織田信長のイラスト。赤い背景を背に、鋭い眼差しで前を見据える戦国武将の姿を描いた作品で、『信長公記』の主題を象徴するビジュアル。

絵・富永商太

斎藤家 信長公記

道三敗死で信長が殿を担った長良川|信長公記第24話

2019/03/25

今回のお話は、時系列的には前回23話の直後。

【長良川の戦い】で斎藤道三が討たれ、信長が戦場から撤退する話が中心です。

端的に言えば、義龍が勝つワケですが、たまったもんじゃないのが道三救出に出向いた織田軍です。

周囲は敵だらけになってしまったのです。

📚 『信長公記』連載まとめ

 

蘭丸の父・可成も膝下を斬られ

斎藤義龍は道三の首を含めた首実検を終えた後、織田信長が布陣している方角にも兵を向けました。

すでに信長軍も戦闘を開始していたところに、義龍本隊が加わってより激化。

信長軍のうち数名が討死し、側近の森可成(よしなり)も、馬上で戦っているうちに膝下を斬られ、退かざるを得なくなります。

森可成の肖像画

森可成/wikipediaより引用

膝をやられると馬上で踏ん張っていられませんし、落馬して戦闘を続けていたら格好の的になって、そこから崩れるということも考えられる。

息子の森蘭丸があまりにも有名なので、父である可成は世間的な知名度が高くありませんが、彼は間違いなく信長軍の名将の一人です。

また、森可成の次男・森長可(ながよし)も猛将として戦国ファンには知られていますね。

森長可/wikipediaより引用

義龍に攻められ、織田軍が不利になりつつある中、ここで信長に「道三討死」の報が届きました。

助ける相手がいなくなってしまったのですから、援軍の意味も消滅。

もはや戦を続ける意味もありません。

そのため、信長はすぐに全軍撤退の指示を出しました。

 


「俺が殿(しんがり)を務める!」

難しいのはここからです。

いきり立った敵が目の前にいる――そして、今まさに戦闘真っ最中なのです。

敵に背を向ければ一斉に襲いかかられ、落命する危険性も高い。

しかも、布陣場所が川の近くであり、撤退するには非常に厳しい条件が整っておりました。

そこで信長ははどうしたか?

多くの将兵を逃がすため、なんと、自ら

「俺が殿(しんがり)を務める!」

と言い出し、自分を乗せた舟一艘だけを残して、全軍を撤退させたのです。

殿とは、軍が撤退するときに最後尾になる部隊のこと。

後備え(あとぞなえ)や殿軍(でんぐん)とも呼び、織田家においては後の「金ヶ崎の退き口」で秀吉や光秀が担ったことで有名ですね。

金ヶ崎の退き口とは、織田・徳川連合軍が朝倉義景を攻めた時、背後にいた浅井長政に裏切られて撤退した合戦のことですね。

あるいは関ヶ原の戦いで有名な、島津義弘の「島津の退き口」も殿の変化形といえるでしょう。

敗戦での撤退は厳しく、その中での殿は、言わずもがな命を賭した役割。

それを大将の信長自らやるというのですから、にわかには信じがたいような決断です。

 

三国志の張飛じゃないんだから

「退き口」は、犠牲を減らすため、ごく少数の兵力で行われます。

大軍を相手に、時間を稼ぎつつ、できれば自らも死なないように敵を食い止めるのですから、並大抵の器ではこなせません。

しかしその分、やり遂げたときの恩賞や、世間からの評価は絶大となります。

自ら殿を引き受ける武将もおりますが、さすがに信長のような国主に近い立場の人が、自らやるケースはごく稀でした。

このとき「信長が殿を自らやった」という話はよく知られているのですが、「舟一艘で」という点はあまり話題になりません。

歴史上どころか、物語でもあまりないシーンでしょう。

似たような話ですと、三国志の張飛ですかね。

【長坂の戦い】で主君の劉備を逃がすために「橋の前で仁王立ちして曹操軍を足止めした」という話があります。まぁ、張飛は君主ではありませんが。

美形揃いと言われる織田弾正忠家の当主・信長。

しかもこのとき22歳の青年ですから、まるで絵画のような光景だったでしょう。

 

無事に撤退するも混乱は広がる

源平の頃ならともかく、いかに信長の姿が勇壮だったとしても、敵も味方も固唾をのんで見入るような時代ではありません。

当然、義龍軍は信長の首を取ろうと、騎馬で船へ殺到しました。

しかし、信長が馬に向かって鉄砲を撃たせたため、義龍軍は怯み、それ以上は追おうとしなかったとか。

斎藤義龍/wikipediaより引用

それを見て信長は直ちに舟を漕がせ、無事に殿の役を終えました。

舟には信長と狙撃手数名、そして漕手がいたはずで、殿はやはりほんのわずかだったことになります。

船での撤退は計算のうちだったにしても、なんというクソ度胸でしょうか。

こうして、信長軍の撤退は無事に成功しましたが、混乱は広がっていきました。

信長が尾張平定に動くことができたのは「舅である道三が援軍に来ることもあり得る」というバックがあり、周囲への威圧ができたからです。

その大きな後ろ盾がなくなったため、またしても尾張の内部で不穏な動きが見られるようになりました。

 


当時の尾張国内はどんな勢力図だった?

まずは岩倉城(現・愛知県岩倉市)の主・織田信安が、義龍方について信長に敵意を表します。

信安は尾張上四郡の守護代である、織田伊勢守家という系統の武将です。

尾張下四郡の守護代が、この時点では既に信長らによって滅ぼされていた織田大和守家で、信長の織田弾正忠家はもともと大和守家の家臣。

ということは、信安は建前上、信長の目上になります。

ちょっとややこしくなってきたので、当時の尾張における上下関係をマトメておきましょう。

実力とは噛み合っていないのがミソです。

◆尾張守護
斯波義銀(よしかね/幼名・岩龍丸)

・尾張上四郡守護代
織田伊勢守家(織田信安)

・尾張下四郡守護代
織田大和守家(織田信友・この時点で故人) 織田弾正忠家(織田信長)は大和守家の家臣筋

斯波義銀とは、15話で斯波義統(よしむね)が殺された際、信長のもとへ逃げてきていた人です。

この後も少しだけ出てきます。

実際には、大和守家が信長によって滅ぼされていますので、下四郡の守護代は不在。

公式に認められてはいないものの、実力的には信長がその立ち位置でした。

 

互いに近隣の村を焼き討ちして

正式な守護代である織田信安からすると、信長はこうなりましょう。

「家臣だったくせに、自分の同僚(みたいな人物)をブッコロしたいけ好かないヤツ。いつか自分のことも殺しに来るに違いない。やられる前にやってやれ!」

まぁ、戦国時代においては戦を始める理由になりますね。

そんなわけで、信安勢は清州城の近くにあった村を焼き討ちしました。

どう見てもケンカ売ってますね。

当然、信長も腹を立てます。

直ちに岩倉方面へ兵を向け、お返しとばかりに火を放ちましたが、この時点ではすぐに引き上げました。

「このくらいで済ませてやるうちに、敵対するのをやめろ」という含みを持たせていたのでしょうか。

残念ながら、そうはなりませんでした。

そしてここからしばらく、信長はまた尾張国内の敵と戦うことになります。

その中には、血を分けた兄弟も含まれていました。

詳細はまた後日。

次の第25話は👉️守護を担ぎ義元と会見|信長公記第25話

なお、長良川の戦いは以下の関連記事に詳細がございます。

📚 『信長公記』連載まとめ

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-斎藤家, 信長公記

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