会津戦争後に撮影された若松城

会津戦争(会津と長州)/wikipediaより引用

幕末・維新

なぜ会津は長州を憎んだのか~会津戦争に敗れた若松城と藩士達が見た地獄とは?

2024/09/20

戊辰戦争における局地戦の一つ・会津戦争。

絶対的に不利な状況の中、籠城を続けてきた鶴ヶ城(会津若松城)で、会津藩主の松平容保(かたもり)が新政府軍に降伏しました。

慶応四年(明治元年・1868年)9月22日のことです。

「会津と長州が不仲になった原因」と囁かれたりもしますが、2017年に発表された新史料により従来の定説が変わりそうな流れでもあります。

本稿・後半部にその記述も盛り込んでおりますので、最後までご覧いただければ幸いです。

🚢 幕末・維新|黒船来航から戊辰戦争まで 激動の時代を人物・事件でわかりやすく解説

 

保科正之の「会津家訓十五箇条」に絶対服従

会津戦争は大河ドラマ『八重の桜』や白虎隊の各作品で何度も取り上げられており、大筋をご存知の方も多いかもしれません。

そして会津藩主・松平容保といえば、

「最後まで将軍家への忠義を通した人物」

というイメージでしょうか。

容保は初代藩主の保科正之が定めた【会津家訓十五箇条】の一つ目に徹底的に従ったとされています。

超訳するとこんな感じでしょうか。

「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず。面々決して従うべからず」

【超訳】ウチは将軍家にでっけえ恩があるんだから、どこのどいつが裏切ってもウチだけは将軍家に忠実でいなくちゃいけねえ! 従わないようなヤツはオレの子孫じゃねーし、そんな主には家臣たちも従わなくていいからな!

そんな昔の人に「オレの子孫じゃねえ」とか言われても……というのは現代の感覚。

この時代、儒教などの影響で「ご先祖様が第一」な風潮がありましたので、従わなくてはなりませんでした。

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まして、容保はよそから養子に入った人です。

「郷に入っては郷に従え」とならざるを得ません。

そうしなかったせいでお家騒動になった藩もちらほらありますし。

 


会津戦争の死者は埋葬するな

それにしても、従来の定説では、会津戦争降伏後の新政府軍はヒドイものでした。

「会津戦争の死者は埋葬するな!」という命令を出したというものです。

これは会津軍・新政府軍問わずだったようですが、野ざらしになった遺体は鳥や獣によって無残な姿に……。

請願書が多く寄せられたため、後に埋葬の許可が出るのですが、その理由は「疫病の原因になりかねない」というにべもないもの。

しかも藩士たちにはやらせなかった上、きちんとしたお墓を作るのではなく、罪人塚という形で誰も彼も一緒にされてしまいました。

この状況を見るに見かねた伴百悦(ばんひゃくえつ)という会津藩士が、自ら身分をやつして遺体の埋葬に当たったといいます。

彼が関わっただけでも、会津軍・新政府軍を合わせて1600人を超える遺体があったそうで。

恐らく見せしめや苦戦の鬱憤晴らしなのでしょうが、八つ当たりも甚だしいというかなんというか。

しかし、こうした定説を覆すような史料が出たとされるのが2017年のことです。

 

新政府は埋葬を命じていた?

以前、旧長州の山口県萩市の市長が

「もう120年経ったので、仲良くしませんか?」

と誘った際、会津若松市の市長が

「まだ120年しか経ってないので」

と断ったなんて話があります。

たしかに遺体埋葬問題について考えたら、長州藩の人が全員そうではなかったにしても、割り切れないものがありますよね。

最近では震災の復興支援や白虎隊士への献花などで、だいぶ進展しているようですが。

やられた相手が許すには、想像を絶する時間が必要なようで……と思われていたところ、2017年に新たな史料が見つかりました。

戦闘終了から間もない10月2日に、

「新政府のほうから会津戦争の戦死者を埋葬するよう命じていた」

という内容です。(→link)

◆<戊辰戦争>戦死の会津藩士「半年間野ざらし」定説覆る 「降伏直後埋葬」示す新史料(現在はリンク切れ

一部引用させていただきます。

戊辰戦争(1868年)で戦死した会津藩士の遺体が会津藩降伏直後に埋葬されたことを示す史料が見つかったと、会津若松市史研究会副会長の野口信一さん(68)が2日、発表した。

遺体は新政府軍が埋葬を禁じ、半年間野ざらしにされたと伝えられてきた。(河北新報より引用)

こうなりますと、会津側の恨みも勘違いから生まれているわけで、これまでの定説を聞いてきた世代からすると、複雑な心境でありましょう。

ただ、全ての遺恨が一気に解決されるような内容でもなさそうです。

 

孝明天皇に支持されたのは会津藩

河北新報さんの記事によると「567人を64カ所に埋葬した」という記述だそうです。

しかし、これだと伴百悦の話とあまりにも数が違いすぎています。

会津戦争での会津側の死者は3000人ほどと考えられていますので、そこと比較しても少なすぎますね。合計しても数が足りません。

「記録があるから全てが正しい」ともいい切れませんし、記事に書かれていない部分にもまだまだ多くの記述があるでしょう。

敗戦側が味わう屈辱や実害は、勝者には理解できないものでもあります。

もちろん、現段階での史料から、会津側の感情が和らいでいくことが望ましいのは間違いありません。

当事者の子孫の方々にとって、前向きになれるきっかけが見つかったのは喜ばしいことですから……と思ったら、本サイト執筆者の小檜山さんが、キッチリと記事にまとめてくれておりました。

遺体埋葬問題についての詳細は、以下の記事をご覧ください。

会津戦争の遺体埋葬論争
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ただし、問題は会津戦争での遺体埋葬だけに留まらないものもあります。

遡れば、孝明天皇の信頼を得て活動していた会津藩に対し、紆余曲折を経て朝敵となった長州藩という構図があり、その後の戊辰戦争(会津戦争)で長州藩が会津藩を徹底的に潰す方向へ誘導した経緯もあるわけです。

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さらには戦後、元会津藩士たちは領地替えで【斗南藩】への移住や、あるいは北海道開拓事業への従事を余儀なくされ、そこで多数の餓死者が出るほどの困窮を苦しみを強いられたりもしています。

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会津と長州の話になりますと【会津戦争】ばかりがクローズアップされがちですが、現在ではあまり注目されない歴史があったことも忘れてはならない気もします。

双方の理解を得てこそ、過去の遺恨は薄らいでいくのではないでしょうか。

なお、現在会津エリアにお住まいの方より「長州に対して何も恨みなどない」という声も多々寄せられますが、あくまで歴史的経緯からの話であり、対立感情を促すものではないことをご理解いただければと存じます。

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【参考】
国史大辞典「東北戦争」
会津戦争/Wikipedia
伴百悦/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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