笠懸/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 その日、歴史が動いた 日本史オモシロ参考書

守護地頭の役割や違いがバッチリ分かる!なぜ頼朝は設置したのか?

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鎌倉時代の始まりは、武家政権の始まり。
平安時代までとは異なる、新しい役職や単語が出てきます。

その圧倒的代表が【守護】と【地頭】でしょう。

源頼朝が設置した役職として有名ですが、平行して語られることが多いために、
「ドッチが、どんな仕事をしているの?」
なんて混乱したりしてません?

そこで本稿では、
『そもそも守護地頭とはどんな役職なの?』
という点から述べ、続けて、設置の経緯等も見てみたいと思います。

 

守護=各都道府県に置かれた【警察の本部長】

まずは守護から。
現代に置き換えるとすれば、各都道府県に置かれた【警察の本部長】みたいな感じです。

国ごとに一人ずつ任命され、
・大番催促
・謀反人の逮捕
・殺人犯の逮捕
などを主な職務としていました。

「大番」とは、京や鎌倉の警備のことです。
これを各地の御家人に任命して、現地へ行かせる役割ですね。

特に鎌倉の警備は御家人にとって当たり前のことですが、わざわざ守護の職務で「催促」とついているからには、行きたがらない者も少なくなかった。

領地が遠い場所にある者や、懐事情が厳しい者ならなおさら。
「来月からオマエさん、鎌倉行きだけどダイジョブ?」
みたいな感じでは終わらなかったでしょう。

謀反人と殺人犯の逮捕は、まぁ、言葉のまんまで、犯罪者の取締ですね。

この三つのオシゴトをまとめて
【大犯三箇条(だいぼんさんかじょう)】
とも呼んでいました。

ただし、この用語自体は室町時代にできたものだという説が有力でして。

大番催促を外して傷害事件の犯人・夜討・強盗の逮捕を加えた
「重犯五箇条」
とするべきだという意見もあるとか。ややこしい(´・ω・`)

まあ、どっちにしろ「守護は各国に一人ずついて、警察の仕事をしていた」点は変わりません。

犬追物/wikipediaより引用

 

地頭=年貢の徴収と治安維持

次は地頭について。
荘園や公領など、国よりも小さい範囲ごとに一人ずつ設置されました。

職務は年貢の徴収と治安維持です。

実は、平家も似たような役職を作っていたそうです。
頼朝がそれを意識したかどうかは分かりませんが、効率的なシステムだったのでしょう。

各国に何人かいる地頭の中から守護が選ばれましたが、守護と地頭に直接の上下関係はなく、それぞれの任命権は幕府が持っておりました。
そのためトラブルもよく起きていたようです。

特に地頭のほうは直接年貢の徴収を行う者も多かったせいか、
「泣く子と地頭には勝てぬ」
なんて言葉ができたくらいですからね。
当時の武士には、荒っぽい人も多かったでしょう。

むろん、普通に仕事をしていた地頭もいたはずですが、悪いイメージのほうが数倍・数十倍に感じたり、語られたりしますしね。

意外な決まり事としては
【女性も地頭になれる】
ことですかね。
その場合、徴収などに赴くわけではなく、責任者・権利者というところでしょうか。

ただし、女性が守護になることはできませんでした。

守護だと大番役の監督なども行うため、兵学の知識を得にくい女性では難しいと考えられたのかもしれません。
子供や孫の養育などもありますしね。
ただの女性差別であれば、そもそも地頭にすらなれないでしょう。

 

荘園領主たちとトラブルありがち

貴族の荘園などを直接管理する地頭には、自然と「土地」がらみのトラブルが増えていきました。

・地頭から守護に出されるはずの年貢が目減り
・権利を巡って荘園領主と衝突

特に後者はややこしい問題でした。
ヘタをすれば

武家(地頭)
vs
皇室・公家・寺社(荘園領主たち)

という紛争に発展しかねません。
そこで新しいシステムが考え出されます。

一つは【地頭請】です。

荘園領主が、年貢の回収と納入を地頭に任せるというものです。
「請」の文字通り、実務を請け負うわけですね。

地頭は回収した年貢の中から、荘園領主の取り分を納入し、残った分から自分の分け前などを取りました。
地頭が誠実な人でないと成り立たないというデメリットもありますが、荘園領主とのパイプをきっかけに、何らかの便宜や見返りを受けた者もいたでしょう。

もう一つは【下地中分】です。

権利だなんだとめんどくさいことをせず、地頭と荘園領主で荘園を半分ずつ分け、それぞれ自分で管理するというやり方です。
こっちのほうがわかりやすいですね。

年貢=収入が半減することにもなりますが、回収は自分たちで行うため、一定の収入を確保できるのがメリット。
より確実性を重視する人ならこっちを選ぶでしょうね。

「和与中分」といって、荘園領主と地頭の話し合いで年貢や権利を平和的に分け合う方式もありましたが、マイナーだったようです。
まあ、直接収入に関係することですから、どっちもそう簡単には引き下がらないですよね。

流鏑馬/wikipediaより引用

 

最初は「平家討伐が完了まで」の期限付

守護と地頭について。
何となくイメージできたでしょうか?

次に、設置までの流れを確認します。

源頼朝が、平家討伐の兵を挙げ、紆余曲折を経て鎌倉に入ったとき、家臣の進言によってまず関東の地固めに取り掛かりました。
守護も地頭も、そのために生み出された役職です。

守護は当初「惣追捕使」と呼ばれ、平家追討の一翼を担いました。
一方、地頭は当時「国地頭」と呼ばれ、元々荘官(荘園の現地責任者)などをしていた武士に、改めてその土地の支配権や、地元武士の動員権などを与えたものです。

地縁的な繋がりは圧倒的に地頭が強いんですね。
というか、地縁そのもので。

戦国時代でイメージすれば、信濃の一部で勢力を張っていた真田幸村真田信繁)。
あるいは遠江で今川の傘下にありながら土地を有していた井伊直虎など。
そういった地侍が近いかもしれません。

元暦元年(1184年)、源氏軍が平家討伐のため本格的に西上すると、頼朝は「平家の残党狩り等のため」に、西国にもこれらの役職を置くことを後白河法皇に奏上しました。

いかにもゴタゴタして断られそうな案件ですが
「平家討伐が完了するまで」
という前提で許可が出ます。

その後、源範頼源義経らによって平家討伐が成功。

各地に残る落人伝説などからして、平家の残党は多かったようで。
彼らの追っ手となったのがおそらく惣追捕使だったのでしょう。

後に源頼朝に「日本国第一の大天狗」と罵られる後白河法皇/Wikipediaより引用

 

頼朝も最初は素直に引き下げる

このような流れがあったため、平家討伐が終わると、後白河法皇などは
「もう惣追捕使とか国地頭とかいらないよね? 廃止してくれない?」(※イメージです)
と思っていたようです。

そりゃあ皇族や貴族、寺院など、既存の荘園領主からすれば、
「頼朝だかなんだか知らんけど、ウチらに来る年貢が減ってんじゃーん! そもそも戦の間だけの役職だったでしょ? 早く出てって!」(超訳)
としか思えないですしね。

当たり前といえば当たり前のことです。

その空気を読んだのか。
頼朝のほうから
「そろそろ落ち着いてきたんで、惣追捕使と国地頭を一時停止します」(意訳)
と申し出ました。

あまり朝廷の機嫌を損ね続けていると、ちょっとしたヘマをきっかけに自分が討伐されかねません。
おそらく頼朝は、その辺のバランスを考えて自ら言い出したのでしょう。

実際に、これらの機能は一時停止されました。
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