細川勝元

細川勝元/wikipediaより引用

細川家

細川勝元の生涯|戦国時代を招いた応仁の乱は東軍視点で見るとわかりやすい

2025/06/06

1473年6月6日(文明5年5月11日)は、室町幕府管領・細川勝元が亡くなった日です。

戦国時代の幕開けとして知られる『応仁の乱』――その当事者として戦った人物として有名ですが、一体どのような経緯でそんな大戦になってしまったのか?

細川勝元/wikipediaより引用

本稿では細川勝元視点から当時を振り返ってみましょう。

この複雑で難解な戦いは、もしかしたら片方にスポットを当てて見た方がわかりやすいかもしれません。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

幼名は聡明丸って……

細川勝元は永享二年(1430年)、第十四代室町幕府管領・細川持之の嫡男として生まれました。

幼名は聡明丸と言いまして……後に彼がやったことを考えると聡明どころか「名は体を表すの真逆」感が……。

嘉吉二年(1442年)で父を亡くし、13歳で家督を継承。

六代将軍・足利義教が暗殺された【嘉吉の乱】の翌年でもありました。

足利義教/wikipediaより引用

「勝元」の名は、七代将軍である足利義勝から「勝」の字をもらったものです。

幼いながらに、叔父の細川持賢に後見されて摂津・丹波・讃岐・土佐の守護を務めました。

16歳のとき管領に就任し、時にその地位を降りながら、生涯、室町幕府と日本史に影響を及ぼすことになります。

 


後に敵となる宗全の養女が正妻だった

応仁の乱のもう一人の当事者といえば山名宗全です。

山名宗全(山名持豊)/wikipediaより引用

あんな大乱を起こすような対立をした者同士ですから、さぞかし当初から仲が悪かったのだろう――と思いきや、当初はそうでもありません。

宗全と勝元には親子ほどの年の差がありましたし、勝元は宗全の養女を正室に迎えています。

しかし、度重なる政治的な対立によって、応仁の乱が引き起こされていきました。

この辺は同時進行になっているできごとが非常に多くてややこしいところなのですが、今回は時系列ではなく、

◆お家騒動に関する各家の事情(赤松家・畠山家・斯波家)

◆財力を巡る対立

◆養子の扱い

三項目にまとめて、その中身を見ていきましょう。

まず、お家騒動に関する「各家の事情」は以下の通りです。

 

赤松家

赤松家は「四職」と呼ばれる室町幕府のお偉いさんのひとつであり、【嘉吉の乱】首謀者の家です。

時の当主・赤松満祐は既に世を去っていて、大名としては滅亡同然になっていました。

しかし、勝元は満祐の弟の孫である正則を当主として、赤松家を再興させています。

宗全はこれに大反対でした。

嘉吉の乱後、赤松家を始末したのは宗全なので当たり前ですね。

再興させてもらったことを感謝していたかどうかはわかりませんが、正則は後々勝元方の尖兵のような形で、応仁の乱の最初期に宗全方を攻撃することになります。

宗全からすれば「だから嫌だと言ったのに!」とキレたいところだったでしょうね。

 

畠山家

畠山家も【三管領】と呼ばれる室町幕府のお偉いさんの家です。

この頃は当主・持国の息子である義就と、持国の甥っ子である政久が対立していました。

畠山義就(息子)
vs
畠山政久(甥)

元はといえば、義就が生まれる前、持国は政久の父・持富を跡継ぎにしていたのです。

しかし義就が生まれたため、持富は跡継ぎの座を取り消されてしまいました。持冨は聞き分けの良い人だったらしく、不平を言わなかったのですが……。

畠山義就/wikipediaより引用

持冨の死後、家臣たちの一部が「本当は持冨様が家督を継ぐはずだったのに! こうなったら息子である政久様を当主にしなくては!」と意気込んでしまったために、お家騒動が始まってしまいます。

これに対し、細川勝元も宗全も、当初は政久を支持していたのですが、数年後に宗全が義就に鞍替えしました。

政久が亡くなったため、勝元はその弟である政長を支持し、お家騒動が続きます。

後々、室町将軍の足利義政から「二人とも畠山家からは手を引くように」といわれて引っ込んでいますが、対立のきっかけの一つになったことは間違いないですね。

 


斯波家

斯波家も「三管領」のひとつに数えられる家です。

ヘマをして追放同然になった前の当主・義敏と、義政によってその後釜に据えられた遠い親戚・義廉が対立していました。

ここについては、勝元が義敏、宗全は義廉を支持しています。

見方を変えれば「細川勝元は義政に逆らい、宗全は義政の決定を重んじた」ともいえますね。

応仁の乱勃発頃に、宗全は義政にゴリ押しして義廉を管領職に就けているので、そのためだったかもしれませんが。

 

