1795年6月8日、フランスの王族・ルイ17世が亡くなりました。
「あれ、ルイ16世までで終わりじゃないの?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。
◯世というのは基本的に「親や先祖と区別がつかないからつける」ものなので、ルイ16世の息子が同じ”ルイ”ならば、王様であろうとなかろうと17世になるわけです。
中国や日本では、同じ名前でも名前の後に(○代)や官位・通称をつけたり、文章の中で「○○時代のナントカさん」と言うことが多いですね。武王(周)とか、伊達政宗(九代)とか。
ではルイ17世は一体どんな一生を送ったのか、振り返ってみましょう。

ルイ17世/wikipediaより引用
愛称は「愛のキャベツ」
ルイ17世が生まれたのは1785年3月27日。
命日が1795年6月8日ですから、10年しかこの世に生きていなかったことになります。
この時点で何となく想像のついた方もいらっしゃるかと思いますが、一言でまとめるとすれば「幸せを感じたことが一瞬でもあったのだろうか?」というほど酷いものでした。
彼はルイ16世とマリー・アントワネットの次男で第三子。

マリー・アントワネット/wikipediaより引用
姉はマリー=テレーズで、兄はルイ=ジョゼフといいました。
姉は兄弟の中で最も長生きしますが、兄は1789年に亡くなってしまったため、そこからはルイ17世が王太子となります。
1786年には妹・ソフィーも生まれたものの、一歳にもならない頃に亡くなってしまい、ルイ17世は末っ子として扱われたようです。
特に母マリーの寵愛は深く、「愛のキャベツ」と愛称をつけて可愛がっていたとか。
フランスではキャベツ=目に入れても痛くないものという認識らしく、有名どころだとドビュッシーも愛娘に「キャベツちゃん」とつけています。
お菓子のシュークリームも「クリームの入ったキャベツ(シュー)のようなお菓子」が語源だそうで、よほど可愛いものとキャベツとの連想が強いんでしょうねえ。
1789年のフランス革命で運命が一変
容姿も性格も愛らしかったルイ17世は使用人や貴族たちにも愛され、将来有望と思われました。
多少神経質なのが玉にキズではあったようですが、賢さの裏返しでもあったことでしょう。
しかし、1789年にフランス革命が勃発!

バスティーユ襲撃/wikipediaより引用
王族一家の運命は激変します。
当時4歳のルイ17世は、健気にも「ママを許してあげて!」と民衆に向かって叫んでいたそうです。
これにはさしもの革命軍も哀れに思ったのか、監禁先の衛兵やその子供たちと仲良くなり、両親を安心させました。
当初は革命派も王政の完全廃止ではなく、立憲君主制を目指してため議会には王と王妃、そして王太子だったルイ17世も列席。
ルイ16世が憲法を守る旨を宣誓し、マリー・アントワネットが幼い17世を抱え上げて議員たちに見せると、拍手喝采が起こったとか。
また、パリの記章である赤と青の間に、ブルボン家を表す白を入れた三色旗も用いられるようになります。
つまりは「パリ市民が王家を取り囲む」という構図なわけです。
これらのことから、市民たちに"当初は"王家根絶の意図がなかったことがわかります。
もしもこの時点で国王夫妻が
「国民は我々を殺したがっているわけではない」
ということに気づき、重視していたら、彼らもフランスも全く異なる道を歩んだでしょう。
ベルサイユ行進
実際はこの後、国王や王統、貴族は、その希望をひとつずつ潰していきます。
フランス革命が起こった理由のひとつとして、天候不順による食料不足がありました。
にもかかわらず、バスティーユ陥落後も王と王党派は軍によって革命を沈静化させるため、国中の兵をパリに集めてしまいます。
軍隊は人間の大規模な集まりですから、当然、水や食料が必要。
ベルサイユ宮殿ではその軍を歓迎するパーティーが開かれたのですから、餓えている民衆がさらに怒るのは当然のこと。

