画・富永商太

豊臣家 週刊武春 関ヶ原の戦い

石田三成41年の生涯をスッキリ解説!関ヶ原まで豊臣を背負った忠臣の再評価

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怜悧で狭量、人望に欠け、豊臣の天下を潰してしまった男――。

かつて石田三成のイメージと言えば悪性評価の一辺倒でした。

しかし最近では「義を貫いた忠臣」という良性三成像も着実に広まっており、2016年には滋賀県が笑撃的なPR動画を作成したことでも注目を集めております。

以下の動画です。

 

オープニングの立ち姿を見るだけでもシュールなCM表現で、何とも言い難いですよね。

しかしその内容は、三成の忠義心や内政手腕、民への思いやりにスポットを当てており、敬意に満ち溢れたもの。
「配下にするなら三成~♪」という動画内の歌もあながち的外れではありません。

非業の死から四世紀を経て、人気を取り戻しつつある三成。
そんな三成の実像とはいかなるものか?

本稿では史実ベースでの彼の足跡を追ってみたいと思います。

 

身長156センチ 骨格はかなり華奢 色白で目は大きい

石田三成は永禄3年(1560年)、近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)にて誕生しました。

父・正継は石田郷の土豪であり、浅井家に仕える身。
三成は二男にあたり、幼名を佐吉(左吉という表記もあり)と言います。母は浅井家臣・土田氏の娘でした。

元亀元年(1570年)浅井家は、織田信長・徳川家康連合軍の前に敗北し、滅亡します(小谷城の戦い)。
浅井長政は、淀殿(茶々)の父親です。
関が原の戦い前後となると、石田三成と淀殿の関係が注目され、“浅井氏の姫と家臣”としてのつながりを強調するものもありますが、実際のところは不明です。

主君の滅びた石田家の者たちは、その後新しくやってきた、織田信長の家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕官します。

そこで注目されるのがこのエピソード。
三成少年期といえば、とにかく「三献茶」が有名です。

残念ながら、このお話は別人のものであるとか、そもそも史実ではないとされています。
旧浅井家臣の子に過ぎない青年が、電撃出世をするはずがない、よほど賢かったのだろう――という後世の憶測が、このエピソードを生み出したのでしょう(ちなみに三成よりも早くこの三献茶と同じことをしたエピソードが島津家配下の種子島一族にあります・参考までに)。

古田御前は石田三成並に賢い!? 三献茶エピソードの元祖は種子島にあった

「三献茶」伝説はともかく、三成が仕事のデキる男であったことは確かです。

小姓として仕官したのち、二十代前半で有能な家臣として、他家にまで知られるようになります。
加藤清正や福島正則といった猛将とはひと味違い、事務系の仕事に適性を見せる三成。
賢さを主君に見抜かれ、出世を遂げていた様子がうかがえます。

ちなみに三成は、遺骨をもとに複顔したため、身長や顔つきが判明しています。

身長は156センチ。
骨格はかなり華奢でした。
江戸時代の記録によると、色白、目が大きく、睫は濃く、声は高かったとのこと。

復元された顔も無骨というよりも穏やか。近年演じた俳優の中では、『真田丸』で演じた山本耕史さんが最も近い容姿ではないでしょうか。

イラスト・霜月けい

 

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若きエリート官僚・石田治部少輔

石田三成の名が他家にまで知られ、彼の名による“発給文書”が見られるようになるのは天正10年(1582年)頃から。
武田勝頼と武田家が滅亡し、「本能寺の変」で織田信長が倒れ、羽柴秀吉が天下取りへと邁進するようになった時期からです。

合戦や政治活動でライバルを倒し、天下を目指す秀吉。
三成も武功をあげますが、やはり彼は戦場よりも外交や内政で存在感を示すタイプでした。

天正13年(1585年)に秀吉は、従一位関白に就任します。
三成もこのとき、従五位下治部少輔に叙任されています。三成26才の時でした。

このころ担当した大事な役割は、対上杉家との交渉です。

当時の上杉家は、危機を脱したところでした。
織田信長と対峙し、武田家の次は自分たちが滅亡すらのではないか、とすら考えていた上杉家。
ところが急転直下の本能寺により窮地を脱し、その後は天下人となる秀吉に接近を開始していたのです。