明との貿易、養子問題……ドコでもぶつかる

では、残り2つのポイント

◆財力を巡る対立

◆養子の扱い

もマトメておきましょう。

◆財力を巡る対立

当時は西国大名の多くが明(当時の中国)と貿易を行い、大きな利益を得ていました。

これに注目した細川勝元は「どうにかして大内家の領地とカネをぶんどりたい」と考え、その手始めに伊予(現・愛媛県)の大名・河野氏を攻めます。

河野氏も内紛を起こしていたので、勝元がその一方に手と口を出した形でした。

が、もう一人の当事者が宗全の娘婿だったために、宗全にケンカを売るも同然になってしまいました。

◆養子の扱い

まだ宗全と対立していなかった頃、なかなか息子に恵まれなかった勝元は、宗全の末子・豊久を養子に迎えていました。

が、その後、自身の実子・細川政元が生まれたため、

細川政元/wikipediaより引用

豊久を廃嫡して仏門に入れるという暴挙を働いています。これでは、宗全が「あの野郎(#^ω^)」と思うのも当たり前ですよね。

乱暴に一行でまとめるとこうなります。

「勝元と宗全は、他家のお家騒動(×3)・カネ・養子のあらゆる面で対立していた」

こうしてみると、勝元が宗全にケンカを売り続けた感がありましょう。

宗全もいろいろ強引なことをやっているので、一方的な被害者というわけではありませんが。

 


利将軍家に跡取り問題はあった?

注目は、足利将軍家でしょうか。

足利義政の弟・足利義視と、義政の息子・足利義尚の対立が勃発し、応仁の乱の主な原因となったとされています。

足利義政/wikipediaより引用

しかし最近は、足利義視はあくまで中継ぎ候補であり、そこに争いは無かったとされています。

いずれにせよ「他の至るところでお家騒動が勃発しており、なおかつ互いに口と手を出したがる」というカオスな状況という最中、最初に畠山家が炎上(物理)しました。

【御霊合戦(ごりょうがっせん)】または【上御霊神社の戦い】と呼ばれる軍事衝突が起きてしまったのです。

この内紛に対し、宗全は義就を支援しました。

しかも後花園上皇・後土御門天皇を確保した上で、というヤリ口です。

勝元はこの頃、義政から「お前は畠山家に首を突っ込まないように」と命じられていたので、どちらにもつくことはありませんでした。

が、そのうち「宗全が皇室を盾にするなら、こっちは幕府を味方につけてやる」とでも思ったのか、数ヶ月後に幕府を占領して、宗全にケンカを売ります。

こうして本格的に始まったのが『応仁の乱』だったのです。

応仁の乱を描いた『真如堂縁起絵巻』/wikipediaより引用

勝元方は東軍、宗全方は西軍と呼ばれるようになりました。

 

宗全も勝元もすぐに死んだ

勝元は義政から宗全追討令を受けたり、後花園上皇・後土御門天皇を救出したり、(一応)大義名分を持っていました。

戦況も東軍が有利でした。

が、そもそも戦場が京都市中ということもあり、決定的な勝利を収めることが難しいまま時が流れていきます。

やがて京都では政争が主体となり、市中での戦闘は行われなくなりました。

代わりに(?)それぞれの派閥を支持する地方の武将たちがあちこちで戦をおっぱじめ、全国で戦国時代に突入・拡大していくわけです。

勃発から約5年後の文明四年(1472年)には、勝元が宗全に和平を持ちかけましたが、見事に失敗。

翌年に宗全は亡くなり、その2ヶ月後に勝元自身もこの世を去りました。

二人とも伝染病だったとか、暗殺されたとかいろいろな説があって、死因は確定していません。

しかし、誰が見ても「おまえら、いい加減にせい!」とツッコミたくなる場面でしょう。

勝元の死後は、嫡子・政元が親戚の政国に後見され、細川家の家督を継承。そして、文明六年(1474年)に宗全の孫・山名政豊と和睦を結びました。

ちなみに細川政元も、かなり濃ゆい人です。

「修験道の教えに従い独身を貫き、それでいて養子を三人迎える」という謎すぎる行動を取って、後継者争いに始まる戦乱を招き、再び京都周辺を巻き込んだのです。

自分の父ちゃんが、どうやってゴタゴタに発展したか、学んで欲しかった……。

挙句の果てに政元は

「修験道にハマり空を飛ぼうとした」

という経歴の持ち主で……その詳細は以下の関連記事から御覧ください。

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【参考】
『国史大辞典』
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
日本史史料研究会/平野明夫『室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書)』(→amazon
細川勝元/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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