西郷隆盛

キヨッソーネ作による西郷隆盛の肖像画/wikipediaより引用

幕末・維新

西郷隆盛 史実の人物像に迫る! 誕生から西南戦争まで49年の生涯とは

西郷隆盛ほど、評価の難しい人物はいないでしょう。

その生涯は、歴史の授業で習うような【薩長同盟】や【倒幕・維新】だけでは、とても収まりきりません。

若かりし頃は二度も島送りにされたり、入水自殺を試みたり、上級権力者の島津久光と仲違いをしたり……。

その一方で多くの藩士に慕われ、類まれなる政治力で明治維新を遂行しながら、ついには西南戦争で自決するのですから、まさに波乱万丈というほかありません。

しかも、です。

稀代のカリスマでありながら、江戸幕府を倒すまでには独断専行な一面があったり、冷酷苛烈な判断もあったり。

『いったい彼は大人物なのか、それとも何なのか?』

見る人によって、その印象は非常に大きく異なってくるのです。

本稿ではそんな西郷の生涯を、できるだけフィクション作品の要素を削ぎ落とし、史実を忠実に追ってみました。

栄光と破滅に彩られた――維新三傑の一人・西郷隆盛の一生とは?

※西郷の経歴年表は→コチラ

【維新三傑】
西郷隆盛(薩摩)
大久保利通(薩摩)
木戸孝允(長州)

 

西郷隆盛 1827年に生誕

文政10年(1827年)12月7日、鹿児島城下。西郷吉兵衛の長男として、後の西郷隆盛は生まれました。

幼名は小吉。母は椎原権衛門の娘・マサです。

政治活動のため借金の多かった西郷家でしたが、食うに困るほど困窮していたわけではないようで、西郷家は藩内で御小姓組に属していました。

弟の西郷従道も有能な人物としてよく知られておりますね。

西郷隆盛誕生地

薩摩藩は他藩と比較して、際だって武士の割合が多く、26パーセントを占めていました。

薩摩では、戦国の雄・島津家(初代は鎌倉時代島津忠久)以来の武勇を誇り、郷中教育という独自の方針で藩士子弟を鍛えあげていたのです。

幼い西郷は、大久保利通らと同じ郷中で学び、また大山巌ら後進も鍛えました。

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切磋琢磨しあう厳しい教育の中、幼い薩摩藩士は育ちます。

そんな環境のもと、10歳頃の西郷は喧嘩で腕を負傷。大柄な体を活かした相撲は強かったものの、ケガを機に武芸で頭角を現す道を断念するのでした。

彼の人生に変化が訪れたのは18歳のとき。西郷は郡方書役助という役職に就きます。

この頃、薩摩では後に日本全体を揺るがす問題が起っておりました。

イギリス、フランスの軍艦が琉球に来航し、通商を迫り始めたのです。

結果、薩摩の人々は黒船来航よりも早く「このままでは日本が植民地と化してしまう」と危機感をおぼえるようになりました。

なんせ薩摩は、日本の中でも特に、海に面して拓けた国でした。

沖縄からの影響もあり、他の地域ではタブーとされていた獣肉も好んで食していて、西郷は豚骨が好物。

肉食文化のおかげか、西郷始め薩摩の人々は立派な体躯をしている人が多かったようです。

しかし、このころの薩摩藩では、海外からの脅威以外にも藩を揺るがす騒動が起こっていました。

お由羅騒動】(高崎崩れ)です。

 

お由羅騒動

由羅騒動の顛末を簡単に記しておきましょう。

このころ藩主・島津斉興には、跡継ぎを期待される2人の息子がおりました。

海外情勢に通じた世子・島津斉彬と、側室お由羅の方との間に生まれた島津久光です。

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問題が起こったのは久光サイドから。

お由羅が我が子・久光を次の藩主とすべく、斉彬を呪詛したという噂が広がります。

しかもタイミング悪く斉彬の子である虎寿丸が亡くなったため、やはり呪詛は事実であったのか、と斉彬派は激怒します。

斉彬派はお由羅を亡き者にしようとしました。

が、事前に計画は露見。およそ50名が処断されてしまいます。

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嫡子をどちらにするか?という問題は、「悪い側室が暗躍した」という単純なものではありません。

フィクションの影響で悪女のイメージが強いお由羅ですが、実際にそうであったかは疑問が残ります。

呪詛というのも攘夷祈願の祈祷を誤解したためです。

斉彬と久光の兄弟仲も悪くはありませんでした。

斉興が藩主の座をなかなか譲らなかったのも、後継者問題が原因ではありません。

兄弟間での藩主の座をめぐる確執、暗愚な久光を立てるために暗躍するお由羅という像は、あくまでフィクションでの描写ということです。

というのも斉彬は、祖父・重豪に似ていて西洋流の技術導入に熱心でした。このことは薩摩藩を幕末の躍進へと導いた部分はあるものの、負の側面もあるのです。

お金です。

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技術導入には莫大な費用が必要です。

重豪の代に財政が傾いた薩摩藩は、琉球を介入した清との密貿易、「黒糖地獄」とも呼ばれたほど厳しい、奄美大島からの黒糖専売による年貢取り立てといった手段を用いて、やっと黒字に転換できた。そんな苦難がありました。

