優秀なきょうだいを持つと、何かと比較されて大変だったりしません?
例えば、源頼朝の弟でも、ド派手な義経と比較して地味だとされがちな源範頼とか。
本当は十分に優秀なのに、兄・島津斉彬と比較されて愚弟扱いされる島津久光など。
同性同士の比較が多くなりがちですが、姉と比較されて嘆かれてしまうのが大河ドラマ『光る君へ』にも登場し、ほっこりキャラとして和みをくれた藤原惟規(のぶのり/これのぶ)です。
あの“紫式部の弟”であり、ドラマでは高杉真宙さんが演じ、公式サイトではこんな風に説明されていました。
まひろ(紫式部)の弟で、幼名は太郎。
勉学が苦手で、文学の才がある姉としょっちゅう比較されている。
のんびり、ひょうひょうとした性格。
確かに飄々としてドラマでは終始憎めないキャラでしたね。
しかし史実では実際どんな人物だったのか?
寛弘5年12月30日(1009年1月28日)は内裏に盗賊が入った日――このとき、紫式部が「兵部の丞(ひょうぶのじょう)という蔵人を呼んで!」と伝えたところ、「すでに帰ってしまいました」というエピソードが『紫式部日記』に書かれまして。
そう、兵部の丞とは当時の藤原惟規でして……何とも間の悪い様子が描かれた“弟”の生涯を振り返ってみましょう。
父も姉も優秀な頭脳を持っていた
藤原惟規は、実に不運な脇役として歴史に登場します。
父は藤原為時。
母は藤原為信の娘。
前述の通り、両親ともに姉の紫式部と同じなのですから比較されても仕方ない。
生まれは、彼女の2歳から4歳下、天延2年(974年)辺りと見なされ、ドラマでも描かれていたように父の為時は優秀な漢文学者でした。
当時の漢文といえば、文明の最先端たる北宋から伝わってきたもの。
為時は十代半ばという若さで大学に入り、漢籍を学び始め、菅原文時(すがわらのふみとき)に師事した秀才です。

菅原文時/wikipediaより引用
それが二十歳ごろに妻を迎え、娘(紫式部)と息子(藤原惟規)が生まれた。
きょうだいの母は程なくして亡くなり、父・為時は別の女性を妻として迎えますが、惟規のことをこう考えました。
「私が学んだことを教え、学問の道を極めさせよう!」
教育熱心な父親でした。
『源氏物語』の主役である光源氏は、トップクラスのエリート貴公子です。
にも関わらず、我が子・夕霧に対し厳しい教育方針を見せ、周囲から驚かれています。為時の娘である紫式部が、自分の父親像を反映させたのかもしれません。
「ああ、この娘が男であれば……」
父の藤原為時は学問により出世を遂げています。
儒者として認められ、花山天皇に漢詩文を教えていた。

花山天皇/wikipediaより引用
となれば我が子も漢籍に詳しくなければ恥ずかしく、熱心に漢籍を教えようとするのですが、いくら音読して覚えさせようとしても、我が子はすぐに忘れてしまう。
しかし、横で聞いていた姉がスラスラと覚えてしまった。
「あぁ、この娘が男であれば……」
為時はしみじみと、そう嘆いた――という逸話からは紫式部の優秀さのみならず、教育環境の良さもわかります。
父がいて、弟がいる。その弟に教えようと父が漢籍を読み上げたからこそ、紫式部には染み込むように知識が流れ込んでいったのです。
なぜ、こんな家庭の話が残っているのか?
というと、この優秀な姉が『紫式部日記』を残し、そこに記載していたからなんですね。
日記では「式部丞」と記されている残念な少年が惟規であるとされています。
『光る君』では「太郎」という幼名で出ていて、長男としてはごくごく普通の名前ですね。
紫式部には異母弟に藤原惟通(のぶみち)・藤原定暹(じょうせん)がいましたが、彼らは母が違うせいか、そこまで親しくはなかったようです。
紫式部のマイペースな弟
寛弘5年の大晦日、中宮御所に盗賊が押し入るという事件が起きました。
大変だ!