とはいっても、上杉家は始めから秀吉に臣従すると決めていたわけでもなく、両者には緊張感が漂っていました。

よく三成は人付き合いが悪く横柄だとされますが、重要な外交交渉を担う者が本当に無愛想で、取り付く島もないような人物であるとは考えにくいです。
むしろ彼は細かい気配りのできる一面も持ち合わせていたのではないでしょうか。

なお、三成と上杉景勝およびその家老である直江兼続が親しいという描写が、フィクションではよく見られます。
残された三成→景勝宛の書状を見ると、なかなか親しげな様子のものもあるようで、天正14年(1586年)の景勝上洛の際には、三成が出迎えています。

ただし、彼の外交官としての活躍は上杉家に対してのみではなく、他の多くの大名家に対しても外交窓口として活躍しています。
信頼できる外交窓口としての三成像が見えて来ますね。

この年、三成は堺奉行に任じられました。
前任者の松井友閑とは親子ほどの年齢差があり、彼がいかに若くして重責を任されていたかがご理解いただけるでしょう。

結婚時期は不明ですが、この頃にはしていたと思われます。
相手は宇多頼忠の娘。
実は、真田昌幸の正室も宇多頼忠の娘という説があります。

この説に従えば、三成と真田昌幸は、妻が姉妹同士で義理の兄弟ということになります。

 

九州仕置から小田原征伐、そして検地と次々に

秀吉が天下を統一するにあたり、三成はますます忙しくなります。

九州の仕置き、後陽成天皇の聚楽行幸への対応、関東の北条氏攻め(小田原征伐)、そして検地。
ときに天皇を粗相なくもてなし、ときに大軍勢を率いて行軍するための輸送を徹底する――そんな実務能力を次々に求められるのです。

外交担当としても忙しい日々が続きました。

秀吉が再三止めても蘆名氏を滅ぼした奥州の伊達政宗への対応。
出羽庄内で対立する上杉氏と最上氏への対応。
こうした「奥羽仕置」では、不満を持つ者による一揆も続発し、三成はこの対応にも追われています。

彼の性格が「義の人であったか?」というのはとりあえず横に置くとしても、この高い実務能力はきちんと評価すべきでしょう。
日本史の授業で習った秀吉の革新的な政策の数々を、実行に移していたのは三成ら官僚です。
大変な仕事量です。

そしてこの三成の役目が、彼の嫌われる一因かもしれません。
天下人秀吉の意志で行われて処理であっても、秀吉に怒りをぶつけることができずに、執行者である三成に怒りや苛立ちが向かってしまう、と……。

中間管理職の苦悩が三成にはつきまとっていたのではないでしょうか。

 

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そして文禄の役が始まった

秀吉の天下統一に伴い、豊臣に従属する者たちも大名として転封されます。
三成は美濃国内に10万石程度で封じられました。

そして文禄元年(1592年)。
秀吉は「唐入り」、すなわち朝鮮出兵を行うことになります。

参戦者は大変な苦労をしたことで知られるこの戦役。
中でも、超大軍の兵糧や船舶輸送を管理した三成の仕事量は、膨大なものであったはずです。
渡海しない大名たちも、肥前名護屋城に滞在していたわけで、ともかく大変なことです。

肥前名護屋城の意義~秀吉の朝鮮出兵でこの地が重要拠点に選ばれた理由とは

しかも同年3月に渡海した三成が直面したのは、厳しい戦況です。

名護屋にいた頃に想定していたものより、状況ははるかに深刻でした。
三成は漢城に入ると、諸将に秀吉からの命令を伝える役目を果たし、膠着した戦況の中、渡海したまま年を越します。

翌文禄2年(1593年)には、渡海先で“碧蹄館の戦い”や“幸州山城の戦い”に参戦。後方支援だけではなく、戦闘にも参加しています。

三成のいる漢城は、凄惨な状況でした。
人馬の死体が積み重なり、生き残る者も飢えてやせ衰え、まさにこの世の地獄です。
もはや漢城の支配を継続することは不可能でした。

このまま、ただ撤退すれば、そこを追撃されて大損害を被ります。
もはや明との休戦交渉しか活路はありません。

やむをえず三成は、明軍の講和使・謝用梓・徐一貫を伴って肥前名護屋に向かうことになりました。

この和睦は、偽りだらけでした。
謝用梓・徐一貫は明の正式な使節ではなく、参将に過ぎません。
また日本側は「明の征圧には至らないものの、降伏させた」と偽ることで、秀吉の怒りを抑えようとしていたのです。