ベルサイユ宮殿の王室礼拝堂
そしてバスティーユ陥落からおよそ3か月後の1789年10月、怒りを爆発させたパリの一般女性たちが手に手に武器を取り、ベルサイユを目指しました。
「ベルサイユ行進」と呼ばれている出来事です。
これまた市民たちが自発的に集まったものであり、後から国民議会が作った平民の軍隊「国民衛兵」が続くという形になっています。
ルイ16世は行進してきた人々の代表と会見し、ベルサイユの食料庫を開放することを約束しました。
しかしそれだけでは収まらず、翌日宮殿内へ押し入った民衆によって、国王一家はパリのテュイルリー宮殿へ移されることになります。護衛はラファイエット率いる国民衛兵でした。
王室以外でも下手を打った人たちがいました。
反乱を起こした兵士に対し、王党派の貴族が強硬手段に出た1790年8月のナンシー事件などによって、民衆の応答葉に対する印象は悪化の一途をたどっていったのです。
ヴァレンヌ逃亡事件
そして決定打となったのが、1791年6月20日に国王一家が起こした【ヴァレンヌ逃亡事件】です。
この時期のフランスは、自国の王政が脅かされることを懸念した周辺国家から軍事的圧迫を受け、非常に緊張した状況。
「王妃が実家のオーストリアと連絡し、オーストリア軍を手引している」なんて噂もあったほどです。
そんな中で国王一家が揃って逃亡してしまったのです。

ヴァレンヌからパリへ連れ戻される国王一家/wikipediaより引用
民衆への印象は最悪でした。
幼い17世には責任がないものの、国民からすれば
「国中みんなが苦しんでいるときに、国王たちが逃げた!」
「やはり俺たちは裏切られていたんだ!」
「王妃の実家オーストリア軍と組んで、俺たちを殺そうとしている!」
としか見えなかったこの事件の後、国王一家の扱いは目に見えてひどくなるのです。
連戦連敗の鬱屈が王室へ向けられ
1792年4月になると、フランスは革命の波及を恐れたオーストリアとプロイセンに宣戦布告。
しかし訓練を受けていないフランス軍は連戦連敗となり、その鬱屈した気分は王室に向けられました。
「王族が敵軍と密通して、フランス軍を窮地に追いやっているに違いない」
そう捉えられ、国王一家が戻ってきていたテュイルリー宮殿を襲撃するまでになるのです。
これに関しては国王一家のせいではなく、亡命していた王弟アルトワ伯やプロヴァンス伯などの動きが強かったのですが……やはりヴァレンヌ事件の悪印象が強すぎました。
1792年8月10日、民衆がテュイルリー宮殿を襲撃し、タンプル塔へ国王一家を収監しました。
【8月10日事件】【8月10日革命】と呼ばれている出来事です。
王権は停止され、国王のそばに残っていた貴族たちも引き離されていきました。
しかしタンプル塔では、家族揃って過ごすことができたのでまだマシなほうではありました。

国王一家が幽閉された大塔(1795年)/wikipediaより引用
ルイ17世は父や父の妹(叔母)であるエリザベートから語学などを教わったり、遊んだりと、遠くへ行けないこと以外はむしろ温かい空気だったようです。
後に、マリー・アントワネットがエリザベートに書いた遺言書の中で、
「息子があなたに迷惑をかけてごめんなさい。あの年頃の男の子はそういうものなの」
と書いているのですが、それはおそらくこのタンプル塔にいた時期のことかと思われます。
囚われの身になる前までは、17世とエリザベートが身近に接することもそう多くはなかったでしょうし。
この段階ではまだ国王一家に同情してくれる者もおり、ペットにと犬をもらったこともあったとか。
ルイ16世の遺書には「復讐を考えてはいけない」
直後の8月半ば、オーストリア・プロイセン連合軍がフランス領内へ侵入。
9月21日に国民議会は共和制となることと王政の廃止を宣言します。
続いて「ルイ16世の処遇をどうするべきか?」といった議論と投票が行われました。
この投票は今日イメージされるような「紙に書いて投票する」というものではなく、議員一人ひとりが賛成・反対とともにその理由を述べるというスタイルです。
そこで70票ほどの差をつけられ、ルイ16世の処刑が決定。

ルイ16世/wikipediaより引用
16世は既に覚悟を決めており、処刑の前のクリスマスには遺書を書いていたといいます。
その中で、17世に対し「復讐を考えてはいけない」と諭していたとか。
革命政府は既に王政を廃止していますので、16世の処刑後も17世は国王としては扱われませんでした。
とはいえ王族たちにとっては王政廃止も納得できませんから、亡命済みだった父方の叔父・プロヴァンス伯ルイはこの時点で
「王位は16世の子である17世のものであり、私が摂政を務める」
と宣言しています。
その割に救出しようとした気配はありませんけれども……。
ちなみにこの人は国王一家がヴァレンヌ事件で逃亡に失敗したのとほぼ同時に、別ルートで亡命を成功させています。
もしも彼が17世を預かっていたら、運命は全く違ったものになったでしょうし、この発言にもっと信憑性が出たことでしょう。
反対に、17世が騒ぎ立てて逃亡失敗、というケースもありえますが。
市民としての教育を受け 凄まじい虐待が続く
父・ルイ16世の処刑は1793年1月に決まりました。

