昭和4年(1929年)8月16日は津田梅子が亡くなった日です。
新紙幣五千円札の顔となったことでその事績に触れる機会も増えているでしょうか。
アメリカ留学後、津田塾大学を創設して、日本の女子教育に生涯を捧げた方であります。
しかし、それがどれだけ困難なことだったか……口で言うは容易く、彼女が直面した苦しい実態を知ることはあまりありません。
わずか6才で渡米した津田梅子――彼女は帰国後、如何にして女子教育を推進したのか?
男尊女卑の激しい日本社会において、その生き様は、戦国武将や幕末の志士にも負けないハートを彷彿とさせるものでした。

明治23年(1890年)ブリンマー大学在学時の津田梅子/wikipediaより引用
蘭学熱の佐倉藩に生まれた父・津田仙
天保8年(1837年)、下総国佐倉藩士の家に津田梅子の父・津田仙が生まれました。
娘の運命をも決定づけた父。
彼が生まれる4年前より、佐倉藩は堀田正睦による藩政改革が真っ只中であり、正睦は「蘭癖」(オランダかぶれ)と呼ばれるほど、西洋に関心がありました。もちろん優秀な人物でもありました。
そんな藩主のもと「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれるほど蘭学は盛んになり、小柄なれど頭脳明晰な仙は、西洋砲術にバツグンの適性を見せます。

津田仙/wikipediaより引用
当時は、黒船来航も重なり、仙の西洋への関心も高まるばかり。
結果、勝海舟や福沢諭吉らと同じルートを辿り、学びの対象をオランダ語から英語へ、方針転換します。
英語のできる通詞育成に励んでいた幕府からすれば、仙はまさにうってつけです。世襲の通詞ではなく、才知さえあれば幕臣にまでなれました。
慶応3年(1867年)には、小野友五郎の随員として渡米をも果たすほど。アメリカで農業と民主主義を学び、髷を切り落として妻に送ったのでした。
これからは西洋に学ぶ時代――仙はそう張り切る幕臣でした。
一人目は女児 二人目……も女児
さて、そんな仙に子が生まれました。
文久2年(1862年)、一人目は女児。琴子と名付けられました。
そして文久4年(1864年)、二人目も女児。
「また女か!」
幕末という激動の情勢下。男児誕生を待ち望んでいた仙は、失望のあまり、なんと家出をします。
お七夜になっても名付けようとしないため、見かねた母・初子が盆栽をヒントに名付けます。
「むめ(梅)」。
12月生まれなのに、2月の花である梅とは……いささか季節外れではあります。のちに改名して梅子となりますので、以降、本稿は梅子で統一します。
僭越ながら、この名前は後の彼女の運命を考えればピッタリな表現ではないでしょうか。
新たな時代を告げる花――梅という名は、本人も誇りに思っていたと言います。
さて、なんとも情緒不安定な父・仙は、アメリカでの滞在で己の考えが180度変わりました。
訪問先では、日本ではとてもお目にかかれないような強い女性たちを見てきたのでしょう。
これからは、女も活躍せねばならん!
そうして津田梅子の教育にも取り組むようになったのです。
さらに仙は、その英語力と農業知識を明治においても示すようになりました。
西洋の農業を学んだ津田仙は近代化を担う人材
薩長土肥を中心とした新体制は、割と危ういものでした。
倒幕には才知を見せたものの、そこで燃え尽き気味……ストレスを溜めて暴発しそうになり、実際に弾けた西郷隆盛がその典型例と言えるでしょう。

