島津斉彬

島津斉彬/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末薩摩を躍進させた島津斉彬の生涯|西郷らを見出した“幕末の四賢侯”とは

1858年8月24日(安政5年7月16日)は薩摩藩11代藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)が亡くなった日です。

鎌倉時代からの島津氏として数えると第28代当主。

大河ドラマ『西郷どん』では渡辺謙さんが演じたことで話題となりましたが、史実でも【幕末の四賢侯】として名を轟かせ、将軍家に嫁がせた篤姫の義父としても存在感を放っております。

幕末の四賢侯

福井藩第14代藩主・松平慶永(松平春嶽)

土佐藩第15代藩主・山内豊信(山内容堂)

薩摩藩第11代藩主・島津斉彬

宇和島藩第8代藩主・伊達宗城

西郷隆盛を見出した、島津斉彬とは一体どんな人物だったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

島津斉彬/wikipediaより引用

 


オランダ贔屓の曽祖父・重豪の影響を強く受け

島津斉彬が藩主を務めたのは、実はわずか7年ほど。

それには、斉彬の置かれた家庭環境と、それにまつわるお家騒動が大きく影響していました。

斉彬の人格や価値観は、長命だった曽祖父・島津重豪(しげひで)の影響を非常に大きく受けて形成されたといわれています。

島津重豪/wikipediaより引用

重豪は自らオランダ語を話せたといわれるほどのオランダLOVEな【蘭癖大名】で、幼い頃の斉彬も、曽祖父とシーボルトの会見に臨席したとか。

また、当時の大名家としては珍しく、重豪は斉彬と一緒に風呂に入ったこともあったそうです。

さらに、斉彬の母・弥姫(いよひめ・嫁いでからは周子・かねこ)は、これまた大名家の正室としては異例となる「実母の母乳」で子育てをした人です。

弥姫は、自ら中国の歴史書について子供たちに講義するほどの才女でした。

父・島津斉興(なりおき)と斉彬の関係についてはビミョーな所です。

島津斉興/Wikipediaより引用

後述する【お由羅騒動】その他のイメージが強いため、さぞ昔から仲が悪かったのだろう……と思いきや、周子は斉興の婦人の中で一番多く子供を産んでいます。

となると、両親の仲が険悪ということは考えにくいので、少なくとも斉彬が幼かった頃は良い家庭だったのではないでしょうか。

 


蘭癖になれば藩の財政が逼迫!? そして「お由羅騒動」へ

大名家では家族間だけでなく、家臣との関係も非常に重要です。

曽祖父・島津重豪に倣って西洋への興味を強めていった島津斉彬に対し、重臣たちは良い印象を持ちませんでした。

というのも、重豪は蘭癖が過ぎて藩の財政に支障をきたしており、斉興が調所広郷という家臣を重用して、四苦八苦しながら財政立て直しを進めたからです。

調所広郷/wikipediaより引用

ここで正室の長男=まず間違いなく跡を継ぐ斉彬が蘭癖になると、せっかくマシになった経済が逆戻りしかねません。

斉興もその辺の事情を加味してか、なかなか斉彬に家督を譲りたがりませんでした。

斉彬が40歳を過ぎてもそんな感じだったので、側室たちが「あわよくば我が子を藩主に」と考えるのも無理のないことです。

こうして起きたのが【お由羅騒動】でした。

詳細は以下の記事にございますが、

お由羅騒動(お由羅の方)
幕末薩摩で起きた哀しき内紛・お由羅騒動|狙われたお由羅の方はどうなった?

