徳川家康が羽柴秀吉と真正面からぶつかった小牧・長久手の戦い。
秀吉方が長久手での敗戦を受け、楽田城(がくでんじょう)を出陣した際、その総勢は6万余に達したと伝わります。
対する徳川方の兵力は、織田信雄と合わせても2万ほどであり、単純に数字だけ見れば、とても勝ち目がないようにも思えてきます。
そこで気になるのが、家康の“勝算”です。
果たして家康は、戦前から勝てるという確信があって秀吉との戦いに挑んだのか。
あるとすれば、それは一体どんなものだったのか?
家康方と秀吉方の戦力だけでなく、全国諸勢力の力関係も含めながら見て参りましょう。
秀吉に天下を奪われたのは信雄
まず注意しておきたいのは、この戦いが家康と秀吉の一騎打ちではなかったという点です。
本能寺の変から2年、信長の跡を継いで織田家の頂点にいたのは、

織田信雄/wikipediaより引用
次男の織田信雄でした。
その信雄が天正十一年(1583年)、秀吉によって天下の政庁・安土城から退去させられ、さらには信長の嫡孫である三法師も近江坂本城で秀吉方の庇護下に置かれます。
要は、秀吉が堂々と天下人を目指し始めたのですね。
結果、信雄は、尾張・伊勢・伊賀の3ヶ国を治めるだけの「清須様」という立場へ転落。
そこで家康に助力を求めて、秀吉との対決へと進んだわけです。
名目的な総大将は織田家当主・信雄で、戦争の目的も信雄が織田家の主導権を取り戻すことであり、家康はその同盟者として参戦したのでした。
家康の書状に「まもなく上洛する」
開戦直後の天正十二年(1584年)3月17日、徳川勢は尾張羽黒で池田恒興・森長可の軍勢と衝突し、これを撃破しました(羽黒の戦い)。
緒戦を取った手応えは、家康の書状からもはっきり伝わってきます。
3月25日、下野の皆川広照に向けて勝利の一報を送ると、以下のように続けたのです。
「畿内から西国にまで味方を増やす手を打っているので、まもなく上洛することになるだろう」
上洛、つまり京へ攻め上って秀吉を追い落とす――これが家康の描いていた勝ち筋です。

徳川家康/wikimedia commons
長久手の戦いでの勝利直後にも、家康は鳥居元忠ら国元の家臣に対して「すぐに上洛を遂げる」と書き送っています。
直属の家臣たちへも同様の趣旨を伝えている点からして、強がりではなく本気だったのでしょう。
問題は、その上洛をどうやって実現する予定だったのか、という点です。
羽柴6万対徳川2万という数字
あらためて徳川・羽柴両軍の兵力を比較してみましょう。
前述のとおり、秀吉方は長久手の敗報を受けて楽田城を出陣した際、総勢6万余だったと伝わります。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
三河へ向かい、長久手の戦いに敗れた羽柴の別動隊だけでも、2万4000から2万5000ほど。
対する織田・徳川方はどうか。
長久手に出た家康の本隊と先発隊、信雄の軍勢、それに小牧山城へ残した留守居をすべて足しても、2万ほどにしかなりません。
単純に並べれば3倍の差で、しかも秀吉の背後には畿内から西国までが丸ごと控えているわけですから、戦が長引けば戦力差は開く一方です。
正面からぶつかって勝てる相手ではない。
そんなことは家康自身がいちばんよく分かっていました。
数の差が効かない戦場
では、3倍の兵をどうやって受け止めようとしていたのか。
まず濃尾平野の地形です。
小牧山城の西側一帯は木曾川がいくつもの流れに分かれ、足場の悪い湿地が広がっています。
その東側では台地が崖となって落ち込み、小牧山のあたりで通り道がいちばん細くなっていました。

