三国志時代の大量死

絵・小久ヒロ

三国志

『三国志』時代は人が大量に死に過ぎ~人口激減で漢民族は滅亡危機だった?

中国のみならず世界中のあらゆる国で人気のある三国志

ゲーム、小説、漫画……と、数々のエンタメ作品が送り出され、酒の席の話題となれば歴史好きの多くがワクワクしてしまう――まさしくキラーコンテンツの一つです。

しかし三国時代を楽しむ一方で、ある“不都合な真実”があまり注目されないのはなぜでしょうか。

というか、ほとんどの皆さんは気に留めたこともないかもしれません。

実はこの時代、とてつもなく大勢の人々が亡くなった時代でもあるのです。

 


鎧兜にはシラミがわいている 何万人も死んだ

以下は曹操の詩『蒿里行』(こうりこう)からの抜粋です。

鎧甲生虫[幾]蝨
万姓以死亡
白骨露於野
千里無鶏鳴
生民百遺一
念之断人腸

鎧兜にはシラミがわいている。

何万人も死んでしまった。

白骨が野に散らばり、千里にわたって鶏の鳴く声もない。

生き延びた人は百人に一人ほど。

このことを思えば私のはらわたは悲しみにちぎれそうになる。

彼がそう嘆いたように、この時代は人の命が軽く、多数の犠牲者が出ました。

※以下は曹操の関連記事となります

規格外の英雄その名は曹操!乱世の奸雄は66年の生涯で何を夢見ていたか?

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三国志関連の作品を楽しんでいても、このあたりのことはあんまり意識しなかったりするんですよね。ゲームだと死体は消えるし、ドラマでも苦しむ民衆なんてあまり映りません。

では、どのくらいの人々が犠牲になったのでしょうか。

これには諸説あり、数値にも幅はありますが想像を絶するような数です。

例えばWikipedia英語版「人為的な要因による死者数ランキング(→link)」では、世界の歴史上で第三位に「三国時代」がランクイン。

その被害者数は……。

 


被害者数の最小推定値は3600万人

被害者数は最小で3600万人、最大で4000万人です。

中国の人口を考えれば大したこたぁない、なんて思うでしょうか?

もちろんそんなことはありません。

三国時代の前、漢代の平和な時代において人口は確かに増え続けておりました。

漢代140年の時点で世帯数はおよそ970万、人口はおよそ5,000万人いたとされます。

それが280年の調査では、およそ250万世帯で人口1600万人にまで減少していたのだから驚かされます。

単純計算で、720万世帯、3,400万人が戦乱の中で消えてしまったんですね。

これは先ほどのWikipedia の最小値との差は200万人であり、比率にしておよそマイナス70パーセントという途方もない激減っぷりとなります。

全国の数値でこの調子です。

ゆえに曹操が漢詩で述べたように戦乱の激しい地域では「千里にわたって鶏の鳴く声もなく、生存者は百人に一人」という惨状も、決して大げさではなかったのかもしれません。

たしかに、戸籍確認の不備等があったのでは?というツッコミもありますが、その辺は後述するとして、ともかく先へ進めますね。

 


董卓の専横、曹操の台頭、三国鼎立……

なぜ、さほどに犠牲が増えたのか?

三国志ファンの方でしたらスグにピンと来るでしょう。

十常侍」ら宦官の台頭による政情不安。

絶え間ない戦。

そして三国鼎立による国家分裂。

ありとあらゆる条件が重なり合いました。

中国の王朝崩壊は莫大な犠牲が出るものですが、後漢は、とりわけ酷かった。三国時代を舞台にした物語が常にスリリングであり、手に汗握る展開であるのは、その日常が常に死と隣り合わせだったからなのです。

戦乱は中国の中央部である中原にとどまらず、184年の「黄巾の乱」の時点で全国展開しました。

この時点でもし争乱が終わっていたとしても、甚大な被害が出ていたはずです。

乱が鎮圧されたあとは、董卓の専横、反董卓連合の戦い、曹操の台頭、赤壁の戦い、三国鼎立……三国ファンにはおなじみの戦ですね。

この間、戦乱に巻き込まれた庶民はどんな生活を送れたのでしょう?

