原田左之助イメージイラスト

幕末・維新

新選組十番隊組長・原田左之助|渋くてイケてる人気剣士 29年の生涯

2025/05/16

漫画『るろうに剣心』で、主人公・緋村剣心と共に戦う人物がいます。

相楽左之助――。

明るく漢気にあふれた彼の名前、幕末に生きて散った二人の人物から取られていました。

◆相楽総三(赤報隊長)

◆原田左之助(新選組・十番隊組長)

近藤勇や土方歳三、沖田総司などの幹部でもなく、永倉新八や斎藤一のように明治を生き抜いたわけでもない。

それでも「馬賊になった」という伝説があるほど人気者だった快男児・原田左之助。

原田左之助イメージイラスト

本稿では、慶応4年(1868年)5月17日が命日である原田左之助に注目してみたいと思います。

 


左之助は苦み走ったいい男

原田左之助といえば、トレードマークがあります。

それは腹部に走る横一文字の傷痕(きずあと)。

要は、切腹未遂による痕でした。

現代人からすれば、一体何なのかと不思議に思えるかもしれません。

しかし、時代は江戸です。

梅毒が「花柳病(=遊郭で罹る遊び人の病気)」とされるような価値観があり、切腹の痕も、こんな風に褒められるものでした。

「すげえじゃねえか! あいつァ、生きるか死ぬかの喧嘩をするほど鉄火肌ってことでぇ」

江戸っ子の鉄火肌。人情。オラつき。

火事と喧嘩が華であり、火消しに喝采を送る庶民にとっては、むしろ大絶賛する傷跡だったのです。

火消しの大親分・新門辰五郎/wikipediaより引用

腹部の傷がアピールできるのは、当時の服飾事情も影響しております。

ご存知の通り、江戸は高温多湿です。

露出が高く、過ごしやすさを求めた江戸っ子の知恵でした。

例えば当時の写真をご覧いただくと、次のような様子が見てとれます。

・幕臣や旗本、武家の奥方であっても、着付けはかなりゆるい

・乳房がいやらしいという意識が希薄であり、女性だろうとギリギリ限界まで胸元をはだける

・飛脚、職人、足軽ともなれば、夏場や労働時は褌一丁でも問題なし!

現代人にとって、夏場の無駄毛処理といえば女性の手足や脇の下のものというイメージがあります。

江戸時代はそうではありません。

モテを気にする男性は、尻の割れ目周辺の無駄毛処理に気を使っていました。

当時の下着は褌(ふんどし)。

裾をはだけるにせよ、褌だけで歩くにせよ、無駄毛があればこうなります。

「キモっ! 褌で歩く江戸っ子なのに、無駄毛ボーボーとかありえなくない?」

イケてる男は尻まで気遣う必要があったんですねー。

『飛脚、日本と絵入り日本人』エメ・アンベール/wikipediaより引用

はい、江戸っ子の無駄毛処理事情はこのへんまでとしまして、原田の傷痕。

腹部まであらわにした足軽中間で、腹部にうっすらと切腹のあと……これがどんだけイケてるか!

「マジで? マジでやばくない? 見た目だけでなくて漢気まであふれているとかすごくね!!」

江戸の娘がうっとりする。男だってお友達になりたい。

そんな無茶苦茶かっこいい存在――それが原田左之助でした。

原田左之助は、容貌についてこう言われております。

「苦み走ったいい男でねえ……」

今となっては「小股の切れ上がったいい女」と並ぶ謎めいた表現ですが、ともかく以下のような評判でした。

・シブい、凛々しい、美形である

・無口でとっつきにくいようで、慣れてくると人情味がある

・なんか頼りがいがありそう

映像表現ですと、東映仁侠もの、ヤクザ路線でしょうか。

鶴田浩二さん、高倉健さん、菅原文太さんあたりが典型例とされております。

 

史実でもハンサムでとにかくモテる、俳句も好きで、アパレル店員だったこともあった――典型的なイケメン・土方歳三。

フィクションにおける沖田総司のような、儚げな美青年路線。

そんな二人とはタイプが違い、シブくてイケてる男。

本稿では原田左之助の生涯を見ていきます。

 


