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帰蝶こと濃姫の若い頃です。8オイチとはオイチを10とした数値です

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織田家 その日、歴史が動いた

濃姫(帰蝶)とは? 織田信長の妻でありマムシの娘でもあった彼女の「その後」マトメ

更新日:

【人物概略】

濃姫(帰蝶)……織田信長の正室とされる女性。1535年頃の生まれと伝わっており(正確な生没年不詳)、織田信長とは1549年に結婚。父は美濃のマムシとして恐れらた斎藤道三である。道三は信長の父・織田信秀と数年来争っていたが、平手政秀によって和議が成立し、濃姫との結婚となった。
蛇足だが、2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』の井伊直虎も1535年頃の生まれとされる(こちらも不詳)。

【本文】

織田信長というと苛烈もしくは改革者としてのイメージが強いですが、意外にも「女性を重視していたのではないか?」という研究者もいます。
妹・お市の方をはじめ、彼の周辺には名前がはっきりわかっている女性が多いからです。

他の大名であれば奥さんがいても「誰それの女(と書いてむすめと読む)」としか記録されていないことも多いのですが、信長の場合、側室や養女の名前はもちろん、その出自や嫁ぎ先まできっちり記録されているケースは珍しくありません。
しかし、その信長に最も近しかったはずの女性についてはただ一つの例外ともいえる扱いになっており、数々の謎を生んでいたりもします。

「好きだったよ、じい」(富永商太・絵)

「今回の主役はワシの嫁!」(富永商太・絵)

天文十八年(1549年)の2月24日は、織田信長と斎藤道三の娘が結婚したとされている日です。

前年の秋という説もありますが、ここではこの日付の出来事として扱います。
美濃から来た姫=濃姫と呼ばれていることの多い彼女ですが、その実像は意外なほど謎に包まれています。

◇なお当サイトでは、濃姫&信長さんのカップルを思い切って4コマ漫画化しております↓

アニィたかはし「戦国ブギウギ」第3回

アニィたかはし「戦国ブギウギ」より

 

濃姫の記録は婚姻のことしか残されていない 跡取りもいない

当時女性の本名は明かさないのが普通でした。

そのため、「出生地や親の居城」+「殿or姫or方」という呼び名をつけられることは珍しくないのですが、濃姫については、それ以外のことがまるっきり不明なのです。

本名は”帰蝶”だったという話もありますが、この名前が出てくるのは江戸時代の書物のようですので、確実なものではないとか。同じく「信長との間に子供はいなかった」というのも真偽がハッキリしません。

まさに謎が謎を呼ぶ女性なのですが、もう少し彼女について考えてみましょう。

そもそも濃姫に関する記録で、各書物共通の事柄は結婚したときのことしかないので、その後どうしていたかも意見の分かれるところです。

今のところ、大きく分けて三つの説があります。

 

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早いうちに離縁された&病死した説

子供ができないので離縁したとか、あるいは病死したという説です。

しかしヘンリー8世でもあるまいし、信長が宗教的にお側の女性を増やせないというわけでもないですから、子供ができないからといって正室を実家に帰すというのは考えにくいような気がします。

それに、道三は「ワシの息子より婿殿のほうが頭イイから、美濃は婿殿に譲るよ!」という遺言を残していたと司馬遼太郎さんが「国取り物語」で言っていますが、もし濃姫と別れるとなると信長は「美濃の後継者」を名乗れなくなるということにもなります。まあ、この遺言は歴史家からは偽文書と断定されているのですが。この時代、正室でもいつ亡くなったのかわからないのは珍しくありませんから、早いうちに病死したというのは否定し切れませんが。

 

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本能寺の変で死亡説

これは小説やゲームなどの創作で多いパターンですね。

画面映えしますし、夫に準じたというロマンもあることからお馴染みのシーンですが、現実味の点からすると可能性は低いでしょう。

そもそも信長は、秀吉が「中国地方攻略できません!」という泣き言(のふり?)を言い出したがために援軍に行く途中で本能寺に泊まっていたわけですから、わざわざ正室である濃姫を連れていく理由がありません。秀吉が小田原征伐の際やったように、長丁場になって妻を呼び寄せたというのとは違いますしね。

もし濃姫が武道にも通じていて、常に信長の出陣にも付き添っていたのであればそれこそそういう記録が残っていそうなものですし。武家の女性として嗜みはあったと思いますけども。

 

長生き説

反対に、江戸時代まで生きたのではないか?という説もあります。濃姫と思しき女性がいくつかの記録に出てくるのです。

まず、永禄十二年頃(1569年)例の風変わりな貴族・山科言継の日記「言継卿記」に信長本妻という単語が出てきます。

「彼女は出産したが、男子ではなかった。そのため側室の子供である織田信忠を彼女の養子にして跡継ぎにしたらしい」という記述もあるので、これが本当ならすぐ離縁・病死説は否定され、さらに女の子を産んでいたことになりますね。

