川中島の戦い

武田・上杉家

第四次川中島の戦い(信玄vs謙信)一騎打ちなくとも超激戦になったのはなぜ?

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武田流築城術で重要な縄張り「丸馬出」

さて海津城の構造ですが、武田流築城術で重要な縄張りの一つ「丸馬出(まるうまだし)」の存在が確認されています。

丸馬出とは、前面で防衛しつつ両脇から攻撃も繰り出せるという、敵の優勢な攻撃が予想される地点に配置するには持ってこいの防御施設です。

信玄の城マネジメント能力は凄いゾ!あくまで「城は城 石垣は石垣」です

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しかし、海津城はもっと大きな規模で見なくては城の本質を、そして諸説ありまくりな第四次川中島の戦いの行方さえも見誤ってしまいます。

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松前城の想像図。千曲川を背にした向きは海津城時代と同じです。手前に丸馬出の名残り「三日月堀(みかづきぼり)」が見えます

海津城築城当時は千曲川を天然の水堀として川に沿って築城しました。

ゆえに海津城の大手門は千曲川の反対側、川中島の平野に対して背を向けて築城されています。

後の松代城でも同じです。

つまり川中島方面に軍勢を出撃させるには城の脇をくるっと旋回させ、数カ所ある千曲川の渡しを通過して川中島に出ることになります。

これは新府城の丸馬出です。前面の三日月堀は廃墟になっても残っています

これは新府城の丸馬出です。前面の三日月堀は廃墟になっても残っています

勘のいい城マニアならもうお気づきでしょう。

そうです、海津城そのものが「馬出」の構造なのです。

山に囲まれた松代の町を一つの巨大な城塞と考えると海津城は一つの曲輪「馬出」でしかないのです。

真偽が未だ定まらない『甲陽軍鑑』において山本勘助が「馬出」について力説する場面があります。

海津城を設計したのは山本勘助とも言われていますが、これも諸説あります。

海津城は「香坂城」を改修しただけという説もあります。

いずれにせよ山本勘助が海津城という巨大な馬出しの考案に関わったことは間違いないでしょう。

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上杉の想定侵攻ルート(紫線)に対する海津城の支城ネットワーク(赤線)と後詰めルート(青線)/©2015Google,ZENRIN

 

海津城を本城とし、大堀館や横田城など複数の支城が防衛戦戦を支える

次に軍事戦略の観点から海津城を見てみましょう。

この海津城を本城として武田信玄は境目の城を支城としてそのネットワークに取り込みます。

川中島のはるか北東、千曲川西岸の長沼城を突出した最前線の橋頭堡として活用。

この長沼城は第三次川中島の戦いにも出てきましたが、千曲川の渡しを管理している城で、ここを通って野尻湖方面に向かうともうそこは越後です。

また飯山城方面への押さえとしても機能しました。

一方、依然として国境線である犀川の南部、川中島一帯には【第二次川中島の戦い】で信玄の本陣となった「大堀館」や「広田城」「横田城」という陣所レベルの小規模な城があります。

これらが犀川の最前線として、また塩崎城や南方の真田本城方面は後詰めのルートとして、海津城を取り囲むように機能していました。

このように信玄は犀川方面では北国街道を川中島の支城で押さえ、北国脇街道は長沼城から雨飾城にかけて複数の城で押さえます。

これらの本城、大規模な支援基地として海津城を新たに加えたのです。

 

桶狭間で今が義元が討たれ翌年、謙信が関東管領に

「海津城ができれば、ようやく両軍激突ですね! さっさとお願いしますよ!」

と進む前に、我々はこの戦いの直前に起こった戦国時代の2つのビッグイベントを知っておかなければなりません。

1つは永禄3年(1560年)5月の【桶狭間の戦い】。

武田信玄の盟友・今川義元織田信長に討たれました。

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そしてもう1つが西暦永禄4年(1561年)閏3月、上杉謙信の関東管領就任です。

第四次川中島の戦いはその後の永禄4年(1561年)9月に起こります。

何が言いたいのか?

と申しますと、武田・上杉両雄の関心は、すでに北信濃にはなかったということです……って、えええっ!

武田信玄の信濃戦略は、三国同盟によって南の駿河と東の関東地方を安全圏にして北上していきました。

ところが今川義元が討たれたことにより、今川家とその領国である駿河、遠江、三河の3カ国が不安定になってしまいます。

他人様の家の不安定が何より大好き!