所詮は、偽りの和睦です。
日本が勝利を前提とし、明の皇女降嫁や朝鮮王子を人質とする非現実的な条件をつきつけたため、交渉難航は必至……。
これに関わった三成らの心労を想像すると恐ろしくなります。

三成は和睦交渉と同時に、朝鮮へ再度渡り、「倭城」と呼ばれる要害の築城、朝鮮での在番体制の整備等をこなさねばならないのでした。

しかも朝鮮半島の陣中において、島津義弘の二男・久保が没したため、島津家に後継者問題が持ち上がりました。
三成はこの処理にも関わらねばなりません。
島津家に、反豊臣政権的な後継者が据えられることを、警戒しなくてはならなかったのです。

同時並行してマルチタスクをこなす。
その働きぶり、四百年後に史実を辿っている私ですら心配になるほどです。

 

秀次事件の衝撃

その頃、豊臣政権内には新たな問題が持ち上がっていました。

秀吉は結局朝鮮半島に渡海しないまま「唐入り」が終わろうとしています。
これが新たな問題の火種となるのです。

秀吉は渡海を前提として、留守を守ることになる甥で関白の秀次に、権限を委譲しつつありました。
太閤と関白で日本を分割し、支配する体制になりつつあったのですが、秀吉は秀次の統治ぶりを厳しく叱る等して、両者の間に緊張感が生まれることになります。

同時に、秀次は秀吉からのあまりに大きな期待に、押しつぶされるようなプレッシャーも感じていたことでしょう。

この間、三成は島津領・佐竹領、そして蒲生氏郷が死去した蒲生領等、各地の検地を進めていました。
前述の島津家の後嗣問題への関与は続いています。

日明和平交渉も継続中。
しかし、これは前提に無理がありすぎまして、文禄5年(1596年)に破綻してしまいます。

そんな中、おそるべき事件が起こります。

文禄4年(1595年)7月15日。高野山で関白の豊臣秀次が切腹してしまったのです。

殺生関白・豊臣秀次に対し、豊臣秀吉は切腹の命令など出していなかった!?

しかも事件に連座して、関係者が大量に処断されました。
秀次の残された妻子(最上義光の娘・駒姫も含む)も、まとめて処刑されてしまいます。

これに三成が立ち会ったとされています。
幼子が母の胸から引き剥がされて刺し殺され、女性たちが斬首されていく光景を、一体どんな気持ちで見守ったのでしょうか。

従来、秀次はその悪逆ぶりや謀叛を企てたことから、切腹を命じられたのだとされていました。

しかし近年では、無実を証明する、あるいは精神的に耐えきれずに自ら切腹したとされるようになりました。
その事実を隠蔽するため、「殺生関白」という不名誉な名がつけられ、その妻子を見せしめのように殺すという隠蔽工作が行われたのです。

豊臣秀次の連座で死した美少女・駒姫 悲劇の一言では片付けられない最上家の深き愛情とは

ただでさえ親族、特に男子が少ない豊臣政権。秀次とその息子が生きていたら、どうなっていたことでしょうか。

想定外の事件により、滅亡への一歩を踏み出してしまった豊臣政権。
三成が豊臣家をなんとしても存続させたいのであれば、関ヶ原より前に尽力することがあったのかもしれません。

いや、それは歴史を知る現代人の言葉で、当時の彼にしてみれば不可抗力でしかありませんね……。

 

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黄昏の豊臣政権

秀次事件のあと、三成は加増されます。

秀次の知行のうち、近江7万石が代官地に。
そして近江佐和山19万4千石の所領が与えられたのです。

また三成は、秀次の家臣団を自らの家臣団の列に加え、更には増田長盛と共に京都所司代に任命さています。

大名としての三成は、領民に細やかな指示を出し、善政を敷いたとされています。
多忙な三成に代わって、嶋左近清興らが領国支配にあたりました。

かくして三成は豊臣政権の屋台骨として、欠かせない存在になっていきます。

前述の通り、明との和睦交渉は破綻してしまいました。
そして失敗することは目に見えている朝鮮への再派兵が決まります。

造船そして伏見城築城と、三成はまだまだ働き続けねばなりません。
伏見城の普請の際に、三成が真田信之とやりとりした書状からは、彼が病気にかかったことがわかります。
これだけ働いていたらそれも無理のないところでしょう。