次に、アホの次男として有名な織田信雄の分限帳(家の中での所領配分が書かれた、大名としての家計簿のようなもの)に「安土殿」という女性が出てきます。時期がハッキリしませんが、本能寺の変の後であることは確かです。

信長の本拠であった場所の名前がつくとなると、正室である濃姫の可能性が高いですよね。

この当時女性にも領地(化粧料)が与えられており、その序列を記した部分の最初のほうに出てくるため、身分の高さも窺えます。他にも所領の多い女性のうち、何人か素性のハッキリしない人がいるので、そのどれかが濃姫ではないかといわれています。

また、本能寺の変の一年後にやはり「安土殿」という女性が信長の一周忌法要を営んだという記録もあります。

この女性は慶長十七年(1612年)に信長の菩提寺・総見院に葬られており、信長本妻と安土殿が両方とも濃姫を指していたとすると、かなりの長生きをしたことになります。とはいえ、もし濃姫が早く病死していて、その後信長が新たに正室を迎えていたとしたら別の女性が「安土殿」と呼ばれていた可能性も高いわけで、これまた断定はできなくなってしまいます。

他にも「母の実家である明智家に返され、斎藤義龍に攻められた際一家揃って自害した」とか「嫁いですぐ殺された」とか「本能寺の変を知り、安土城から急いで逃げた」とかいろいろありますが、考えれば考えるほどワケワカメになりますのでこの辺にしておきましょう。

 

きっちりと大奥を掌握していたやり手だったのでは

しかし、彼女について一つだけ断定しても良さそうなことがあります。

信長は跡継ぎを得るために結構いろんな女性に手を出しており、奥にはたくさんの側室がいました。

あの信長の”大奥”ならさぞや血で血を洗うより恐ろしいドロドロ劇になっていたのではと思われるかもしれませんが、後世の大奥と違い(?)スキャンダルの類は記録されておらず、風説レベルですら残っていません。

これはつまり、正室=奥の主である濃姫が、数多い側室達にきっちり序列を守らせていたのではと考えることもできますよね。

上記の通り、信忠は正室である濃姫の養子になったことで嫡男になることができましたし、信雄以下の息子達とその母親達が「ウチの子の方が優秀ですから、ぜひ後継に!」という騒ぎを起こした形跡もありません。

同じ母親から生まれた織田信長・織田信行兄弟よりもよっぽどうまく行っているというのは皮肉なものですが、信忠がぐうの音も出ないほど優秀だったということかもしれませんね。以前の記事を含め、当コーナーはひたすら信忠さんを評価し続けております。

その頃には実家も滅びてしまっていますから、後ろ盾がなく頼りない女性だったら皆言うことを聞かなかったでしょう。ということは、濃姫が正室として皆に認められていた証拠ではないでしょうか。

濃姫像

 

信長にもびしっと言うことを言うしっかりした女性だった!

魔王信長に直言を入れるものなど誰もいない。
しかし、濃姫はそんな例外だった可能性があるのです。
信長は濃姫の実家の斎藤家を倒し、岐阜城(当時は稲葉山城)に入りますが、そこにいた義竜の妻にお前が持っていた有名な壺があるだろ、出せ」と命じます。
しかし妻は「落城のごたごとで行方不明になりました」と答えますが、信長は「ウソだ」と納得しません。妻は「信じてもらえないなら死ぬしかない」と答えました。
これに呼応して、濃姫が「そこまで信じられないなら私も一族のものと自殺します」と言い出したのです。さらに美濃の有力な武士たちも同調する動きを見せます。イメージ通りの信長ならそこで全員処刑となりそうですが、信長が折れたのです。

これも公家・山科言継の日記『言継卿記』にあるのですが、山科が岐阜城滞在中にその有力武士の1人(佐藤紀伊入道忠能)から直接聞いた話として紹介されているので、信憑性が高いのです。

個人的には、山岡荘八先生の小説に出てきたような「信長のやりたいことを予想・理解できる唯一の人間」だったらいいなあと思っております。

なにせ「蝮の娘」なんですからね。

織田信長は意外と優しい!?【入門】桶狭間から本能寺までの49年を最新解説!

長月 七紀・記

 

参考

勝俣鎮夫「織田信長とその妻妾」『愛知県史のしおり 資料編11 織豊1』2003年

http://ja.wikipedia.org

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http://www.gokuh.jp/ghp/busho/fem_001.htm

 




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