いやしかし、これを取り押さえたら手柄となる。
あの場所には弟もいるはずだから呼んできて!
と、紫式部は期待していたようですが、果たして結果は?
冒頭で記したとおり、このとき藤原惟規はさっさと退出して不在でした。
こんな大事なときにタイミングが悪く、姉の紫式部はガッカリしたとか。
性格については、姉がシャイで内向的、人の目を気にする性格であった一方、弟の惟規はマイペースで、自由気ままに振る舞うおおらかな性格であったことが日記等から伺えます。
そんな性格の違いもあって、姉は弟への評価が辛くなってしまうのかもしれません。
しかし、考えてもみてください。
わざわざ弟のちょっとしたことでも書き記すということは、「困った子だなあ」と苦笑しつつも、愛着があったのではないでしょうか。
ドラマの人物像はその辺も踏まえた可愛らしさがあるような気がします。
ただ、それにしても惟規が単なるパリピ的な陽キャだったとは思えません。
『光る君へ』の第35話では『今昔物語』に登場した逸話が取り上げられました。
斎院に侵入して捕えられた際、こう歌を詠んだのです。
神垣は
木の丸殿に
あらねども
名のりをせねば
人とがめけり
斎院の神垣は、あの「木の丸殿」ではないけれども、私が名乗らなかったせいで、人に咎められてしまったな。
これを見た斎院の選子(のぶこ)内親王が良い歌だと気に入り、無罪放免とされていました。
一体あの歌にはどんな仕掛けがあったのか?と言いますと……。
天智天皇は、斉明天皇崩御の際、木の丸御殿で喪に服した。ここは入る時に名を名乗らねばならなかった――。
そうした歌の状況を踏まえ、藤原惟規は「木の丸殿ではないけれど、どうやら名乗らなければならかったのか」と引っ掛けて詠み、その機転が評価されたのですね。
「口は災いの元」にはならず「芸は身を助く」となったんですなぁ。
父・為時とともに越後に赴き夭折
藤原惟規は、姉が日本史上に名を残す秀才であるため、評価が下がっている部分も大きいのではないでしょうか。
経歴を見ると、決して悪くありません。
若くして文章生(もんじょうしょう)となり、その後も順調に出世を遂げています。
長保6年(1004年)には少内記(しょうないき)となり、位記の作成を担当。
以降も、兵部丞(ひょうぶしょう)、六位蔵人(ろくいのくろうど)、式部丞(しきぶしょう)となり、寛弘8年(1011年)には従五位下に叙爵されました。
これに伴い、蔵人式部丞を離れ、越後守に任ぜられた父・為時と共に越後へ赴任します。
しかし同年、越後の地で早々に亡くなってしまいます。月日は不明。
父・為時、姉・紫式部の嘆きはどれほどのことであったか。
為時は任期一年を残し越後守を辞め、長和(1014年)に都へ戻っています。
惟規は、『惟規集』という歌集を残しており、勅撰和歌集にも9首収められました。
藤原為時の子のうち、漢籍知識が最も豊かであると見なされているのは、やはり紫式部です。
知識量は書いたものに反映されます。
『源氏物語』をはじめ、紫式部の著作は圧倒的なまでに漢籍からの引用が多い。
だからといって、他の子たちが劣ると見なされるのは不条理。
惟規についても、夭折したため、残せるものが少なかったことも影響しているのではないでしょうか。
ただし『光る君へ』で描かれる世界の中で、このきょうだいの対比はまだ温和な方かもしれません。
最上位の上流貴族ともなれば、兄弟や親戚間で権力闘争が勃発。
誰が世継ぎとなるか?
関白や大臣の座を占めるのはどの一族か?
などなど骨肉の争いは至るところで起き、そうした厳しい関係と比較すれば、この姉と弟はやさしく微笑ましいとも言えるでしょう。
今は『光る君へ』で描かれた藤原惟規と紫式部のきょうだい像を懐かしむばかりです。
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【参考文献】
NHK出版『光る君へ 紫式部とその時代』(→amazon)
他