『小牧長久手合戦図屏風』/wikipediaより引用
なぜ圧倒的な大軍を誇る秀吉が、西へ回り込んで敵の側面や背後を衝かなかったのか。
研究者の平山優氏は『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』の中で、この地形では大軍の移動が到底望めず、崖に阻まれて秀吉方は陣を西へ広げられなかったと考察しています。
小牧山城の北から北西にかけては、池と湿地が帯のように連なって天然の水堀になっていた。
要は、兵力差が効きにくい場所に、家康は腰を据えたわけですね。
しかも、そこに建っていたのは信長が築いて廃城になっていた小牧山城であり、家康は秀吉方より早くここを押さえ、榊原康政に命じて大改修を行ったとされます。
土塁と堀を二重に巡らせ、尾根を断ち切る。
そして山麓に5ヶ所、山頂の主郭のまわりに4ヶ所の出入口(虎口)を設けました。
『家忠日記』によれば、普請は3月から10月まで、半年以上にわたって断続的に続いたとされます。
家康が描いた勝算は包囲網だった
兵数だけでは勝利が決まりにくい、強固な城と地形を押さえた徳川軍。
しかし、それだけでは上洛などできません。
そんなことは重々承知の家康は、同時に四方八方へと戦争の火種を広げ、秀吉の足元を揺らがせる戦略を取りました。
反秀吉の立場だった全国の諸将へ呼びかけたのですね。
以下がそのメンツです。
◆北条氏政・氏直……家康の娘・督姫が氏直に嫁いでいる相模の同盟相手
◆長宗我部元親……秀吉に讃岐・阿波を脅かされている四国の有力大名
◆根来衆・雑賀衆……紀州の有力な武装勢力(大坂・和泉方面への攻撃を要請)
◆佐々成政……北陸で秀吉と敵対していた織田家重臣

佐々成政/wikipediaより引用
◆甲賀の一揆勢、高野山、本願寺……畿内で秀吉の膝元を騒がせる勢力
本願寺に対しては「信雄の上洛が成ったら大坂を返す」と持ちかけ、高野山には「鉄砲500挺を持って味方になれば大和で2万石を渡す」とまで言っています。
秀吉が、眼前の戦場で手一杯になっている間に、各地で反対勢力に蜂起させれば勝てる!
これは決して絵空事ではありませんでした。
例えば関東の雄・北条家でも「上方で織田・徳川方が勝てば関東でも自分たちが優位に立てる」と読んでいた者がいました。
果たしてそんな家康の狙いは万事うまくいったのか?
秀吉も各方面に軍勢を配置
秀吉は、家康による包囲網を的確に把握していました。
そこで大坂を出陣するにあたり、それぞれの方面へあらかじめ手を打っています。
◆長宗我部元親←仙石秀久らが淡路・讃岐方面で対抗
◆佐々成政←前田利家・丹羽長秀を北陸に残留
◆雑賀衆・根来衆←中村一氏を岸和田城に置き、蜂須賀家政・黒田孝高(官兵衛)らを加勢
◆毛利輝元←同盟関係を維持し、西国方面の安定を確保
北条家は?
家康がもっとも頼みにしていた関東の雄に対しても、