しかし、藩主が斉彬になったら、また赤字に転落するのではないか。

そう懸念し、久光を推す者がいたのです。他でもない斉興すらそう考えていたのでした。

西郷の父・吉兵衛もまた、この騒動に巻き込まれてしまいます。

彼は斉彬派とみなされ、切腹を命じられた赤山靭負の切腹に立ち会うのです。

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父が持ち帰った靭負の形見である血染めの肩衣を抱きしめ、西郷は号泣。胸の内には、お由羅と久光への激しい憎悪が刻まれたことでしょう。

世間のイメージとは異なり、西郷は人の好き嫌いが激しい性格が見てとれます。

この憎悪は、後の「西郷と久光」の関係に暗い影を落とすこととなるのですが、詳細は後ほど。

ともかくこの同騒動は、久光派だけの責任だけではなく、斉彬派の暴走もまた大きな原因だったのです。呪詛の噂だけで怒り、藩主の側室暗殺計画まで立てたのは、やはりヤリ過ぎ。冷静になってみると逆恨みといえます。

薩摩というのは豪快なイメージのある反面、強すぎる思いが憎悪に転ずるという負の部分も否定できないようです。

こののち、斉彬派は幕府を通じて工作を行い、斉興の隠居と斉彬の藩主就任を獲得するのでした。

 

伊集院須賀との結婚

嘉永5年(1852年)になって、西郷は最初の妻を娶とりました。

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しかし、結婚してから間もなく西郷家では祖父・父さらには母を失ってしまいます。

西郷は家督を継ぎ、さらに騒々しい日々が続きます。

翌1853年、浦賀にペリー艦隊が来航したのです。

黒船以前から海外の武力に危機感を抱いていた斉彬は、幕府から江戸に来るよう要請され、西郷も江戸詰御庭方として同行、江戸に留まりました。

ほどなくして須賀とは離縁。

西郷が江戸で仰せつかった「御庭方」とは、幕府の「御庭番」にならったもので、これが大きな転機となりました。

というのも御庭方の役目は、主の命を受けて諸藩の動向を探るというものだったのです。

西郷が本格的に政治活動を開始するのは、まさにこの役目を拝領した時から。藤田東湖橋本左内らの思想的影響を受けるようになり、また西郷に接した諸藩も、彼の才能に一目置くようになりました。

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西郷は徐々に、斉彬の右腕として存在感を増してゆきます。

御庭方は、身分こそ低いものの、藩主にとっては手足のようなもので、距離が近いのです。

斉彬は、西郷の血気盛んな性格こそ、この混迷を極める政局ではむしろ活躍できる、と考えたのでしょう。西郷も主君の信頼に応えるべく張り切ります。

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縁談は将軍家の方から強く望まれたものであり、斉彬は将軍の岳父として、ますます存在感を増すのでした。

 

将軍継嗣問題

安政4年(1857年)、孝明天皇の強い反対にも関わらず、江戸幕府はアメリカ公使ハリスの条件をのんで「下田条約」、さらには「日米修好通商条約」を締結しました。

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外国勢力に抵抗するためにも、発言力を強める斉彬。その力はついに将軍継嗣問題にも及ぶようになります。

篤姫が嫁いだ家定は、子が生まれぬまま病状が悪化してしまい、次の将軍をどうするか、という問題が浮上したのです。

この将軍継嗣問題が熾烈な争いとなってきます。

薩摩側は徳川斉昭の子である一橋家の慶喜を推し、西郷も朝廷を通して工作を行います。

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が、斉昭自身の不人気さや、薩摩勢力の伸張を苦々しく思う井伊家の反発等があり、交渉は難航。井伊家は、慶喜よりも将軍家に血統の近い紀州藩主・徳川慶福(後の家茂)を推しておりました。

結果、一橋派はこの争いに敗北し、将軍は徳川家茂に決まります。

よほどこの敗北が応えたのか、それとも単なる偶然か。将軍継嗣問題に負けた斉彬は、同年7月、赤痢で急死してしまいます。

西郷にとってこの死はあまりにショックであり、一時は殉死を考えたほどでした。

斉彬の嫡子は、このとき2歳。

次の薩摩藩主は、久光の子・茂久(のちの忠徳)となり、祖父の斉興が後見となります。

その斉興もすぐに亡くなり、実権は、西郷にとっては憎き久光が握りました。

更にこの将軍継嗣問題は薩摩だけでなく、政局全体にも影響を及ぼします。

大老・井伊直弼は、一橋派が密かに幕府と水戸藩にあてて勅書を下していた(戊午の密勅)ことを問題とし、容赦のない弾圧を始めたのです。

世に言う「安政の大獄」の始まり。

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吉田松陰が連座したことから、後の倒幕派を弾圧したように捉えられがちな「安政の大獄」ですが、主目的は一橋派を抑え込むための政治闘争でした。

これが西郷にも影響するのです。

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