脇坂安治/wikipediaより引用

豊臣家

明智→豊臣→徳川と渡り歩いた脇坂安治は賤ヶ岳七本槍で唯一の生き残り

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大阪人が京都へ遊びに行く時、よく利用するのが京阪電車。
淀屋橋から出町柳まで特急が走っています。

銀閣寺、祇園、八坂神社、清水寺、さらには比叡山など京都の主要観光地には大変便利な鉄道なので観光客でいつも賑わっていて、途中、宇治川を渡ると、そこでこの特急が停車します。

駅名は中書島。

ナカショジマ???
いえいえ、「ちゅうしょじま」です。

中書島駅/photo by L26 wikipediaより引用

なんとも珍しい名前で、由来は400年前の戦国末期にさかのぼります。

安土桃山時代の後半。
伏見城周辺に豊臣政権下の諸将が住居を構え、脇坂安治が住んだ屋敷が宇治川の島のような中州にありました。

このとき安治の役職は中務少輔(今で言う文部科学大臣ぐらい)でした。
中国名では同役職を【中書】と呼んだことから「脇坂中書さま」という別名が付き、屋敷の一帯を中書島ちゅうしょじまと呼ぶようになったのです。

脇坂安治(通称「脇坂陣内」)は【賤ヶ岳の七本槍】メンバーの一人でもあります。
そして七本槍の中で脇坂家は唯一、大名として明治維新まで繁栄しました。

【賤ヶ岳の七本槍】
加藤清正(1562-1611年)
福島正則(1561-1624年)
片桐且元(1556-1615年)
加藤嘉明(1563-1631年)
脇坂安治(1554-1626年)
平野長泰(1559-1628年)
糟屋武則(1562-不明)

そんな脇坂安治とはどんな武将だったか?
変遷をまとめてみましょう。

 

脇坂安治は藤原家の出自?

脇坂安治は1554年生まれで、父は田付たつけ孫左衛門。
母は、田付景治かげはるの妹で、母の再婚に伴い脇坂家の跡継ぎとなりました。

脇坂家は近江(滋賀県)の脇坂を本拠とした一族で、安治の義父となった脇坂安明のときに、姓を藤原から土地名の脇坂に変えたとも言われております。

滋賀県長浜市にある脇坂安治屋敷跡(脇坂安治生誕地)/photo by 立花左近 wikipediaより引用

脇坂安明は、地元の浅井氏に仕え、織田信長による観音寺城攻めで戦死したとされ、以降、安治は織田家に仕えて明智光秀の与力となり、丹波攻略で活躍。

中でも1569年【黒井城の戦い】では初陣にして、赤井直正から「てんの皮の槍鞘(あるいは旗指物)」を貰ったという逸話が知られております。

赤井直正は「悪右衛門」という仮名けみょうや「丹波の赤鬼」という渾名で、現代でも戦国ファンには有名な勇将ですね。

そして、その後が運命の分かれ道となりました。

明智光秀から羽柴秀吉の配下になり、武功を重ねていくのです。
そうでなければ本能寺の変で非業な運命を迎えていた可能性もありましょう。

賤ヶ岳の戦いではめざましい活躍をして標題の七本槍の一人として全国的な有名人となったわけです。

この時、秀吉から山城(京都)に3千石を拝領。
さらに小牧・長久手の陣では、伊勢・伊賀方面で滝川一益勢と戦い、伊賀上野城(三重県伊賀市)を攻略、戦功を挙げて洲本(淡路島)3万石を拝領しております。

この洲本以降、安治は水軍を指揮する将として戦に出ております。

水軍の同僚には、信長にも重用されたことで知られる九鬼嘉隆や、四国の王者・長宗我部元親、賤ヶ岳七本槍の一人・加藤嘉明などもおり、例えば九州征伐での脇坂安治は大友宗麟に兵糧を届け、小田原征伐では海上から伊豆下田城を攻め落とすという手柄を挙げています。

文禄慶長の朝鮮の役では主に水軍として活躍し、幾度もの大きな海戦を経験しました。

日本よりも韓国の歴史ドラマで、この時の脇坂安治が大きくとりあげられております。
韓流ファにンはご存知かもしれませんね。

 

秀吉の死後に家康につく選択 関ヶ原の裏切りも最初から

かように織田→豊臣政権の下で順調に出世した脇坂安治。

秀吉死後はどうなったか?
というと、答えは「豊臣を見限って徳川についた」です。

これが第1の岐路でした。なお、関ヶ原で西軍についた他の七本槍の二人はここでお家断絶となっております。

家康の会津征伐では息子安元を参陣させようとして、石田三成らに妨害されます。
関ヶ原では西軍で小早川秀秋の裏切りをおさえる位置にいたのですが、かねてからの手筈どおり東軍に味方しました。

戦後は当初からの味方として所領安堵となっています。

その後1609年に大洲(愛媛県大洲市)5万3千石を拝領。1615年の大坂の陣では息子安元が参戦しました。
前線で豊臣方と戦った記録があり、安治(陣内)はその年家督を安元に譲ると、京に移り住み、1626年に没しております。

 

子がいない=断絶? 逆手にとって生き延びる

脇坂家は徳川政権ではもちろん外様大名でした。

息子の安元は他の外様大名の消長を見て不安を覚えたのでしょうか。
自分に子がないことを逆に利用し、当時、老中でもあった徳川譜代大名の名門・堀田氏から養子を苦心してもらい受けます。

これが第2の岐路となりました。

他の賤ヶ岳七本槍でも、関ヶ原において東軍につき、以降徳川政権で領地を拡大した将も複数おりましたが、時代が進むにつれて、江戸幕府からなんだかんだと難くせをつけられ結局は領地没収、改易となっています。

脇坂家は以降、大洲→飯田(長野県)→龍野(兵庫県たつの市)と本拠をかえながら「願い譜代」(準譜代)大名(のちには正式な譜代大名)として明治維新まで続いたのです。

脇坂安政が再建した龍野城/photo by 663highland wikipediaより引用

以下余談を二つほど。

江戸時代有名な参勤交代では、脇坂家が目立っていたそうです。
足軽が持つ槍の鞘には、あの貂の皮がかぶせてあったそうで、庶民の間ではすぐに『あぁ、脇坂家だな』と噂していたとか。司馬遼太郎短編集でユーモラスに記述されております。

さらに、江戸時代元禄期の【赤穂浪士事件】に先立つ赤穂城の接収は、隣接する龍野藩の重要任務となりました。

藩主・脇坂安照の代のこと。
4,500の大軍で事に当たったという記録が残っています。

忠臣蔵の前篇で登場しますので、作品にふれる機会がありましたら『あぁ、彼らは脇坂家の……』とご注目ください。

touaka神戸・記

【参考】
国史大辞典
『戦国武将合戦事典』(→amazon link
『戦国人名辞典』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
脇坂安治/wikipedia

 



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