ギロチンで処刑されるルイ16世/wikipediaより引用
ルイ17世の処遇が決定的に悪くなったのは、それから半年ほど経った1793年7月からのこと。
まず7月3日に母や姉たちから引き離され、タンプル塔内の別室に一人で収容されることになります。
最初のうちは泣いていたものの、革命派に気に入られようとして革命歌を歌ったり、母や叔母について「あのあばずれども」といった暴言を吐くようになっていたとか。
かの名作「ベルサイユのばら」では後者の場面が描かれていました。
実際には作中ほど元気な感じではなく、17世は徐々に体調を崩していきます。
同じ頃、1793年8月2日には母マリー・アントワネットがコンシェルジュリー牢獄へ単独で移され、同年10月12日からは彼女の裁判が始まっていました。

処刑台に立たされるマリー・アントワネット/wikipediaより引用
17世本人はおそらく知らなかったでしょうが、マリーの裁判では彼女が息子に性的な虐待を行った疑いまでかけられています。
数々の散財については罪を認めたマリーでしたが、これには毅然と反論。
あまりにも荒唐無稽だったことから、疑いをかけた人に傍聴人たちが怒ったほどです。
性的なことで人を貶めようとするのは常套手段ですけれども、言い出した方の品性が疑われるだけですよね。
むしろ、性的虐待をしたのはルイ17世を収監していた側の方でした。
本来は世話をするはずの人が、番兵たちですら嫌がるほどの暴力を加えていたという話もあります。現代であれば確実に刑事事件ですね。
世話人が変わった後も待遇が改まることはなく、17世は鎧戸と鉄格子のはまった暗い部屋に閉じ込められていたそうです。
わざわざそのために改装させたというのですから、気味が悪いほどの徹底ぶりであります。
ルイ17世は食事も衣服も満足に与えられず、トイレにも行けず、不潔な部屋でかろうじて息を保っているような状態だったといいます。
まだ年齢一ケタの、しかも肉親から離れ離れにされた少年にとって、人格が変わるほどの衝撃を受けたことは間違いありません。
いくら王政が憎かったからといっても、まだ一人で出歩くこともできないような少年への扱いとしてはひどすぎます。
彼をこのように虐げて、民衆が何を得られるというのでしょうか。その疑問を持たない人しかいなかった……とは思いたくないところです。
無理矢理この扱いの理由を考えるとすれば、当時の世話人が「17世は16世の子ではなく、フェルセンの子」という噂を信じていた可能性があるでしょうか。
フェルセンは1783年にアメリカ独立戦争からフランスに戻ったものの、その後1784年に母国スウェーデンへ帰っており、そこから1788年秋までは母国の軍人として動いています。
ルイ17世が生まれたのは前述の通り1785年3月27日ですので、通常の発育であればマリーが身ごもったのは1784年の夏頃。
いよいよ王家の財政逼迫が隠しきれなくなり、あーだこーだと論戦が繰り広げられ始めた頃です。
この多忙極まる時期にマリーとフェルセンが首尾よくいったというよりは、マリーとルイ16世との間に夫婦生活があったと考えるほうが自然でしょう。
あるいは、そういった事実や理屈はどうでもよく「マリーを強く憎んでいた人」が世話人になったので、マリーの代わりに目の前にいる17世で憂さを晴らそうとしていた……というのもありえそうです。
いずれにせよ17世本人には何の責任もないので、酷いとしか言いようがないことは変わりません。
ちなみに17世の姉マリー・テレーズはそこまで酷い扱いを受けていなかったようです。

マリー・テレーズ/Wikipediaより引用
彼女の父親については疑念が持たれていなかったのか、女性だったからなのか……。
肌は灰色がかり 爪は異常に伸びていた
それでもルイ17世は生き続けます。
恐怖政治を主導していたロベスピエールが処刑されると、入れ替わりに台頭した貴族の一人ポール・バラスに助けられました。