それをエサに北信濃を調略しまくった我らが信玄公が、駿遠三(静岡~愛知)の動揺に無関心でいられるはずがありません。

「これはイケる!」と判断したのは間違いないでしょう。

もちろん、その後、今川家から独立した松平元康(家康)が尾張の織田信長と同盟を結んだ事実もつかんでいます。

これは三河の松平が西側の尾張ではなく、反転して「(東側の)遠江を狙狙っちゃうよ!」と宣言しているようなものです。

 

北信濃での存在感は「目的」から「手段」に変遷していった

このボーナスステージに乗り遅れてたまるかと考えるのが我らが信玄公です。

「俺様って実は寒いのニガテなのよ」と言ったかどうかは分かりませんが、この時期に武田家の積極侵攻策を北から南に方針転換をしたのは間違いありません。

つまりもうこれ以上、越後を目指して北進する理由もなければ野望もなくなったのです。

今回の海津城を中心とした支城ネットワークをもう一度ご覧ください。

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上杉の想定侵攻ルート(紫線)に対する海津城の支城ネットワーク(赤線)と後詰めルート(青線)/©2015Google,ZENRIN

長沼城を突出させて越後方面の橋頭堡にしていますが、これはむしろ千曲川渡河の管理に重きを置いていて、いざというとき籠城戦が可能な山城でもありません。

第二次川中島の戦いで旭山城を奪取したように、敵地のいやらしいところに橋頭堡を築く「攻めの姿勢」は見せておらず、今回の信玄は完全に守りに入っているのです。

一方、上杉謙信にも転機が訪れます。

北条氏康に追われ、かねてより越後で庇護していた上杉憲政から関東管領の職を譲り受けます。

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これはイコール関東の統治を足利幕府によって許された、すなわち「直ちに関東を平定せよ。YOU、北条を討っちゃいなYO!」ということでもあります。

上杉謙信も既に関心は関東平野へと傾いていたのです。

このような状況で北信濃の戦略変更は両雄にとって必然でした。

善光寺平への関心は、敵を排除して支配下に置くという当初の「目的」から、主戦略の目的(武田=駿河/上杉=関東)を早期に達成するための「手段」の一つ。すなわちお互いに「自陣の後背地を固める」戦略に変わっていきます。

信玄は侵入者を排除してこの地域に武田家の政治的安定をもたらすこと。

そして謙信は相手に手痛い一撃を与えて越後侵入の代償が高くつくことを思い知らせることです。

 

第四次川中島の戦いは割ヶ嶽城での攻城戦から

上杉謙信は幕府から関東管領の内示をもらい、上杉憲政を担いで関東に出兵して行きます。

北条氏康配下の関東諸城を攻略しつつ、関東の国人衆が次々と謙信の下へ加わり、軍勢は10万まで膨らんだと言われています。しまいには相模まで侵入して小田原城を包囲。もう完全に祭り状態です。

最大の目的は鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領就任の儀式だったようですが、北条氏康もたまらず、今川家と武田家に加勢を求めます。

さすがの武田信玄も謙信の大軍勢に焦りを覚えたか、上野国方面(群馬県)に兵を出して北条氏康に加勢、同時に川中島から越後の春日山城方面へ伺う動きを見せて遠征先で祭り状態の上杉謙信に揺さぶりを掛けました。

前年の今川義元に続き、ここで北条氏康までも亡き者になってしまっては信玄の戦略は根本的に崩れてしまいます。

守りに入りかけた信玄は謙信を関東より撤退させるため、全力で越後国境を脅かす動きを見せます。

それが割ケ嶽城(わりがだけじょう)の攻城です。

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割ケ嶽城は野尻湖方面と飯山城方面を結ぶ要衝に位置する山城です。この割ケ嶽城を奪われると飯山城が孤立するばかりか、野尻湖方面から一直線に春日山城まで侵攻できます/©2015Google,ZENRIN

この割ケ嶽城を武田方が陥落させます。詳しい記録は残っていませんが、そこまでして欲しかったかというほどの激戦だったようです。

これで今回も越後国中に警戒警報が鳴り響きます。

上杉謙信は関心が関東に行ってしまったとはいえ、前回果たせなかった武田信玄との決戦の必要性を感じざるを得なかったでしょう。祭り状態から覚めた謙信は越後に戻り、川中島での戦の準備に取り掛かります。

最近では上杉謙信の妻女山布陣や啄木鳥の戦法、武田信玄の茶臼山布陣や一騎打ちなどが否定され、予期しなかった遭遇戦だったとも言われて、もう何を頼りにしていいのか分からないのが第四次川中島の戦いを取り巻く現状です。

私の妄想も振り回されっぱなしです。

ただ武田家の副将ともいうべき武田信繁や重臣の諸角豊後守など。

これまでにない譜代クラスの武将が戦死しているのは事実で、両軍の激戦があったことだけは間違いないでしょう。

まとめるのに非常に困るのですが、ここは城を中心に考察していきましょう。

城取り合戦はそのまま領土の奪い合いに直結しますので、攻城戦のセオリーから追ってみると、武田・上杉両軍の狙いもかなり見えてきます。

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