横山光輝三国志で、劉備と共に逃げ惑う民衆たちがしょっちゅう描かれておりましたが、彼らは曹操の軍に追いつかれるといとも容易くなで斬りにされ、虫けらのように殺されていくばかりでした。

そんな状況の中で、疫病が流行ったら? イナゴが襲来したら? 対処はできたのでしょうか。

そもそも農作物を作ることすら贅沢なことだったのでは?

三国鼎立というのはエンタメとして歴史を味わう側にとってはワクワクするものですが、当時の中国大陸に暮らす人々にとっては終わりなき悪夢であったことでしょう。

 

隋や唐の王朝始祖も漢民族か否か、諸説ある

後漢から三国時代の急激な人口激減は、中国史だけでなく周辺の歴史地理にも影響を与えたハズです。

魏の三国統一も、魏を滅ぼした晋の天下もごく短期間のうちに終わりました。

北方から匈奴をはじめとする異民族がなだれこみ、天下は乱れます。

6世紀に隋、その後7世紀に唐が天下を統一するものの、その王朝の始祖が漢民族であるか否か?というのは、今も諸説あります。長い歳月の中で民族は入り乱れ、漢民族と同化していった者も多かったのです。

文化も変わりました。椅子に座るようになり、それにあわせて衣服も変化しました。

詩人・李白の「少年行」はそんな国際都市・長安の魅力的な場面を描いています。

五陵年少金市東
銀鞍白馬度春風
落花踏盡遊何處
笑入胡姫酒肆中

長安はセレブの街・五陵住まいのイケてる若者が、金市の東を歩いて行くよ。

白馬には銀の鞍、春風を受けて颯爽と進んでいくよ。

散りゆく花を踏みしめて、どこで遊ぶつもり?

笑いながら入っていくのは、かわいい異国のお姉ちゃんがいる酒場だね。

白いスポーツカーを乗り回す金持ちのお兄ちゃんたちが、かわいいお姉さんのいる酒場に入っていくという情景。なんだか今でも見られそうですね。

「胡姫」は西域の女性、現在のイラン系の人を指すと言われています。

すっかり生活の中に、他国の人が溶け込んでいる様子がうかがえます。

人種のるつぼ、大量移民が定住化した国というと、現代人ならばアメリカ合衆国が思い浮かぶところですが、中国もまたそうかもしれません。

三国時代はエンタメの舞台としてだけではなく、急激な人口減が国家にもたらす影響を考えるうえでも、なかなか興味深い事例なのです。

 


追記:歴史上の「死亡者数について」

本記事について、次のようなご意見をいただきました。

「記録がきっちり残されなかっただけなのに大げさでは?」

「何人死んだかなんてわからないのに適当に書いているんでは?」

なるほど。皆様のご指摘、疑問はもっともかもしれません。

本記事の作成にあたりましては、まず『殺戮の世界史: 人類が犯した100の大罪』(→amazon)の理論を参考とさせていただきました。

著者のマシュー・ホワイトがトンデモ本の作者扱いをされているという意見も見聞きしました。

ホワイトの理論が注目された大きなきっかけは、スティーブン・ピンカー氏が注目したこととされています。

ピンカーの業績その他は、長くなりますので割愛しますが、ピンカーが“デタラメを信じている”と指摘されるのでしたら、それ以上、私から申し上げることはありません。見解の相違ということでご承知ください。

しかし2020年は、ブラック・ライヴズ・マター運動により歴史の見直しが進み始めた年でもあります。

そうした見方の中で、このホワイトやピンカーの理論はなかなか示唆に富んでいます。

魏晋南北朝時代の人口減をきっかけに、せっかくですから新時代の歴史論を探ってみたいと思います。

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