松山藩の足軽

原田左之助は天保11年(1840年)、松山藩の城下・矢矧町(現・松山市緑町)で生まれました。

新選組で仲が良かった永倉新八のひとつ歳下。

諱は忠一と言います。

身分は中間――武家の身分でも最下層の足軽でした。

大名行列で槍を捧げ持ち、挟み箱(長柄つきの箱)を運んでいる姿をご想像ください。

 

左之助は安政2年(1855年)、江戸三田藩屋敷で小使として働くこととなりました。

帰国して若党をつとめたこともありますが、気が荒かったのか、その3年後の安政5年前後には出奔。

このとき、止めようとした相手の武士と揉めております。

どうやら相手は、こういう挑発をしたようです。

「腹の切り方も知らぬ下劣な輩めが」

そこで原田は「切腹の作法くらい知っている」とばかりに、腹を切ってアピールしたのでした。

腹部をかっさばいて死ぬとなるとなかなか難易度が高く、そのため介錯人がいるわけですが、だからといっていきなりやらかすのは相当のものです。

歌川国員の作『當世武勇傳 高﨑佐一郎』/wikipediaより引用

前述の通り、これが切腹の痕として残り、カッコいいアピールポイントになったのですから、当時の感性は興味深いものがあります。

「俺の腹は金物の味ってもんを知ってんのよ。“死に損ね左之助”たぁ俺のことよ」

「マジパネエな……左之助はよぉ!」

と、こうなったわけですね。

 

槍の名手

その後、大阪へ向かった左之助は、谷万太郎から槍術を学びました。

種田流とも、宝蔵院流ともされており、免許皆伝を受けると槍の名手として知られるようになります。

そんな原田が、どうして試衛館に出入りし、新選組に入るのか?

このあたりは不明瞭です。

永倉新八のように生存し、かつ語り残すこともなく、ハッキリとしていない。

ともかく試衛館には血気盛んな若者で盛り上がっており、その熱気や近藤勇の人徳にあこがれて、原田もやってきたのでしょう。

近藤勇/Wikipediaより引用

文久年間になったばかりのころ、試衛館は得体の知れない連中がやたらと出入りするようになっておりました。

「なんでえ、あいつら、べえべえべえべえ……田舎くせえ連中だな」

道場近隣の江戸っ子たちはそう陰口を叩き、“肥溜め道場”というありがたくないあだ名すら付けられています。近藤らの訛りをからかっていたんですね。

そんな中で、原田はさぞやいきいきとしていたのだろうと想像したくもなりますが、そうでもなかったようでして。

得意の槍をとるわけでもない。

かといって、木剣や竹刀を手にするわけでもない。

道場に続く畳敷きでゴロゴロ寝てばかりだったとか。

土方歳三は、ふらりとそんな試衛館によく立ち寄りました。

家伝の石田散薬を入れた箱を置き、そのまま吉原の遊郭に行き、朝帰り。すると、原田や永倉といった連中が朝食をとっているわけです。

「ったく、近藤さんも人がいいもんだな……」

土方は挨拶するわけでもなく、横目で彼らをチラッと見るだけで立ち去っていたとか。

土方歳三/wikipediaより引用

近藤勇は、わけのわからん原田を追い出すことはありません。むしろ寝場所と食事を提供したのでした。

関羽に憧れていたという近藤には、義を重んじる美風があった。

試衛館とは、さながら幕末梁山泊であったのです。

のちに永倉や原田は「近藤の態度が変わった」と不満を募らせるようになりますが、彼らの脳裏には「人徳に溢れ器の大きい近藤の姿」があったのでしょう。

 


芹沢鴨を粛清

挿話からしてともかく血の気の荒い原田左之助。

上洛から新選組結成までにおいてはあくまで脇役でした。

もちろん原田のような血の気の多い青年が、黒船来航以来の激動の時代で、ジッとしているわけもありません。

文久3年(1863年)、芹沢鴨を暗殺し、近藤勇一派が新選組を掌握する中において、原田も刺客として存在感を見せています。

原田と気の合う永倉新八はこのことを知らされておらず、事件発生後に知りました。

この芹沢鴨の粛清は、フィクションで描かれるような派手な顛末があったことは確かで、京都の八木家に行けば美味しいお茶と和菓子つきで、ガイドの方から聞くこともできます。