西郷隆盛byキヨッソーネ/wikipediaより引用
なにせ、彼らは武士です。
「財政は商人のだろう」と思ったのか、由利公正に押し付けるか。長州閥と親しい渋沢栄一にやらせる。
ましてや農業なんて「百姓じゃあるまいし」とタカをくくっていたわけです。
そんな中で、西洋で農業を学んだ仙は、新政府からみても垂涎ものの人材でした。
イチゴやリンゴといった西洋からの作物栽培は、彼がパイオニアといってよいものです。
こうした知識を活かし、『農業三事』という書籍も出版しています。
仙は築地ホテル館勤務を一年ほど務めたあと、北海道開拓使にも招かれ、新政府中枢とも交流することとなるのでした。
幕臣である津田仙が農業に詳しいことは、当時の幕府の方が明治新政府よりも優れた近代化プランがあったことを示しており、興味深いところです。
実はこの築地ホテル館こそ、全速力で近代化を勧めていた小栗忠順の置き土産ともいえるものでした。
惜しくも明治5年(1872年)に焼失してしまうとはいえ、そのために残された知識が活かされたといえます。津田仙は2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』に登場するかもしれませんね。
仙の野望は、ここで終わりません。
外国人も出席するパーティで、女子留学生の話を聞いたのでした。
この留学生は、岩倉使節団についていくこととなります。
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岩倉使節団(左から木戸孝允・山口尚芳・岩倉具視・伊藤博文・大久保利通)/wikipediaより引用
これだ!
我が娘を留学させよう!
仙は即座にそう思いました。
のちに津田梅子の親友となる山川捨松(のちの大山捨松)の場合、口減らしという事情が背景にありました。
梅子の場合はちょっと違うんですね。理由が割と前向きと申しましょうか。
しかも、姉の琴子が嫌がったため、津田梅子とされたようです。
女子留学生仲間の間でも、とびきりの最年少だったのは、そうした背景があったからなのでした。
もうひとつ、なぜ女子留学生は幕臣や佐幕藩家庭出身者だけなのか?
これが男子であると、薩長土肥出身者ばかりになります。会津出身の山川健次郎はあくまで少数の例外です。
勝ち組である薩長土肥としては、留学させてもどうなるかわからない女子はやりたくなかったのでしょう。
明治維新の結果、日本における女子の地位は低下した要素も大きくあります。フランス革命のあと、強烈な男尊女卑思想を持つナポレオンによって、第一帝政期に女性の地位が低下したことと似た現象といえます。
薩長土肥のうち、薩摩は日本でも最悪の男尊女卑傾向のある風土であり、このことが悪影響を及ぼしたことは確かでしょう。
夫婦同姓制度。女性天皇や女系天皇の廃止。
江戸時代までは女性の師匠や商人もいたのに、明治時代は女性が契約をすることすら制限されるようになったのです。
津田梅子の人生は、そんな時代の中にありました。
ベイビーをどうしろっていうんだ!
明治4年11月12日(1871年12月23日)に日本を出発。
いざ欧米へ旅立ってみると問題山積みだった岩倉使節団は、アメリカでもイギリスでも、カモられて金を騙し取られております。
そんな中でも注目の的であり、どこでも歓迎されたのが留学生の少女たちでした。

新政府の米国留学女学生 左から、永井繁子 (10)、上田貞子 (16)、吉益吉益亮子 (16)、津田梅子 (6)、山川捨松 (11)/wikipediaより引用
上田貞子(16)
吉益亮子(14)
山川捨松(11)
永井繁子(10)
津田梅子(6)
出発前。皇后にまで目通りすると、周囲からは「親はなにを考えているのか?」とか「鬼か!」などと陰口を叩かれます。
そして明治5年(1872年)、いざアメリカにたどり着くと、美しい着物を身につけた生きた日本人形のような少女たちは大注目を集めました。
いや、人気がありすぎたのかもしれません。あまりに見物人が多く、すっかり疲れ切ってしまったようです。
少女を引率するアメリカ人は着物をみせびらかしたがったのですが、本人たちは早く着替えたくてうずうずしていたのだとか。
そんな五人の中でも、満6歳の津田梅子は最年少。
教育に強い森有礼は、留学生を出迎えて愕然とします。
「こんなベイビーをどうしろっていうんだ!」

渡米時の津田梅子/wikipediaより引用
しかし、この年齢がかえってよかったのかもしれません。
年長者の二名は、アメリカ生活が合わずに帰国しているからです。船旅の最中には、このどちらかに不埒な行為に及んだ船員もいたと言います。
初めての女子留学だというのに、あまりに行き当たりばったりな側面も見えてきます。
五人のうち、アメリカに残った三人は「トリオ」と呼び合い、生涯の親友となったのでした。
天から授かった梅子
津田梅子は留学生同士の共同生活のあと、ワシントンに住むランマン夫妻に預けられました。
チャールズとアデラインの夫妻は、仲睦まじいものの、子は生まれませんでした。
そんな夫妻にとって、津田梅子は天から授かったような少女だったのです。
拙い英語なれど、自分なりの意見を言う梅子の聡明さに、夫妻は喜びます。
特に夫妻を驚かせ、喜ばせたこと。それは、里親となった翌年に津田梅子が受洗したいと言いだしたことでした。
誰も強制したわけではない。それなのに、自らそう言いだしたのです。
はじめこそ幼児洗礼形式で行うとされたものの、その聡明さゆえに成人と同じ形式での洗礼となりました。
このころ、日本人の認識としては、まだまだキリスト教への警戒心がありました。
捨松の兄である山川健次郎は「絶対にキリスト教徒にはなるまい」と自らを戒め、妹はじめとする女子留学生の洗礼にも断固反対していたほどです。

