西南珍聞 俗称西郷星之図/wikipediaより引用

幕末・維新

西南戦争が起きた本当の理由を深掘り!「視察」が「刺殺」の真相は?

比較的近い時代ゆえに多くの記録が残されていながら、今なお【評価が難しい偉人】とされる西郷隆盛

その最大の要因は、最終的に西南戦争へと突き進んでいったことが挙げられるでしょう。

なぜ西郷らはクーデターを実行したのか――。

そう問われたら、

「クーデターも何も、最初に西郷を亡き者にしようとしたのは明治政府ではないか」

という答えが返ってくるケースが多々あります。

要は「西郷が命を狙われたことが西南戦争の直接的な蜂起のキッカケになった」というものですが、それはあくまで【キッカケ】に過ぎないでしょう。

しかもそのキッカケですら、最近の研究では「間違いでは?」という観測も出ています。

ではなぜ西郷軍は蜂起したのか?

明治政府の成り立ちから、今一度、真の理由を深掘りしてみたいと思います。

 

明治維新は「呉越同舟」だった

西南戦争に至るまで、チーム明治政府は一致団結していたか?

というと答えはNO。

あくまで呉越同舟、百家争鳴の中身はバラバラの集団であり、薩長土肥を中心として一丸になって突き進んだ――というのは誤解です。

なにせ倒幕一つとっても、彼らの意見は分かれておりました。

・武力倒幕派

・武力によらない政権移行派

言わば真逆のスタンスであり、薩摩の藩内ですら是非を巡って揉めているような状態だったんですね。

武力倒幕をよしとしない者たちの流血も経て、戊辰戦争へと突き進んだ一面があります。

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倒幕を経て明治政府が成立してからも、意見は分かれました。

藩閥による意見の相違に加え、思想的な違いも浮き彫りになるのです。

・東洋的な道徳を重視する派

・ともかく東洋的な思想は捨てて、西欧を礼賛する派

この対立は、岩倉使節団派遣において表面化します。

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こうした思想的対立は、なにも明治維新後に突然始まったワケではなく、既に幕末期にも登場しておりました。

例えば東洋的な儒教をベースとした統治を目指した人物に横井小楠がおります。

知名度はイマイチながら、当時、各方面からその才能を見込まれていた人物です。

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富国か? 強兵か?

明治政府の掲げたスローガンと言えば?

「富国強兵」ですね。誰もが日本史で習った記憶がおありでしょう。

【富国】国を豊かにして、貿易や工業化で経済的に進出

【強兵】軍隊を強力にし、武力でアジアを領土とする

こうして並べてみると、あたかもセットのような言葉。

いかにも明治政府が一致団結している印象であり、この二つの路線は一見したところ【あざなえる縄のごとし】でありますが、実は対立関係にありました。

まず【富国路線】は幕末の頃に源流をたどることが出来ます。

岩瀬忠震はまさにこの路線です。

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島津斉彬集成館事業も、海外への輸出を意識したものでした。

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一方で吉田松陰は【強兵路線】です。

アジアを領土とすることを、はっきりと目指しております。

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それでは吉田松陰の弟子にあたる長州閥が【強兵路線】で、島津斉彬を慕う薩摩閥が【富国路線】なのか?

というと、コトはそう単純でもありません。

確かに薩摩出身の五代友厚は、いかにも【富国路線】の代表者といった趣があります。

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長州閥が【強兵路線】かというと、これもそう単純なことではありません。

むしろ、木戸孝允らは【立憲制路線】、つまりは憲法制定を急務として来ました。第三の道というわけです。

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実際、木戸の死後、長州閥の伊藤博文山県有朋井上馨らも、憲法制定に尽力することとなりました。

このように、明治政府というのは、藩閥どころか大物政治家の数だけ理論があるような、複雑怪奇の様相を呈しているのです。

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そして西郷隆盛の場合、これが複雑な方向へ向かいます。

彼個人の背負った心身不調と【強兵路線】が不幸にも合致してしまったのです。

西郷は考えました。

【強兵路線】を貫き、アジアに勢力を伸ばせば、心身不調をも吹き飛ばすような一発逆転が出来るのではないか?

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しかしその路線は、大久保利通には到底受け入れられませんでした。

大久保が目指すのは【富国路線】であり、偏った軍事路線に舵を切る気はありません。

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大久保だけではありません。

心身不調のせいで強引な主張を繰り返す西郷は、政府内でも危険視され、孤立してゆくのです。

結果、鹿児島へ下野。

東京を去り、故郷で私学校を作った西郷は、大久保への強い不満を募らせてゆきます。周囲が驚くほど激しい口調で、大久保を罵倒していたという記録もあるほどです。

ここで考えねばならない点があります。

大久保は、そこまで酷い人物だったのか?

西郷は、思い込みが激しい性格です。主君筋にあたる島津久光への「地ゴロ」という罵倒は、そうした性格の一端を示すものでしょう。

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しかも、この頃の西郷は心身が不調でした。

周囲が不穏であると感じてしまうほど、激しい言動を残しているのです。

その姿は、現在、一般的にイメージされる大人物とは異なるもの。

そしてこのギャップこそが、西郷像ひいては西南戦争へ向かう道のりを複雑なものとせしめているのです。

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