今回のお話は、時系列的には前回23話の直後。
【長良川の戦い】で斎藤道三が討たれ、信長が戦場から撤退する話が中心です。
端的に言えば、義龍が勝つワケですが、たまったもんじゃないのが道三救出に出向いた織田軍です。
周囲は敵だらけになってしまったのです。
蘭丸の父・可成も膝下を斬られ
斎藤義龍は道三の首を含めた首実検を終えた後、織田信長が布陣している方角にも兵を向けました。
すでに信長軍も戦闘を開始していたところに、義龍本隊が加わってより激化。
信長軍のうち数名が討死し、側近の森可成(よしなり)も、馬上で戦っているうちに膝下を斬られ、退かざるを得なくなります。

森可成/wikipediaより引用
膝をやられると馬上で踏ん張っていられませんし、落馬して戦闘を続けていたら格好の的になって、そこから崩れるということも考えられる。
息子の森蘭丸があまりにも有名なので、父である可成は世間的な知名度が高くありませんが、彼は間違いなく信長軍の名将の一人です。
また、森可成の次男・森長可(ながよし)も猛将として戦国ファンには知られていますね。

森長可/wikipediaより引用
義龍に攻められ、織田軍が不利になりつつある中、ここで信長に「道三討死」の報が届きました。
助ける相手がいなくなってしまったのですから、援軍の意味も消滅。
もはや戦を続ける意味もありません。
そのため、信長はすぐに全軍撤退の指示を出しました。
「俺が殿(しんがり)を務める!」
難しいのはここからです。
いきり立った敵が目の前にいる――そして、今まさに戦闘真っ最中なのです。
敵に背を向ければ一斉に襲いかかられ、落命する危険性も高い。
しかも、布陣場所が川の近くであり、撤退するには非常に厳しい条件が整っておりました。
そこで信長ははどうしたか?
多くの将兵を逃がすため、なんと、自ら
「俺が殿(しんがり)を務める!」
と言い出し、自分を乗せた舟一艘だけを残して、全軍を撤退させたのです。

殿とは、軍が撤退するときに最後尾になる部隊のこと。
後備え(あとぞなえ)や殿軍(でんぐん)とも呼び、織田家においては後の「金ヶ崎の退き口」で秀吉や光秀が担ったことで有名ですね。
金ヶ崎の退き口とは、織田・徳川連合軍が朝倉義景を攻めた時、背後にいた浅井長政に裏切られて撤退した合戦のことですね。
あるいは関ヶ原の戦いで有名な、島津義弘の「島津の退き口」も殿の変化形といえるでしょう。
敗戦での撤退は厳しく、その中での殿は、言わずもがな命を賭した役割。
それを大将の信長自らやるというのですから、にわかには信じがたいような決断です。
三国志の張飛じゃないんだから
「退き口」は、犠牲を減らすため、ごく少数の兵力で行われます。
大軍を相手に、時間を稼ぎつつ、できれば自らも死なないように敵を食い止めるのですから、並大抵の器ではこなせません。
しかしその分、やり遂げたときの恩賞や、世間からの評価は絶大となります。
自ら殿を引き受ける武将もおりますが、さすがに信長のような国主に近い立場の人が、自らやるケースはごく稀でした。
このとき「信長が殿を自らやった」という話はよく知られているのですが、「舟一艘で」という点はあまり話題になりません。
歴史上どころか、物語でもあまりないシーンでしょう。
似たような話ですと、三国志の張飛ですかね。
【長坂の戦い】で主君の劉備を逃がすために「橋の前で仁王立ちして曹操軍を足止めした」という話があります。まぁ、張飛は君主ではありませんが。
美形揃いと言われる織田弾正忠家の当主・信長。
しかもこのとき22歳の青年ですから、まるで絵画のような光景だったでしょう。
無事に撤退するも混乱は広がる
源平の頃ならともかく、いかに信長の姿が勇壮だったとしても、敵も味方も固唾をのんで見入るような時代ではありません。
当然、義龍軍は信長の首を取ろうと、騎馬で船へ殺到しました。
しかし、信長が馬に向かって鉄砲を撃たせたため、義龍軍は怯み、それ以上は追おうとしなかったとか。