山川健次郎/Wikipediaより引用
そんな中で、津田梅子の受洗です。
新聞記事になるほど、大きな話題となりました。
実際、梅子の聡明さはかなりのもの。英語力を身につけ、学芸会では難しい詩の暗唱もこなす。
こうした津田梅子の動向は、新聞紙面を幾度も飾ったのでした。
ランマン夫妻にとって、その喜びはどれほどのものであったことでしょうか。
津田梅子は誇りある養女でした。
夫妻の深い情愛の中、10年間の留学生活を終えた梅子。
英語力と教養を身につけ、胸を期待に膨らませながら帰国したのです。
しかし、その先は予想外のことばかりが彼女を待ち受けていたのでした。
日本でのアメリカ娘、苦闘する
明治15年(1882年)晩秋――。
「アラビック号」での荒れた航海を乗り越え、母国の土を再び踏んだ津田梅子。そこで彼女は、愕然とします。
日本での彼女は異邦人。
アメリカ娘でした。
トリオのうち、捨松と繁子は進学先のヴァッサーカレッジ外で、語り合うことがありました。
留学した際の年齢も、津田梅子よりは上です。

ドレス姿の大山捨松/wikipediaより引用
そうした違いもあり、梅はトリオのうちで最も日本語力が衰えていたのです。
家族との間ですら、心理的な距離感があります。仙は梅子を気遣い、ベッドを室内に運び入れ、洋食も用意しました。
それでも、何かが違うのです。
津田梅子の救いは、ランマン夫妻に宛てて手紙を書くことくらいでした。ランマン夫妻は津田梅子を気遣い、アメリカに戻ってはどうかと進めて来ます。
しかし、津田梅子は母国に尽くしたいのです。
とはいえ、八方塞がりであることは確か。あれほど聡明であった津田梅子も、日本ではこんな扱いです。
「行かず後家」
「売れ残り」
女子は14歳から16歳で結婚する――それが当たり前の時代です。
①アメリカに戻るのか?
②目的を模索するのか?
③結婚か?
津田梅子はじめ、帰国したトリオにつきつけられたのは、こんな選択肢しかなく、梅子以外の二人は、三番目を選んでいます。
永井繁子は、津田梅子帰国の一ヶ月後には瓜生外吉と結婚してしまいました。
女子教育事業を始めたい山川捨松は資金繰りに悩み、結果、仇敵とも言える薩摩・大山巌との結婚を選びました。
西郷隆盛・西郷従道兄弟の従兄弟であり、彼女の15歳も年上の人物です。
薩摩と会津のカップル――捨松が「鹿鳴館の華」となったことから、ときにシンデレラストーリーのような美談とされることもありました。
しかし、津田梅子の目からみると、生々しい本音が垣間見えます。
アメリカ時代は「スティーム(蒸気)」というあだ名で、木登りも楽しんでいた捨松。
そんな彼女の性格的に、この結婚は納得できるものだったのか?
後に彼女は、人生で最も楽しかった時代はアメリカにいたころだ、と振り返っています。

大山巌と捨松夫妻/wikipediaより引用
大山と結婚する前に、捨松へ想いを寄せている、年齢も近く眉目秀麗、初婚である男性がいました。捨松はどうせなら彼の思いに応えたかった、と振り返っています。
繁子は自分のものとちがい「愛がない結婚」だと苦い顔であったとか。
日本では、愛のない結婚はごく当たり前のこと。津田梅子自身そうわかりつつも、複雑な心境です。
梅子からすれば、捨松の結婚は女子教育という目標を投げ捨てた、挫折の結果なのでした。
華麗なダンサーとなり、鹿鳴館の華として咲き誇ったとしても、捨松は幸せであったか。そこはわかりません。
そんな津田梅子を見て、捨松は懸念を捨てきれません。
梅子の性格は教育には不向きなのだから、結婚すればいい。親友の捨松すら、そう思っていたほどなのです。
捨松ですら、津田梅子の秘めた激情はつかみかねていたのでしょう。
日本の女子よ、たちあがれ
津田梅子は日本での女性の地位、男性の横暴に怒りを覚えていました。
日本の男性が横暴であるのは、母、姉妹、妻たちが甘やかすからだ!
そう怒りを見せています。
いっそ死んで日本女性の地位が高くなるなら、そうしてやる!
そうランマン夫人の手紙で書いてしまうほど、津田梅子は苛立っていました。
そんな中、帰国して一年ほど過ぎたあと、捨松が結婚した明治16年(1883年)秋のことです。
津田梅子は繁子から、鹿鳴館の舞踏会に招かれます。