ポール・バラス/wikipediaより引用
バラスはルイ17世の衰弱ぶりとあまりにひどい環境に驚き、新たに人を雇って部屋の掃除や着替えをさせ、医師にも診せてくれます。
そのときの記録はこうです。
「肌は灰色がかり、頬はこけ、目はぎょろりとしていた。
体中に青・黒・黄色のみみず腫れができていて、爪も異常に伸びていた」
バラスに雇われた新しい世話人は心ある人だったようで、ルイ17世を散歩に連れ出してくれました。
しかし、そのときも一人で歩けないほどの衰弱振りだったとか。
少しずつ扱いが良くなったおかげで、ルイ17世は徐々に周囲の人々へ心を開き始めました。
が、体はそれについていけず、外で遊ぶ許可が出ても、自力で出歩けなくなっていたといいます。全てが遅すぎたのです。
死因は結核と発表されたが……
この頃には一般市民へもルイ17世の受けていた虐待が知られており、そうした扱いをした人々へ制裁が下っていました。
一方で主治医の急死などによりルイ17世の治療は進まず、確実に弱っていきます。

監禁されるルイ17世(フスタフ・ワッペルス画)/wikipediaより引用
唯一の慰めは、再び日の当たる部屋に移してもらえたことでした。
精神的に前向きになれたからか、少しは体も良くなったようですが……部屋を移されてから2日後の6月8日、激しい呼吸困難を起こした後に亡くなってしまうのです。
10才という儚い一生でした。
死因は結核であると発表されましたが、解剖の記録を見るととてもそれだけとは思えません。
比較的まともな部分だけを抜粋すると
「手首や膝に小さな腫瘍が複数あった」
とのこと。
当時の医学ですので、本当に腫瘍だったのかどうかも疑わしく、暴行によってできた瘤か、感染症の痕跡あるいは皮膚病のほうがありえそうです。
17世の兄も結核からの脊椎カリエスで亡くなっているため、兄弟ともに肺が弱かったのかもしれませんが。
別の可能性を考えるならば、ルイ17世が小児がん患者だったというのもありえなくはないですけれども……今となっては解明のしようがなさそうです。
ちなみにお決まりのパターンで、ルイ17世の生存説も長く囁かれました。
「死んだのは替え玉で、本人はどこかに逃げている」というものです。
そのため17世を名乗る人が度々現れ、世間を騒がせました。
2004年に両親の元へ
ルイ17世の遺体は解剖の後、共同墓地に葬られました。
解剖に携わった医師の一人がルイ17世の心臓を持ち去って保管していたため、これを使って近年DNA鑑定が行われ、共同墓地から遺体が発見されています。
生存説は完全に否定されました。
そして2004年、両親と同じくフランス王家代々の墓地があるサン=ドニ大聖堂へ再度埋葬され、無言の再会を果たしています。
心臓の方は今もクリスタルの壺に入れられて公開されているのですけれども、遺体に戻してあげたほうがいいんじゃないですかね……。
写真を撮ってそれだけ展示するという形も取れるでしょうし。
サン=ドニ大聖堂はステンドグラスでも有名なところなので、観光される方も多いと思いますが、その際は幼くして悲惨な最期を迎えた幼い王の冥福を祈るのも良いかもしれません。

サン=ドニ大聖堂/photo by wikipediaより引用
あわせて読みたい関連記事
-

理不尽なマリー・アントワネットの処刑「パンがなければ」は完全に誤解
続きを見る
-

無実の罪で処刑されたルイ16世|なぜ平和を願った慈悲王は誤解された?
続きを見る
-

ヴァレンヌ事件~革命から逃亡したルイ16世達は一戦交えようとした?
続きを見る
-

俺の妻を返せ!ルイ14世に愛妻を寝取られた モンテスパン侯爵の哀しき奇行
続きを見る
-

ルイ15世の美人公妾ポンパドゥール夫人|敏腕政治家に匹敵する功績
続きを見る
【参考】
安達正勝『マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃 (中公新書)』(→amazon)
安達正勝『物語 フランス革命 バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで (中公新書)』(→amazon)
エマニュエル ド・ヴァリクール/ダコスタ吉村 花子『マリー・アントワネットと5人の男:宮廷の裏側の権力闘争と王妃のお気に入りたち 下』(→amazon)
世界大百科事典
岩波 世界人名大辞典
ほか