北条氏政/wikimedia commons
当然、秀吉は対処しています。
北条と敵対する佐竹義重ら「東方之衆」を味方に取り込んで下野の沼尻で対峙させ、同じ時期には安房の里見氏も北条を攻めていました。
佐竹方の武将がこれらの戦いをまとめて「三方弓矢」と呼んでおり、彼らも小牧・長久手の戦いに連動した戦争だと把握していたのです。
さらに越後の上杉景勝も大坂へ人質を送っており、越中の佐々成政を釘付けにしています。
まるで将棋や囲碁のように駒を配置する家康と秀吉。
さて、その結果は?
例えば北条家では、氏直が援軍を出す意図を持ちながら沼尻から動くことができず、家康は最後まで関東からの加勢を受けられませんでした。
研究者の平山氏は、秀吉の外交戦略がかなり効果を上げたと評価。
結局、家康が構想していた包囲網は思うように機能しなかったのです。
長久手で快勝するも戦線は動かず
天正十二年(1584年)4月9日、家康は長久手の戦いで秀吉方の別動隊を撃破しました。
徳川の重要拠点である三河へ攻め込んだ池田恒興や森長可らを討ち取るという戦果を挙げ、「人数一万余を討ち捕った」と家康が国元へ報じています。
ただし、これは勝利を喧伝するための誇張を含む数字で、実際の戦死者数は不明。
それでも大将格を三人も討ち取ったのは快挙と言えるでしょう。
しかし、この一戦で戦線が動くこともなく、5月に入ると秀吉方は加賀野井城を落とし、続いて竹ヶ鼻城では水攻めを仕掛けました。
ジリジリと秀吉に詰められながら、北条家の援軍を期待する家康。
8月に入ると長宗我部元親の弟へ向けて「この秋には関東の軍勢(北条軍)が出陣する」と書き送っており、かなり期待していたことがわかります。
ところが同月、秀吉から上杉景勝に対しては「明日にも木曾川を越えて小牧へ押し詰める」と報告されるなど、秀吉方がさらに優勢になっていく様子が浮かんできます。
そして10月下旬、羽柴軍が南伊勢を制圧します。
11月初旬には織田信雄の本拠・長島城のすぐ北、桑名まで秀吉軍が迫りました。
桑名城には、酒井忠次や石川数正らの徳川中枢部隊が詰めてはいましたが、

酒井忠次/wikipediaより引用
劣勢を挽回できるほどの状況ではありません。
そして終わりは突然やってきました。
信雄が勝手に秀吉と単独講和
天正十二年(1584年)11月11日、織田信雄は家康に相談しないまま、秀吉へ和睦を申し入れたのです。
11月15日には、わずかな供を連れて秀吉の陣所を訪れ、二人は涙を流したと秀吉自身が書き残しています。
そして、このとき決められた条件のなかに、家康の扱いが出てきます。
徳川家康については、信雄の懇願により赦免する――。
合戦では一度も負けていない男が、同盟相手の口添えによって許される側へ回る、なんとも理不尽な瞬間でした。
勝算はどこで消えたのか
徳川家康の勝算は、地形と築城と外交で「負けない」ところまでは確かに届いていました。
けれども勝ち負けの条件は、最初から織田信雄に委ねられていて、その信雄が単独で和睦を申し出てしまえば、徳川方としてはどうにもなりません。
信雄の性格も踏まえて合戦の準備を進めなければならなかった――。
この時点でそもそも“家康の勝算”は成立しなかったのかもしれませんね。
大河ドラマ『豊臣兄弟』の時代考証者である柴裕之氏も『徳川家康 境界の領主から天下人へ』の中で、長久手の勝利は局地戦にすぎず、秀吉は織田家当主の信雄を実質的に従属させることに成功したと記述。
和睦の取り決めを受け、家康は同年12月12日、二男の於義伊(おぎい・後の結城秀康)を秀吉の養子として大坂へ送りました。

結城秀康/wikimedia commons
石川数正の子・勝千代、本多重次の子・仙千代も同行しており、実質的には和平を担保する人質とも言えます。
なお『家忠日記』では、於義伊について「御養子」と記しています。
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翌天正十三年(1585年)2月22日、織田信雄は大坂城へ出頭して秀吉に臣従し、以後は、自分に味方した徳川家康や佐々成政を従わせるために動きます。
担いでいたはずの神輿が、いつの間にか自分を説得する側に回っていたのですね。
なお、小牧・長久手の戦いそのものの経過については、以下の関連記事をご覧ください。
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小牧・長久手の戦いで勝ったのは秀吉か家康か?決着をつけたのは織田信雄だった
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参考文献
- 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年12月 KADOKAWA)
- 藤井讓治『徳川家康 人物叢書300』(2020年1月 吉川弘文館)
- 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(2017年7月 平凡社)
【TOP画像】左から織田信雄・徳川家康・豊臣秀吉/wikimedia commons