◆八木屋(壬生屯所旧跡)(→link

芹沢派の粛清後も、同様の行為は止まりません。

新選組内部では長州藩間者(スパイ)の粛清が相次ぎ、その一人である楠小十郎は、原田に背後から襲撃されて亡くなった。

そこで「あァ気持ちいいな」と口走った原田を、近藤は嗜めたとされます。

原田の異常性を象徴するかのようなこの話。

政治的な背景や時代のことを考慮する必要性も感じます。

◆幕末当時の青少年はともかく暴力的解決手段に酔っていた

渋沢栄一ですら世直しのために城を乗っとる計画を立てたほど

◆新選組は無思想ではない

→多摩豪農出身者である近藤勇を中心とした派。尊王攘夷を掲げた水戸藩出身の芹沢派。のみならず長州藩出身者もいた

 

新選組に潜り込んだスパイの有無

芹沢鴨の一件をはじめ、新選組には「スパイ&粛清」の話がついて回ります。

フィクションであれば確かに面白い要素となるのですが、実際のところはいくつか大きな疑問が湧いてきます。

ピックアップしてみますと……。

◆結成したばかりの「壬生浪士組」をわざわざスパイする?

→まだどういう集団か、本人たちすらわかっていない

◆スパイとバレバレの潜入する?

→「長州藩? これはスパイだな!」となるようでは意味がない

◆長州藩と会津藩の対立軸はまだ確立していないのでは?

→決定打となる事件前夜であり、結果論としての誘導を感じる

◆そもそも長州藩が揉めている

→実は長州藩そのものが分裂していた

様々な要素を考えるに、そう容易くスパイが潜り込まれたとも思えません。

そうなると次の大きな疑問が湧いてきます。

なぜ新選組は隊士を粛清したのか?

これもまたいくつか要因をピックアップしていきますと……。

◆幕末の宿命

→意見の相違で殺し合いになるのは様々な藩や団体であり、その中でも新選組は知名度が高いので目立つ

◆入隊チェックが緩い

→身分や出身を問わず入隊できるため、様々な素性の人物が入り込める(郷中制度を母体とし閉鎖的な薩摩藩とは対照的)

◆世直しを掲げている点は同じ

→思想的には、新選組もその他の浪士も、実は大差がない

とまぁ、人の流動性が高ければそれだけ怪しい人も来るし、意見も対立します。

藩や塾が主体となっていないだけに、まとまりに欠けやすいものでした。

仮に現在のような「求人広告」を出すとこんな感じになりそうです。

求人

勤務内容:世直し

条件:武士登用制度あり!

居住地は?:八木家、アットホームな職場です!

剣術は?:永倉、沖田、斎藤……親切丁寧に指導します!

経験は?:未経験者歓迎!

知名度は?:洛中シェアNo.1をめざします!

給与は?:もちろん幕府からの賞与有

必要なのは?:やる気と笑顔、度胸

モットー:よりよい国をめざします! 夢に向かって頑張りましょう!

いかがでしょう。

新選組に入りたくなりますか? なんだか胡散臭い雰囲気で、できれば避けたくなりませんか?

しかし当時の若者は「世直しっていいね!」とばかりに入隊してしまう。

そして勤務開始後、雇う側も雇われる側も違和感を覚えることがあるわけです。

芹沢鴨がなぜ粛清されたのか。暗殺の一因として、横暴なふるまいがあげられます。暗殺は褒められたものではないですが、職場環境改善という狙いは感じられます。

“長州藩出身・スパイ認定者”は、近藤一派と思想的な部分で一致せず、不満を抱いていたのでしょう。

事前に芽を摘むために、粛清されたわけです。

近藤勇としても、ノリノリで実行するわけではありません。

権限を自分へ集中させ、隊内を引き締めるための必要悪です。

彼は、フィクションで強調されるような兄貴肌だけの人物でもなく、なかなか政治力のある人物でした。

 

幕末の青春と教育格差

そんな近藤に利用される駒として原田は便利な存在でした。

芹沢鴨暗殺に永倉が声をかけられず、原田だった理由――ひとつ大きな要因として考えられるのが【教育】です。

幕末の訪日外国人たちは、確かに日本の識字率の高さには驚きましたが、一方で当時から【教育格差】は存在していました。

注目したいのは以下の二人です。

◆土佐藩の岡田以蔵

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◆薩摩藩の“人斬り半次郎”こと桐野俊秋(中村半次郎)

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剣術の腕すさまじく「幕末の四大人斬り」にも数えられるこの二人には

