天下人の秀吉を支えた有力大名の豊臣五大老――彼らの名前をすべて言えるでしょうか?
徳川家康と前田利家はすぐに浮かんでくるでしょう。
ただ、残る3人で「あれ?」と一瞬立ち止まってしまう方も案外多いかもしれません。
死を前にした豊臣秀吉が、幼い豊臣秀頼の将来を託した有力大名たちですが、その経歴や秀吉との関係もまるでバラバラで統一感はない。
なのになぜ同じ肩書で秀吉に頼られたのか。

豊臣秀吉/wikimedia commons
豊臣五大老の顔ぶれと、その役割も併せて振り返ってみましょう。
全部で5人ではない
実は豊臣五大老は全部で5人ではありません。
秀吉がまだ健在だった文禄四年(1595年)、豊臣政権の法令「御掟追加」に名を連ねた有力大名は、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝、そして小早川隆景の6人でした。
隆景は毛利元就の三男で、毛利輝元の叔父にあたります。

小早川隆景/wikipediaより引用
ところが隆景は慶長二年(1597年)6月12日、秀吉より先に亡くなってしまいます。
そのため、かつては隆景が亡くなったあと、後任として上杉景勝が加わったと説明されてきました。
しかし研究者の光成準治氏は著書『小早川隆景・秀秋』の中で、景勝は隆景の生前から名を連ねていたとして、この見方を否定しています。
さらに秀吉の死後には、前田利家の跡を嫡男の利長が継ぐなど、一定の入れ替わりがあったのが五大老です。
今回はまず慶長三年(1598年)、秀吉最晩年の顔ぶれから確認しておきましょう。
当時の年齢(数え)も一緒に並べると、以下のようになります。
◆豊臣五大老(1598年版)
徳川家康……57歳
前田利家……61歳
毛利輝元……46歳
上杉景勝……44歳
宇喜多秀家……27歳
まず徳川家康は、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いで秀吉と戦った相手。

徳川家康/wikimedia commons
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも詳しく描かれたのでご存知の方も多いでしょう。
秀吉は妹あさひを嫁がせ、実母の大政所を人質に出し、四苦八苦しながら天正十四年(1586年)に上洛させ、ついに臣従させました。
かつての敵が、秀吉の義弟として政権の中に入ってきた。
しかも最も力を持っていた大名です。
20代で大抜擢された宇喜多秀家
家康の対抗馬でもあった前田利家は、織田家に仕えていた頃から秀吉とは古いなじみでした。
賤ヶ岳の戦いでは土壇場で柴田勝家のもとを離れて秀吉につき、北陸に大きな勢力を築いた、豊臣政権では家康と並ぶ最長老です。

前田利家/wikipediaより引用
毛利輝元は、中国地方の覇者・毛利元就の孫。
かつて中国地方で秀吉と激戦を繰り広げていた毛利家は、本能寺の変直後に講和しており、後に豊臣政権を支える有力な大名家として厚遇されました。
先に触れた小早川隆景のもとには、寧々の甥・小早川秀秋が養子に入っており、豊臣家とのつながりも深めています。
上杉景勝は、上杉謙信の姉の子で、謙信の養子です。
謙信の死後、もう一人の養子・上杉景虎との家督争い「御館の乱(おたてのらん)」を制して跡を継ぎ、秀吉に従うと、慶長三年(1598年)には越後から会津へ移されました。
そして最後の一人がプリンス・宇喜多秀家です。

宇喜多秀家/wikipediaより引用
謀将として知られる備前の大名・宇喜多直家の子。
秀吉が毛利と戦っていたときに味方になった宇喜多は、毛利や徳川と比べれば、もとは格下の大名でした。
それが秀吉のおかげで一気に変わった!
秀吉養女で、前田利家の娘でもある豪姫(樹正院)を正妻に迎え、羽柴家の「親類」として扱われるようになり、若くして大抜擢されたのです。
40代〜60代の大名が並ぶなか、秀家ひとりだけ20代というのは、かなり目を引いたことでしょう。
と、このように彼らの経歴は全員バラバラ。
豊臣政権では一体どんな役割を担っていたのか?
五奉行とは何が違う?
慶長三年(1598年)の夏、重い病に倒れた豊臣秀吉は、幼い秀頼が成人するまでの政権の形を整えました。
政権の実務を担ってきた側近たちと有力大名たちに、共同で政治を進めさせようとしたのです。
側近たちとは、いわゆる五奉行のことですね。
浅野長政や石田三成、長束正家などが並び、訴訟の処理や都市の行政、諸大名への指示、あるいは合戦の兵站など、地味だけど彼らがいないと回らない実務を受け持ってきました。

