。

 


本能寺の変後

津田宗及は豊臣秀吉にも仕え、3000石を与えられた。

しかしそれ以上の立場や権力は求めず、堺の商人であり続けた。

富ならば自分で稼げる自信があったこと、千利休がより秀吉に重用されたことなど、複合的な理由が考えられる。

秀吉が九州征伐や小田原征伐の陣中の遊興として茶を求めた際は同行している。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikimedia commons

天正十五年(1587年)に秀吉が開いた北野大茶湯でも利休や今井宗久と共に参加。

冷遇されていたわけではなく、距離を保っていた様子がうかがえる。

結果として宗及は自らの命と天王寺屋を守り抜き、天正十九年(1591年)4月20日、その生涯を終えた。

それより約1ヶ月前の2月28日に千利休が切腹させられているため、胸中は複雑なものがあったであろう。

なお、今井宗久についての詳細は別記事「今井宗久の生涯」をご覧いただければ幸いです。

◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


参考文献

田中仙堂『お茶と権力 信長・利休・秀吉』(2022年2月 文藝春秋社)
和田裕弘『織田信忠―天下人の嫡男』(2019年8月 文藝春秋社)
谷口克広『信長の政略』(2013年6月 学研プラス)
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
国史大辞典
日本人名大辞典
日本国語大辞典
世界大百科事典

【TOP画像】津田宗及『贈答百人一首』より引用/wikimedia commons

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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