【教養がない】

という哀しい共通点がありました。

四書五経のような武家の伝統的教養もないまま、勢いだけで突っ走る――そんな者たちを利用しながら、彼らの上に立つ者たちはため息をついていたものです。

岡田以蔵に対しては、武市瑞山が。桐野利秋に対しては、西郷隆盛が。

「あれももっと教養があれば……」

そう嘆いたものです。

西郷隆盛(左)と桐野利秋/wikipediaより引用

思想的背景がない者は、よくも悪くも利用しやすい――そこは残酷な史実です。

確かに幕末は教育格差が縮まった時代ではあり、相楽総三のように、豪農出身でありながら思想を身につけた人物もおりました。

土方歳三もまた、こうした典型例になりましょう。

漢詩を詠む近藤勇ほどの教育は受けていない。俳句を嗜むオシャレな青年。

彼なりに、修練をしたのでしょう。メキメキと勉学に励み、人の上に立つ力量と知性を発揮しております。

しかし土方のように勉学に励む者はあくまで少数派。

原田左之助も、岡田や桐野のように勢いで突き進む、幕末の典型的な一青年でした。

 

近藤にとって使い勝手のよい存在

草莽崛起(そうもうくっき)――。

こんな言葉があります。

吉田松陰が語った概念であり、世直しの意識を持つ在野の人材が、藩籍に縛られずに立ち上がるということです。

吉田松陰/wikipediaより引用

これは吉田が一から考えたわけでもなく、彼特有のものでもありません。

背景には“フレイヘイド”があります。“自由”とざっくりと翻訳されますが、そこにあるのはフランス革命にあった熱い魂でした。

ナポレオンの伝記を読みふけった吉田松陰の脳裏には、ある姿がありました。

革命の旗を掲げ、イタリア遠征を勝ち進む、ナポレオン・ボナパルトのものです。

こうしたフランス革命の情報を幕府は必死に隠蔽します。

第一帝政終焉からおよそ半世紀を経て、革命の熱気は日本にも到達。

立場を超えて、何かを成し遂げたい、世を改革したい気持ちは、日本の青年の胸にも伝わっていたのです。

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この熱気が松下村塾生だけのものであると誤解すると、幕末史は理解しにくくなります。

藩、身分、立場は違えど、草莽の若者たちは大勢いました。

そんな中、原田のようなタイプは、思想がないだけに使いやすい。

新選組を描くフィクションでは、インテリタイプが危険で陰険なように描かれがちです。

『るろうに剣心』で武田観柳のモデルとされた、武田観柳斎が典型例でしょう。

 

なぜ、そんな描かれ方になるのか?

近藤勇が憧れていたのは、関羽でした。

義を為すためには、諸葛亮のような軍師・ブレーンが必要となり、武田のようなインテリが重用されます。

しかし、なまじ思想があると、自分の抱いてきた思いと一致しないと、どうしても疑念を感じてしまう。ゆえに、自分の知能で策を練り、やがて新選組から離反してしまう。

それを「陰険だ!」と断罪する、歪んだ構造があったんですね。

ただしこれは新選組特有の話でもありません。

長州藩の脱退騒動もそうですし、薩摩藩に至っては西南戦争という内輪揉めをやらかしました。

フランス紙に描かれた西南戦争時の西郷軍/wikipediaより引用

長くなりましたが、要は近藤にとって原田は使い勝手が良かったんですね。

武田観柳斎のような頭脳、思想はない原田。

その人気の理由をつきつめていくと、槍の名人であることが浮かび上がってきます。

リーチの長さは特徴的。

屋内戦闘では不利でも、屋外であればむしろ有利です。

池田屋事件】では、土方隊に所属し、屋外で追跡をしていたとされます。

フィクションでも、武器が異なるため目立ち、華やかな存在となります。

確かに新選組には、谷三十郎という槍の名人もおりましたが、それでも原田が目立つのは滅法明るいキャラクター性ゆえのことでしょう。

 