鹿鳴館を描いた浮世絵/wikipediaより引用
ただの社交パーティではありません。人脈を掴み、なんとか道を見出したい――津田梅子はそんな想いを秘め、参加します。
と、一人の男性が近づいて来るではありませんか。
「私が誰だかおわかりですか?」
「さあ、どなたでしょうか」
「伊藤ですよ。覚えておりませんか」
なんと、伊藤博文でした。

伊藤博文/wikipediaより引用
この舞踏会の半月後、19歳の誕生日目前のこと。伊藤からこんな話が届きました。
「桃夭女塾で教えませんか?」
ついでに、伊藤の家での家庭教師も頼まれました。
「桃夭女塾」とは、女官であり歌人でもあった下田歌子が始めた女子教育機関です。

下田歌子/wikipediaより引用
ただ、名前からして津田梅子の性質にあっていたかどうか。
『詩経』のこの一節から取られています。
「美しきこと夭(わか)き桃の如し」
おとなしく、可憐な女性であれ――そうした目的を感じます。
塾にせよ、伊藤家にせよ、津田梅子は満足しなかったようです。伊藤は教育熱心ではなく、娘二人もさして情熱がありませんでした。
アメリカ帰りの家庭教師を、ステータスシンボルとして雇用しただけでは?
そんな疑念が出てきても、おかしくはありません。
津田梅子自身は、下半身事情が放埓である伊藤本人にも強烈な嫌悪感があったようで、赤裸々に批判を書き残しています。
これを「堅苦しい若い女の目線だから」と言い切って良いものかどうか。
なんせ明治天皇ですら伊藤の性的な放埓さには呆れていたほどです。
明治17年(1884年)、津田梅子は伊藤家を辞しました。
母が妊娠し、姉は結婚しているため、家事手伝いをしなければならないということが、表向きの理由。
そのころ、伊藤は捨松、下田歌子らとも相談し、華族女学校を設立すべく動いていました。
母の手伝いがあれども、そこへ就職したいと考えていた津田梅子に対し、きっと声がかかると捨松は励まします。
明治18年(1885年)、はたして帰国後三年目にして、津田梅子は念願の教員としてのポストをここで得たのでした。
国費留学生として、国に恩返しもできる。そう張り切る津田梅子。
任命後一年もたたないうちに奉任官となり、その年俸は500円という破格の地位でした。
女子教育は、花か、実か
津田梅子の期待は、やがて失望に変わります。
明治政府の女子教育の方向性は、華やかなお人形のような女子を育成すること。
おしとやかで、かわいらしい。しかし、自分の意見は言わない。知的には生ぬるい。そんな女子育成が目的であったのです。
幼い頃から、納得がいかなければ言い返してきた。そんな津田梅子からすれば、失望を覚えるものでした。
武家女性の教育からすると、後退した部分もあったことでしょう。
江戸以前は女子は無学であるべきだという風潮もあったものの、来日外国人が驚くほど男女双方の識字率は高いものでした。
このころは、津田梅子の人生でも短く華やかな時代です。
時は鹿鳴館時代。
女学校の少女たちは、舞踏会に引っ張り出されました。津田梅子もしばしば参加しています。
しかし、この時代もスキャンダラスな終わりを迎えるのです。
明治20年(1887年)、鹿鳴館での仮装舞踏会で、ベネチア紳士に扮した伊藤博文が失態をやらかしたのでした。
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岩倉具視の二女・戸田極子は、際立った美貌で有名でした。夫と参加していたそんな極子に、伊藤は関係を迫ったのです。
女性の権利向上を目指す『女学雑誌』が、このスキャンダルをスクープしました。
贅沢だ。
猿真似だ。
なにかとそんな批判を浴びた鹿鳴館時代は、これを機に終わりへと向かうのでした。
伊藤は梅子を教育へと誘ったものの、女性の権利は理解していなかったのでしょう。
日本そのものがそうでした。
津田梅子の同志である下田歌子や捨松は、マスコミのスクープにさらされ心を痛めています。
物言う女の苦しみに、梅子は疲れていました。日本を離れることを望み始めたのです。
そんな津田梅子に、再留学の話が持ち上がります。
留学時代、捨松と親しくしていて姉妹同然であったアリス・ベーコン。