斎藤義龍/wikipediaより引用
それを見て信長は直ちに舟を漕がせ、無事に殿の役を終えました。
舟には信長と狙撃手数名、そして漕手がいたはずで、殿はやはりほんのわずかだったことになります。
船での撤退は計算のうちだったにしても、なんというクソ度胸でしょうか。
こうして、信長軍の撤退は無事に成功しましたが、混乱は広がっていきました。
信長が尾張平定に動くことができたのは「舅である道三が援軍に来ることもあり得る」というバックがあり、周囲への威圧ができたからです。
その大きな後ろ盾がなくなったため、またしても尾張の内部で不穏な動きが見られるようになりました。
当時の尾張国内はどんな勢力図だった?
まずは岩倉城(現・愛知県岩倉市)の主・織田信安が、義龍方について信長に敵意を表します。
信安は尾張上四郡の守護代である、織田伊勢守家という系統の武将です。
尾張下四郡の守護代が、この時点では既に信長らによって滅ぼされていた織田大和守家で、信長の織田弾正忠家はもともと大和守家の家臣。
ということは、信安は建前上、信長の目上になります。
ちょっとややこしくなってきたので、当時の尾張における上下関係をマトメておきましょう。
実力とは噛み合っていないのがミソです。
◆尾張守護
斯波義銀(よしかね/幼名・岩龍丸)
・尾張上四郡守護代
織田伊勢守家(織田信安)
・尾張下四郡守護代
織田大和守家(織田信友・この時点で故人) 織田弾正忠家(織田信長)は大和守家の家臣筋
斯波義銀とは、15話で斯波義統(よしむね)が殺された際、信長のもとへ逃げてきていた人です。
この後も少しだけ出てきます。
実際には、大和守家が信長によって滅ぼされていますので、下四郡の守護代は不在。
公式に認められてはいないものの、実力的には信長がその立ち位置でした。
互いに近隣の村を焼き討ちして
正式な守護代である織田信安からすると、信長はこうなりましょう。
「家臣だったくせに、自分の同僚(みたいな人物)をブッコロしたいけ好かないヤツ。いつか自分のことも殺しに来るに違いない。やられる前にやってやれ!」
まぁ、戦国時代においては戦を始める理由になりますね。
そんなわけで、信安勢は清州城の近くにあった村を焼き討ちしました。

どう見てもケンカ売ってますね。
当然、信長も腹を立てます。
直ちに岩倉方面へ兵を向け、お返しとばかりに火を放ちましたが、この時点ではすぐに引き上げました。
「このくらいで済ませてやるうちに、敵対するのをやめろ」という含みを持たせていたのでしょうか。
残念ながら、そうはなりませんでした。
そしてここからしばらく、信長はまた尾張国内の敵と戦うことになります。
その中には、血を分けた兄弟も含まれていました。
詳細はまた後日。
次の第25話は👉️守護を担ぎ義元と会見|信長公記第25話
なお、長良川の戦いは以下の関連記事に詳細がございます。
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参考文献
- 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』(全15巻17冊, 吉川弘文館, 1979年3月1日〜1997年4月1日, ISBN-13: 978-4642091244)
書誌・デジタル版案内: JapanKnowledge Lib(吉川弘文館『国史大辞典』コンテンツ案内) - 太田牛一(著)・中川太古(訳)『現代語訳 信長公記(新人物文庫 お-11-1)』(KADOKAWA, 2013年10月9日, ISBN-13: 978-4046000019)
出版社: KADOKAWA公式サイト(書誌情報) |
Amazon: 文庫版商品ページ - 日本史史料研究会編『信長研究の最前線――ここまでわかった「革新者」の実像(歴史新書y 049)』(洋泉社, 2014年10月, ISBN-13: 978-4800305084)
書誌: 版元ドットコム(洋泉社・書誌情報) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『織田信長合戦全録――桶狭間から本能寺まで(中公新書 1625)』(中央公論新社, 2002年1月25日, ISBN-13: 978-4121016256)
出版社: 中央公論新社公式サイト(中公新書・書誌情報) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『信長と消えた家臣たち――失脚・粛清・謀反(中公新書 1907)』(中央公論新社, 2007年7月25日, ISBN-13: 978-4121019073)
出版社: 中央公論新社・中公eブックス(作品紹介) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『織田信長家臣人名辞典(第2版)』(吉川弘文館, 2010年11月, ISBN-13: 978-4642014571)
書誌: 吉川弘文館(商品公式ページ) |
Amazon: 商品ページ - 峰岸純夫・片桐昭彦(編)『戦国武将合戦事典』(吉川弘文館, 2005年3月1日, ISBN-13: 978-4642013437)
書誌: 吉川弘文館(商品公式ページ) |
Amazon: 商品ページ