四国男子が斬り合う時代

原田左之助は、豪快なキャラクター性が愛されています。

その性格は、幕末で存在感を見せる土佐藩とも共通するのものがありました。

幕末の京都と言えば、過去に経験がないほど日本全国から草莽の志士が集っていたもの。当然ながら地域性というものはあり、藩毎に性格や個性はバラバラです。

知性や理論先行の長州藩。

豪快なようで策もある薩摩藩。

そんな中、明るくノリがよく、敵対者をおちょくって挑発するようなタイプだったのが土佐藩士です。

坂本龍馬のキャラクターは彼一人だけのものではなく、土佐藩全般の気質でもあったんですね。

坂本龍馬

原田左之助の伊予松山藩は、親藩であるために徳川家を守る気持ちがありました。

とはいえ、明るくカラリとした性格は、土佐藩に通じるのびのびとしたものを感じさせます。

そんな四国出身者同士が対立した事件が、慶応2年(1866年)の【三条制札事件】です。

当時の京都には、長州藩が朝敵であるとする制札があり、これに怒った何者かが引き抜く事件がありました。

たかが看板、されど看板。新選組は引き抜き犯を見張るため、目を光らせていました。

そうして新選組が見張っていたあるとき――。

「なんだこの立て札は! 抜いちゃる!」

土佐藩士8人が、そう怒り始めたのです。

報告を聞いた原田は、早速、隊士ともども駆けつけ、乱闘となりました。

原田自身も傷を負うほどのバトル。

幕府から報償金200両が下され、そのうち20両は原田に与えられます。

このとき、土佐藩士を逃す原因になったと咎められたのが浅野薫でした。恐怖のあまり、適切な行動を取れなかったのです。

その死には諸説ありますが、新選組にとどまることができず、高台寺党加入も叶わないまま、沖田総司によって殺害されたと伝わります。

いずれにせよこの一件で原田は土佐藩士に嫌われてしまったようです。

大正12年(1923年)の愛媛新聞に「坂本龍馬殺害犯は原田左之助だった」という記事が掲載されました。

原田犯人説の傍証は、以下のようなものです。

・伊藤甲子太郎による、現場に落ちていた鞘が原田のものだという証言

・「こなくそ!」という、伊予弁を犯人が話していたという証言

なかなか強引な主張ですし、実際のところ犯人は原田ではありません。

現在は、坂本龍馬暗殺の指示者は松平容保で、実行犯は見廻組とされております。

松平容保/wikipediaより引用

いずれにせよ原田が犯人にデッチ上げられ、愛媛県民と土佐県民が争うとは……幕末の殺伐とした状況が大正時代にまで影響したのかと思うと恐ろしいものがあります。

 

妻子との別れ

慶応元年(1865年)3月。

原田はマサという女性と結婚し、茂という男児も授かっておりました。

マサは芸妓ではなく、商人の娘です。原田はマサのいる自宅から屯所に通いました。

「立派な武士になるんだぞ」

息子の茂にそう語りかける夫のことを、マサは記憶しています。時には茂を抱いて、屯所に見せに来ることもあったとか。

しかし、原田が祝言をあげた元号が慶応となったころには、彼の生涯に影が差してきます。

原田という人物は裏表がないだけに、政治的な動きは見られません。いざ幕府と新選組が傾いてしまうと、彼のようなタイプは切り替えが難しく……。

慶応3年(1867年)12月、マサは悲痛な思いで夫を見送りました。

「俺にもしものことがあったら、俺に代わって茂を立派な武士にしてやってくれ。頼む、どうか、頼むぞ!」

原田はそう言い残し、去ってゆきます。

そしてそれが永遠の別れとなるのです。

翌慶応4年(1868年)――。

鳥羽・伏見の戦い】で大敗を喫した新選組は、江戸へと落ち延びるしかありません。

その後【甲陽鎮撫隊】として甲州へ向けて出陣すると、【勝沼の戦い】で大敗を喫しました。

ここで永倉新八と原田は、近藤勇の態度に腹を立てて、袂を分かつとされてはいます。

永倉新八/wikipediaより引用

永倉が近藤の態度が不満であったことは確かでしょう。

『燃えよ剣』のように、土方という軍師なくして知的な行動が伴わない――そんな描き方もわかりやすいものです。

しかし、このあたりも幕末の理解にありがちな事実単純化の悪影響があります。

◆近藤勇の政治力過小評価

→フィクションの弊害として、近藤を愚鈍としてしまう印象論があるが、史実の彼は賢く政治力もある。

◆結果論の弊害

→【甲州勝沼の戦い】で惨敗したのは事実なれど、近藤が愚かだとか、武士になって浮かれたせいではない。

「近藤がこんなに愚かなら仕方ないよな。永倉や原田もイヤになるよね」と考えるのは早計でしょう。

◆近藤勇が出世

→幕末最終局面において、近藤勇らが幕臣に取り立てられたのは確かなことです。ばら撒き恩賞でもなく、その能力を見越しての登用で権限も与えられておりました。

◆混迷の幕府

→近藤を幕臣にした幕府側も一枚岩ではなく、徳川慶喜とその意を受けた勝海舟は、幕府を終わらせることを考えています。しかし、徹底抗戦する幕臣もおり、近藤らもその一人に数えられる。