アリス・ベーコン/wikipediaより引用
彼女が来日し、津田梅子を留学生として、新設の女子大ブリンマー大学へ推薦したのでした。
ブリンマー大学で学ぶ
創設わずか四年目。
フィラデルフィアにあるブリンマー大学に入学した津田梅子は、羽をのびのびと伸ばします。

ブリンマー大学/wikipediaより引用
堅苦しい日本の生活から解き放たれ、際立った聡明な学生として、生物学を専攻するのでした。
留学二年目後半は、生物学だけではなく教授法も学びます。日本から許可を得て、女子教育を学ぶという条件付きで、期間を一年延長したのでした。
さらに津田梅子は「日本婦人米国奨学金」または「ジャパニーズ・スカラシップ」と呼ばれる制度を、メアリ・H・モリスらアメリカ人女性の協力を受け、設立します。
志ある女性が、経済的に不自由なく学べるよう、尽力したのでした。
日本の女子教育は、アメリカ人女性の尽力なくしては成立していません。
捨松の兄・山川健次郎も、アメリカ留学中に政府から学費を打ち切られています。
彼が勉学を続けられたのは、学友の母であるアメリカ人女性支援のおかげでした。国境を超えた善意が、日本の教育を前進させたのです。
かくして津田梅子の夢は、再留学の3年間でさらに燃え上がってゆきます。
ナイチンゲールと意気投合
津田梅子は、女子教育のための塾設立を胸に秘めていました。
日清戦争で浮かれる日本で、梅子はその目的を考え続けます。
なぜ、国の援助の元でそうしなかったのか。それは、国の考える女子教育との違いがあったことでしょう。
こうした思いは、津田梅子一人だけではありません。
実業家の広岡浅子は、成瀬仁蔵の協力を受け、明治30年(1897年)には女子大学創設発起に動き出します。
この願いは、明治34年(1901年)に実ることとなります。
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津田梅子はヘレン・ケラーに面会し、その情熱に感銘を受けています。障害をものともしない教育に、感動しないはずがなかったのです。
明治31年(1898年)、女子教育視察のため津田梅子はイギリスへ向かいます。
オックスフォードに滞在し、ナイチンゲールと面会。彼女から受け取ったスミレは、押し花にして持ち帰りました。
この押し花は、現在も残っています。
ナイチンゲールは、「白衣の天使」というあだ名から、穏やかな女性だと思われがちです。
実はまったくそうではありません。
データを分析し突きつけ、政府を黙らせる。ワーテルローの英雄であるウェリントン公を「時代遅れ」と容赦なく批判する。
そういう強気でデータ重視の性格です。

ナイチンゲール/wikipediaより引用
津田梅子がそんなナイチンゲールと面会し、発奮しました。
意気投合するものがあったのでしょう。皮肉にも、津田梅子が女子教育において合致したのは、海を越えた海外の女性ばかりでした。
日本には、男性はおろか女性ですら、津田梅子の大志を理解できる人物は少なかったのです。
明治32年(1899年)には高等女学校令が発布されました。
翌年には、52校、1万2千人にまで学生が増加しています。
とはいえ、高等といっても男子の中学程度のカリキュラムです。
就職先も、女子高等師範学校のみ。かたちだけ整え、女子学生の進路を考えていたとは思えません。
女の道は結婚のみ。
その考えは強固なものでした。
だからこそ、津田梅子は立たねばならない。そんな時代の流れでした。
女子英学塾・津田塾開校
明治33年(1900年)、津田梅子はアメリカへ渡ります。
津田梅子の志を知るアメリカの友人が、彼女を迎えました。
多数のアメリカ人が、寄付を集め、総額は2千ドルになっていたのです。
津田梅子は華族女学校、女子高等師範学校を辞職。「女子英学塾」を9月に開校しました。