慶長2年(1597年)、朝鮮への再派兵が始まりました。

総大将は、豊臣一門の若き貴公子・小早川秀秋。
今回の派兵は明の征服ではなく、朝鮮半島の領土切り取りを目的としたものでした。

三成ら政権中枢にいる奉行は日本にとどまり、渡海した目付集が現地から戦況を報告するという体制です。
日本にいて現地の状況を知らない秀吉や奉行たちが、無責任に戦場へ命令してくるという状況は、確実に軋轢を生んだことでしょう。

「戦闘は会議室で起きてるんじゃない! 現場で起きてるんだ!」
まさにそんな状況だったのでしょう。

秀吉政権そのものに冷たい目線を向ける者もいましたが、恩義があってそうはできない者もいます。
彼らの憎しみの矛先は、三成へと向かうわけです。

実のところ三成は、戦況を冷ややかに、悲観的にみていました。
政権としての計画では、実力で朝鮮半島に領土を獲得し、そこに九州大名を転封、空いた九州に毛利や宇喜多を転封するという構想を練っていました。
こうした計画を不安がる輝元に対して、三成は「そんなことにはならないだろう」と見通しを述べているのです。

政権中枢の実力者である三成すら、正面切って無謀な計画に異議を唱えられない異常な状況でした。

 

秀吉の死と三成の失脚

慶長3年(1598)8月。問題山積の中、秀吉が世を去りました。

秀吉というカリスマを失い、餓狼の中に置き去りにされた赤ん坊のような状況に陥った豊臣政権。
狼が舌なめずりをしている中で、三成はどうすべきでしょうか。

もしアナタが三成であれば、どのような選択が最善であったでしょう?

秀吉とて、死後のことを考えていなかったわけではありません。
彼は遺言を残していました。

後事を託されたのは、著名な五大老と五奉行です。

五大老
・徳川家康
・前田利家
・毛利輝元
・上杉景勝
・宇喜多秀家

五奉行
・前田玄以
・長束正家
・増田長盛
・石田三成
・浅野長政

奉行の一人として、政権運営を担当することになった三成。
秀吉の死は秘され、しばらくの間五奉行は、秀吉の命令という形で政務を行いました。
そして三成らは、山積みの課題を消化していきます。

まずはともかく朝鮮半島からの撤兵および和睦交渉。
秀吉が亡くなる前から朝鮮軍は反転攻勢を開始しており、撤兵は難しいものでした。
三成は10月に九州へ向かい、撤兵指揮を行います。

その二ヶ月後の12月には再度大坂に戻り、政権へ復帰。
撤兵が終わってからも問題は続きます。

不平不満を抱えた大名たち相手の論功行賞や大名領の再編成をせねばなりません。
無謀な唐入りで、大名たちの不平不満は頂点に達しています。
こんな状況で三成が無事に政務を行えるはずもなかったのです。

「五大老・五奉行」制度は、動乱の中で機能してはいたものの、危ういパワーバランスの上に築かれたものでした。
しかも慶長4年(1599年)はじめには、大老の一人である前田利家が死去。
この直後、彼を追い込む有名な事件が起きます。

七将(加藤清正・福島正則・細川忠興・浅野幸長・黒田長政・蜂須賀家政・藤堂高虎)に襲撃されたのです。※家康書状に記された7名で、この他に池田輝政・加藤嘉明という説も

三成は伏見城の治部少丸に逃げ込み、難を逃れました。
家康の屋敷に逃げ込んだという説は、史実ではありません。

近年、この襲撃事件は三成が家康暗殺を企んでいたことが前段としてあったとされる史料が見つかりました。
この史料を取り入れたのが、2016年大河ドラマ『真田丸』です。

結果、三成はこの事件の処遇として、佐和山城への隠退を余儀なくされてしまいます。
粉骨砕身して豊臣に尽くしてきたのに、政権から追放されてしまったのです。




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凄まじい無念さであったことでしょう。
果たして三成はここからどうやって、再び豊臣を盛りたてようとしたのでしょうか……。
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