◆指揮系統の問題

→近藤は、新選組のことを個別の組織であり、自分と隊士に君臣関係があると認識していたが、会津藩御預かりであり、これがややこしいことになる。

【主君――家臣】

近藤勇――隊士

松平容保――近藤以下新選組全員

こうした齟齬があったと理解すれば、永倉新八の「近藤勇の家臣になったつもりはない。武士とは二君に仕えずである」という決別の弁も理解しやすくなります。

ちなみに、こうした状況も新選組だけの話ではありません。

薩摩藩では実質的に藩主だった島津久光の命令に対し、西郷隆盛ら藩士が服従せず、このことが対立軸となっております。

島津久光/wikipediaより引用

崩れゆく幕藩体制の中で、血統として定められた秩序の中で生きていく者もいれば、自分で勝ち取った地位で責任を取ろうとする者もいる。

どちらが正しいとか、そういうことではありません。

日本を束ねる主とは将軍であるか、天皇であるか?

それが幕末という時代にあった争点――。

近藤勇の死後も、土方が指揮する系統と、会津藩にとどまる斎藤一の系統において、新選組は別れています。

幕末ならではの現象と言えるでしょう。

斎藤一/wikipediaより引用

そんな混沌とした状況において、原田は永倉と共に靖共隊(せいきょうたい)を結成。

副長として、日光を目指す大鳥圭介ら抗戦派幕臣のあとを追おうとします。

しかし理由が判然としないまま、山崎宿(千葉県野田市)で離脱し、江戸へ向かうのでした。

「用を済ませたらすぐに追いつく」

そう告げて去ったと伝わりますが、その“用”が何であるか、結局のところは不明。残してきた妻子に会いたかったという理由は推察に過ぎません。

二ヶ月ほど消息が途絶える間、原田は、他の新選組隊士と合流していました。

そして【上野戦争】で被弾し、戦傷死を遂げたという記録が残されています。

享年29。

上野戦争(画:歌川芳盛 )/wikipediaより引用

マサは、夫と別れたのち、官軍によって何度か取り調べを受けました。

混乱の中で二番目の男児を出産したものの早世。

世の中が明治になって少し時がたつと、マサのもとへ夫の訃報が届けられたのでした。

後にマサは茂と共に神戸に移り住み、子や孫とともに穏やかに生きました。

子母沢寛(しもざわ かん)に自分の体験談を語ったマサは、夫の埋葬地を探していたとのことです。

そんなマサも、昭和5年(1930年)に享年83で亡くなっています。

鉄火肌で豪快な原田左之助には、満洲に渡って馬賊となり、日清戦争・日露戦争で支援したという伝説もあります。

大陸への熱気にあふれていた明治の願望と、彼自身の持つ熱い血潮ゆえ、そのような話が生まれたのでしょう。

時代のために戦った志は、勝敗を問わず尊いものだという願望も感じさせます。

新選組内部でも、原田は思想が薄く、政治的な重要性は決して高いとは言えません。

永倉新八や斉藤一のように明治を生きたわけでもなく、取り上げる意義を考えつつ、その生涯をたどりました。

私なりの考えですが、彼は典型的な幕末を生きた一青年であると言えると思います。

暴力的であり、誰かを斬って平然として、快感を口にするというのは、あまりに異常に思えるかもしれません。

しかし、それこそが時代の肖像でもありましょう。

立場の違いはあれ、岡田以蔵や、桐野利秋のような人物も、原田と通じるものを感じます。

原田左之助は、ひたむきに生きた幕末青年の一典型でした。


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【参考文献】
宮地正人『歴史のなかの新選組』(→amazon
松下英治『新選組流山顛末記』(→amazon
平野勝『多摩・新選組紀聞』(→amazon
新人物往来社『新選組大人名事典』(→amazon
『国史大辞典』
『角川日本史辞典』

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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