女子英学塾創設当時の津田梅子(後列左)と協力者たち/wikipediaより引用
ささやかな校舎で、学生は10名ほど。食堂やパーラーも、教室として利用されました。宣伝が不十分であったものの、学生は増えていきます。
女子師範学校にはない、英語のカリキュラムがあること。これこそ、津田梅子の理想にそった結果でした。
津田梅子の教育方針は、それまでの華族を中心とした女子教育とは異なるものでした。
・精神性を高めること
・個性にあった教育であること
・広い視野を持つこと
英語教育も、基礎からしっかり。そのうえで、応用力も重視しています。
華族女子相手に教鞭をとるほうが、華やかで地位は得られます。しかし、津田梅子は自分なりの教育を完徹したい。そう考えていたのでした。
少数でありながらも、熱心な学生たち。塾は軌道に乗り始め、学生も増えます。
手狭になる校舎を求め、津田梅子は幽霊屋敷のような洋館はじめ、屋敷を買い足してゆくのでした。
そんな津田梅子の熱心な教育ぶりは、学生を感心させたものでした。
梅子は、独身女性としては異例の分家を構えています。結婚ではなく、自ら家を持つこと。それが彼女の矜持であり、生き方でした。
新たな女性像を目指して
津田梅子の女子教育は、当時としても最先端であり、今日の目から見てもそうであると言えるものです。
新たな女性像――津田梅子の目指したものは、そのことでした。
幼い頃から持ち続けた聡明さ。
はっきりと物言う性格。
若き日に噛み締めた女性の低い地位。
こうしたものを克服すべく、津田梅子は突き進みます。
明治に産声をあげた女子教育は、あくまで良妻賢母育成を目的としていました。
江戸時代以前、教育は男女別。男子の教育は男性、女子の教育は女性が行うもの。それが、欧米から学んで変化していったのです。
自分の意見を言うこと。
広い視野を持つこと。
彼女のように、良妻賢母の枠からはみ出す女性には、その個性にあわせた教育が必要であること。
世界的に燃え上がり始めた、婦人参政権運動とも一致する。それが津田梅子の女子教育でした。
大正6年(1917年)、糖尿病に倒れ何度も入院し、教壇に立てなくなります。彼女は 女性像を模索し続け、学生たちを導いていました。
その志は病床でも変わりません。
大正12年(1923年)関東大震災では、病身ながらも復興資金集めに尽力しています。
弟、父母、ランマン夫妻、アリス・ベイコン、捨松、繁子。
多くの恩人を見送ったあと、昭和4年(1929年)、津田梅子は病死しました。
享年66。
彼女の志を受け継ぐ津田塾大学は、キリスト教と英語教育を柱とし、今日まで続いています。
こうして津田梅子の志は受け継がれた……いや、そうでしょうか。
彼女の道はまだ半ば
津田梅子の新札採用が決まった平成最後の年、2019年。梅子が味わった状況は、まだこの国で続いています。
帰国子女を「ガイジン」かぶれと除け者にして、活用しない傾向。
結婚こそが女性の道であり、適齢期を逃した女性を蔑む傾向。
個性よりも、周囲に合わせるために施す教育傾向。
津田梅子の名前がニュースで流れる中、上野千鶴子氏による東大祝辞が話題となりました。
この日本社会では、あからさまな性差別が横行している。東大もその一つ――彼女は宗訴えたのです。これは嘘でも大げさな話でもなく、日本の大学進学率における男女比は、世界的に見ても異常なのです。
津田梅子が叩かれたように、物言う女は叩かれます。
「女の幸せは結婚して家庭を持つこと」と決めつけられます。
◆上野千鶴子「東大祝辞」でワイドショーコメントが酷い! 東国原英夫、坂上忍、玉川徹、東大卒元官僚の山口真由も(→link)
この状況を見て、津田梅子が今いたとしたら?
何を思うでしょう?
なぜ、新紙幣にあわせた大河ドラマの主人公は渋沢栄一で、津田梅子ではなかったのでしょう?
彼女が紙幣の顔として、日本人を見つめている――その眉間に皺が寄らないと、どうして言えるのでしょうか。
少しでも、津田梅子が目指した女性像や教育に近づくことを願ってやみません。
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【参考文献】
古木宜志子『津田梅子』(→amazon)
飯野正子・亀田帛子・高橋裕子『津田梅子を支えた人びと』(→amazon)
『国史大辞典』