続きを見る

まずお由羅の方とは、斉興の寵愛を受けていた側室で、後に生麦事件の当事者となる島津久光の実母です。

彼女は久光を藩主にしたがった――と言われています。

一方で斉彬派の家臣もおり、事を重く見て「お由羅の方の暗殺計画」を立てました。

しかし、その計画が事前にバレ、関係者約50名が切腹や流刑、謹慎という大事件に発展したのです。1849年から50年にかけてのことでした。

薩摩藩内では規模の大きな騒動でしたので、後に歴史に名を残す人も多く関わっています。

有名どころだと、大久保利通や西郷隆盛の父親がいますね。

 

洋学を重んじた「集成館事業」を押し進める

お由羅騒動から二年後、事後処理も終わってようやく島津斉彬が藩主となります。

島津斉彬像

やはり洋学を重んじ、造船や冶金(やきん・鉱石から金属を作ること)のための反射炉を作ったりしています。

斉彬の主導で行われたこの辺の事業を「集成館事業」と呼んでいます。

特にガラス製品は質が高く、「薩摩の紅ビードロ」として知られ、大名同士の贈り物にも重宝しました。

島津斉彬の集成館事業
幕末薩摩の躍進を支え現代にも息づく集成館事業|島津斉彬はどう推し進めたか

続きを見る

一時は技術が途絶えてしまったのですが、近年復興され「薩摩切子」と名を変えて再び注目を浴びています。

集成館事業は、ご想像のとおり相当な費用がかかりましたが、造船事業の一環で、このころ薩摩で作られた西洋式軍艦の「昇平丸」は、明治に入ってからも蝦夷地開拓で活躍するなど、当時としてはかなり高い技術力を持っていました。

また、斉彬の視野の広さは人材発掘においても活かされ、元は下層藩士だった西郷隆盛や大久保利通を登用しています。

西郷隆盛と大久保利通/wikipediaより引用

本人の才覚もさることながら、こういった維新の功労者たちに尊敬されていたことも、斉彬が名君とされる理由なのでしょうね。

斉彬は、こうした功績・才覚に驕ることなく、家督を継ぐ前から宇和島藩主の伊達宗城や水戸藩主・徳川斉昭など、広く交流を持っていました。

しかしそれは、幕政に口を出すことにもつながっていきます。

 


阿部正弘が亡くなると、大老・井伊と対立

斉彬はまず、ときの老中・阿部正弘に対し、幕政改革の一環として公武合体と開国、それに伴う軍事的準備を訴えました。

正弘の許可を得て、琉球王国を介してフランスから兵器購入などを計画していたようです。

そして阿部正弘が安政四年(1857年)に亡くなると、大老になった井伊直弼と次期将軍について対立します。

この頃の将軍は十三代・徳川家定であり、篤姫の嫁ぎ先ですね。

徳川家定

徳川家定/wikipediaより引用

当時の事情は大河ドラマでも有名になりましたが、簡単にまとめるとこんな感じです。

家定は生来病弱

正室も側室もいるけど、嫡子誕生の見込みがない

「さっさと跡継ぎを決めておかないと、最悪、家定が先に亡くなってしまう」

急げ!

と、こんなわけで、家定が将軍になった直後から跡継ぎ問題は出ていたのです。

どうせなら家定の父である十二代・徳川家慶がそこまで決めておいてくれればよかったのですが……。

徳川家慶/wikipediaより引用

家慶は黒船来航で幕閣がてんやわんやしているところを、熱中症でぶっ倒れてそのまま亡くなってしまったので仕方がありません。

まだ二十代半ばの阿部正弘を老中にするなど、人を見る目はありました。

もし家慶が早めに「やべえ、このままだとワシが死んだ後に幕府が終わる」ことに気付いていたら、幕末の流れは全く変わっていたでしょうか。

 

本拠・鶴丸城で閲兵していたところ急病で

この状態を、大名たちも見逃しませんでした。

次の将軍の後見に近い立場になればなるほど、自分の家や藩が有利になります。

そこで斉彬は、かねてから親交のある斉昭の息子・一橋慶喜(後の徳川慶喜)を十四代将軍にすべく動き始めます。

徳川慶喜/wikipediaより引用

その一環として、大奥から切り込むために送り込んだのが篤姫である……というのもおそらく大河の通りです。

家慶も一時は慶喜を跡継ぎに考えていたようなので、その辺も影響したかもしれませんね。

一方、直弼らは血筋の近さなどから紀州藩十三代藩主・徳川慶福(よしとみ)を擁立しました。

こちらはこちらで英邁を知られており、推される理由としては充分……というか普通に考えれば徳川慶福(徳川家茂)でスンナリ決まるところで一橋慶喜が強引にねじ込まれたというのが、よりふさわしい説明ともされます。

