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【有田中井手の戦い】
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そして「西の桶狭間」と呼ばれ
この知らせを受けた武田方の大将・武田元繁は激怒します。そりゃそうだ。
有田城を包囲する兵を残し、自ら4,000程を率いて毛利・吉川連合軍を討つため又打川(またうちがわ)までやってきました。
さすがにこの兵力差となると毛利・吉川連合軍は苦戦。
元就の叱咤激励によって何とか踏みとどまっています。
先に焦れたのは武田元繁でした。自ら先頭に立って又打川を渡ろうとしたのです。
「同じような状況で熊谷元直がやられたばかりなのに、なぜ前に出てきた!」
そうツッコミたくなるかもしれませんが、おそらく怒りと焦りで我を忘れていたのでしょう。
元繁の家臣にそれを止めてくれる人がいなかった、あるいは彼自身が耳を貸さなかったのかもしれませんが、ともかく一瞬の判断ミスが命取りになるのが戦場。
再び訪れた好機を、毛利方は見逃しませんでした。
毛利軍は一斉に弓を放ちます。
すると、元繁は矢を受けて落馬し、討死。
総大将が討死して、当然、武田軍は総崩れとなり、撤退していきました。
ちなみに、この後、弔い合戦に来た武田方の武将たちもやられており、「頭に血が上ったままでは戦には勝てない」というのがよくわかる典型例となってしまいます。
この戦は圧倒的に小勢だった毛利元就が多勢の武田軍を打ち破ったことから、「西の桶狭間」とも呼ばれるようになりました。
桶狭間の戦いの実態については、近年「奇襲かそうでないか」という研究が取り沙汰されており、
「悪天候もあって織田軍は今川本陣の位置を把握しておらず、義元を討ち取れたのは偶然だった」
とする見方もあります。
これに対し、有田中井手の戦いでは敵の大将格が自ら出てきてくれているので、少々異なるかもしれません。
桶狭間当日は雹が降ったという説もあるほど悪天候だったのに対し、有田中井手では武田方が渡河を試みていることからして、おそらく天候は大きく左右しなかったのでしょう。
となると、旗指物などの位置から大将格の位置をあらかじめ掴むこともできたのではないでしょうか。
なにはともあれ、この勝利によって、仮の総大将に過ぎなかった毛利元就が周囲の諸勢力から注目を集めることになります
在京中の大内義興のもとにもその評判が届き、元就は感状を受けたとか。
その後の熊谷氏と毛利氏
この戦の結果は、後の毛利氏と熊谷氏との関係にも影響します。
有田中井手の戦いで毛利方に討たれた元直の子・熊谷信直は武田氏と決別し、天文二年(1532年)から毛利氏につきました。
そしてその後、信直の娘が吉川元春(元就の次男)に嫁ぐなどして毛利氏との関係を強め、宍戸氏と共に毛利氏の有力な武将となったのです。
この件は「元就の次男が不美人として有名な娘を娶った」として知られていますね。
当時は不思議がられたそうですが、元春には
・家の軍略のため
・悪い評判が立った娘を自らもらうことで信直の信頼を取り付ける
といった狙いがあってのことでしょう。
二人の間には多くの子供が生まれ、結婚後は仲睦まじく過ごしていたようなので、きっかけはどうあれ丸く収まって何よりでした。
元就いわく「元春の嫁は男みたいな手紙を書く」らしいので、武家の妻としてふさわしい女性だったのでしょうしね。
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長月 七紀・記
【参考】
河合正治『毛利元就のすべて 新装版』(→amazon)
『「毛利一族」のすべて 別冊歴史読本-一族シリーズ』(→amazon)
森本繁『<毛利元就と戦国時代>知将・元就 版図拡大の軌跡を追う (歴史群像デジタルアーカイブス)』(→amazon)