石田三成/wikipediaより引用
一方、五大老は、秀吉の定めた方針どおりに政権を回すための補佐役です。
大河ドラマ『豊臣兄弟』の時代考証である柴裕之氏の編著『図説 豊臣秀吉』では、五奉行が進める実務を五大老の承認によって「権威」づける仕組みだったと説明。
ただし、五大老は判を押すだけの存在でもありません。
例えば秀吉の死後、朝鮮からの撤退にあたり、五大老が連名で水軍の将・脇坂安治に船の準備を命じた書状も残っています。
また家康と利家は、豊臣家の親類という立場から、それぞれ伏見と大坂にとどまり、五奉行に相談されれば助言を与える役目も担いました。
ちなみに「五大老」「五奉行」という呼び名は江戸時代に付けられたもので、当時は決まった呼び方がなかったとされます。
最大の問題は秀吉死後のことですよね。
一体この体制はいつまで機能したのか?
秀吉の死後はどうなった?
慶長三年(1598年)8月18日、豊臣秀吉は伏見城で亡くなりました。
その後、五大老と五奉行はしばらく共同で政権を動かし、朝鮮半島からの軍勢の撤退などを進めていきました。
しかし徐々に徳川家康と五奉行の間で対立が鮮明化していきます。
翌慶長四年(1599年)閏3月には、家康と並ぶ重鎮の前田利家が死去。
何と言ってもこの一件がデカかった。
利家の役割を担う嫡男・前田利長も大老の一角に加わりますが、父と同じ重みを持てたわけではありません。

前田利長/wikipediaより引用
慶長五年(1600年)、家康が会津の上杉景勝を討つために出陣すると、その留守に毛利輝元が大坂城へ入り、反家康の軍勢が挙兵しました。
5人の行方は、ここで敵味方にハッキリ分かれます。
果たしてこの時点における戦力は、各大名でどれほどの規模だったのか?
石高と動員兵力(推定)を見ておきましょう。
五大老の石高と兵力
関ヶ原の戦い時点における五大老の石高・戦力は以下の通りです。
徳川家康(約240万石)……約7万
※関ヶ原へ向かった家康本隊3万余と、中山道を進んだ徳川秀忠の軍3万8千の合計
前田利長(約77万石)……約1万6千
※弟・前田利政の能登も含む。慶長四年(1599年)利家の遺言に見える数字
毛利輝元(約120万石)……約3万
※朝鮮出兵で豊臣政権から課された軍役の人数
宇喜多秀家(約47万石)……約2万
※慶長の役(1597年)で秀吉から命じられた人数
数字の出どころは家ごとに異なりますが、東西どちらかが一方的に勝るほどの差ではありませんでした。
しかし実戦は、そう計算通りにはいきません。
関ヶ原に送られた毛利家の別働隊は戦場で一切動かず、宇喜多秀家が奮戦するも結局敗戦。
東北で伊達家や最上家相手に互角以上の戦いをしていた上杉景勝も、関ヶ原での敗戦を聞いて退くしかなくなります。
毛利輝元は西軍の総大将として大坂城にあり、関ヶ原の本戦には出ていません。

毛利輝元/wikipediaより引用
ただ、研究者の菊地浩之氏は著書『豊臣家臣団の系図』の中で、輝元は一族を伊予に差し向けるなど、実質的な西軍大将として軍事行動を起こしていたことが近年の研究で分かってきた、と紹介しています。
同じ「五大老」でも、秀吉とのつながり方は5人5様。
その違いが、秀吉亡き後の選択にも表れたと言えるでしょう。
なお、五大老・五奉行と並べて語られる「豊臣三中老」については、以下の記事をご覧ください。
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豊臣三中老とは誰のこと?五大老でも五奉行でもない3人の役職は実在したのか
続きを見る
参考文献
- 菊地浩之『豊臣家臣団の系図』(2019年11月 KADOKAWA)
- 柴裕之編著『図説 豊臣秀吉』(2020年7月 戎光祥出版)
- 大西泰正『「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家』(2019年9月 KADOKAWA)
- 光成準治『小早川隆景・秀秋 消え候わんとて、光増すと申す』(2019年3月 ミネルヴァ書房)
- 光成準治『毛利輝元 西国の儀任せ置かるの由候』(2016年5月 ミネルヴァ書房)
- 大西泰正『前田利家・利長 創られた「加賀百万石」伝説』(2019年4月 平凡社)