実際、大奥における徳川斉昭の不人気ぶりや、慶福が家定のいとこである関係などにより、十四代将軍に決まりました。

斉彬らの敗北ということになりますが、これに対して彼は武力で対抗しようとしていた……ともされています。

そのための準備として本拠・鶴丸城(鹿児島城)で閲兵していたところ、急病となりそのまま亡くなるのです。

鶴丸城(鹿児島城)

死因はコレラということになっています。

が、斉彬の息子の多くが夭折している(暗殺の疑いがある)ため、「島津斉興や島津久光(派の家臣たち)による暗殺ではないか?」という説も根強く囁かれております。

肝心の斉彬と久光の兄弟仲はかなり良好でしたので、久光主導の暗殺は考えにくいんですけどね。

 

カメラの趣味で娘を撮影した写真も残る

次の薩摩藩主の座は、斉彬の遺言で、久光の長男・島津忠義が継ぐことになりました。

島津忠義/wikipediaより引用

当初は斉彬の息子・哲丸が成人するまでの予定でしたが、当の哲丸が夭折したため、忠義がそのまま藩主を務めています。

そして忠義は最後の薩摩藩主となったのです。

お由羅騒動の経緯からすると意外かもしれませんが、前述の通り斉彬と久光とは仲が良かったそうで、弟の気持ちも汲んだのでしょうか。

直接、久光を跡継ぎに指名すると影響が大きすぎますし、斉彬と久光は8歳しか変わらないので、年齢的な理由もあるでしょう。

斉彬自身のモットーとして、

「愛憎で人を判断してはならない」

「誰にでも好かれる人物は、非常時に的確に判断できない」

といったものもあります。

幕末の大名であり、幕政にも関わろうとしたことから何となくコワいイメージもありますが、プライベートでは写真を愛するという一面もありました。

斉彬自ら娘を撮った写真もあります。

島津斉彬の娘たち(左から典姫・暐姫・寧姫)/wikipediaより引用

現代のプロの目から見ても割と腕は良いんだとか。

長生きして普通に隠居していたら、もっと多くの写真を撮り、その道でも名を残していたかもしれませんね。

こちらは島津斉彬本人を撮影したもの(1857年)/wikipediaより引用

 

【年表で見る島津斉彬と外国圧力の歴史】

1808年 生誕前 フェートン号事件(外国からの圧力)

1809年 1才 島津斉彬誕生

1811年 3才 ゴローニン事件

1821年 13才 伊能忠敬が『大日本沿海輿地全図』を完成

1823年 15才 シーボルトが鳴滝塾を開く

1825年 17才 無二念打払令(異国船打払令)

1827年 19才 西郷隆盛誕生

1828年 20才 シーボルト事件

1830年 22才 大久保利通誕生

1833年 25才 天保の大飢饉(~39)

1837年 29才 モリソン号事件

1839年 31才 蛮社の獄

1840年 32才 アヘン戦争

1841年 33才 水野忠邦「天保の改革」

1844年 36才 西郷が郡方書役助になる・英仏の艦隊から薩摩属領の琉球に通商要求

1846年 38才 大久保が記録所書役助として働き始める・ビッドル浦賀へ

1848年 40才 調所広郷が自害

1849年 41才 お由羅騒動(~50年)

1851年 43才 斉彬が薩摩藩11代藩主(28代当主)に就任・集成館事業スタート・ジョン 万次郎を保護・太平天国の乱

1853年 45才 ペリー来航

1854年 46才 西郷を江戸に連れていく・洋式帆船「いろは丸」を完成・木綿紡績事業を始める・ペリー再び(日米和親条約)

1855年 47才 安政の大地震

1857年 49才 幕府の阿部正弘亡くなる・篤姫と徳川家定が婚姻・精忠組の活動→島津久光に接近

1858年 50才 島津斉彬、藩兵5,000を率いて上洛準備の最中に急死


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【参考】
国史大辞典
安岡昭男『幕末維新大人名事典』(→amazon
島津斉彬/wikipedia
お由羅騒動/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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