生まれや経歴、サッパリ不明。
それでも戦国史の物語に欠かせない武将がおります。
大河ドラマ『麒麟がくる』に出てきた藤田伝吾であり、その命日は天正10年(1582年)6月14日とされます。
明智光秀に最期まで付き従った重臣の一人で、山崎の戦い後に亡くなり、ドラマのキャスト発表でも、かなり早い段階から徳重聡さんの名前が公表されておりました。しかし……。
出自がナゾだらけの明智家臣団においても、この藤田伝吾は特に素性がわからない一人であります。
江戸時代の軍記物(小説)にすら登場しない。
それでも【本能寺の変】から、明智家の命運に関わる大きな使命を帯び、さらには光秀の最期まで付き従った――。
いったい藤田伝吾とは何者なのか?
藤田伝吾は信長の上洛前後から光秀家臣だった?
史実においては、出自と前半生がまるで不明の藤田伝吾。
あくまで私の考えですが、それなりに早い段階から光秀に仕えていたのでは?という気がしております。
明智左馬助(明智秀満)や明智光忠のように美濃脱出からとは言わないまでも、光秀が足利義昭に仕えたあたりで家臣になっていた可能性を感じるのです。

等持院霊光殿に安置されている足利義昭坐像/wikipediaより
理由は、後の筒井順慶との関わりです。
この筒井との関わりから伝吾も史料に登場するのですが、それまでの流れを説明させていただきますと……。
明智光秀は、義昭のもとで幕臣として働く傍ら、1568年の上洛事業を推し進める織田信長への接近を試みました。
信長が、義昭を将軍とするため上洛したのですね。
しかし、いざ京都で義昭が室町幕府の15代将軍に就任すると、信長と義昭の関係は綻んでいきます。
理由は様々考えられますが、例えば『信長公記』によれば、義昭がお気に入りの家臣ばかり贔屓して、真面目にシゴトをしなかったことが指摘されています。
義昭がどれだけ怠慢だったか? その詳細については以下の記事をご参照ください。
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信長が義昭に本気でダメ出し「殿中御掟」「十七箇条意見書」には何が書かれている?
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信長が義昭お説教の中身とは|信長公記第87話
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義昭は、家臣である信長に「きちんと将軍の職務を務めてください」と諌められ、気分を悪くしていったんですね。
筒井とのパイプ役になったのが伝吾だった
義昭と信長の両者が対立を深めていくと、光秀は、完全に信長配下の武将として行動するようになりました。
そして畿内平定作業に尽力するわけですが、ここでその一環だった大和国の筒井順慶に着目したいと思います。

筒井順慶/wikipediaより引用
藤田伝吾の記録を伝えることになる筒井順慶。
この順慶は、もともと大和国の有力国衆(大名クラス)であり、同地方で活動していた松永久秀や三好三人衆らと支配権を争っておりました。
大和国は、興福寺や東大寺などの寺院勢力が根強いエリアです。
筒井家も、寺院と関係の深い有力武家の一つであり、クセの強い大和国を任せるのに相応しい人物ではありました。
信長もそこに目をつけたのでしょう。
織田軍が畿内を掌握していく中、筒井順慶を光秀に服属させ、家臣にします。
※結果、筒井と対立していた松永久秀とは、関係性が非常に複雑化するのですが、ここでは割愛させていただきます

2020年3月に高槻市の市立しろあと歴史館が発表した松永久秀の肖像画/wikipediaより引用
大和守護・塙直政の討死で存在感が増した順慶と伝吾
織田家の傘下に名を連ねた筒井は、1573年に大和守護に任ぜられた塙直政の下、大和衆として大活躍。
【長篠の戦い(1575年)】や【本願寺との戦い(1570-1580年)】にも参加します。

織田軍と石山本願寺が約10年にわたって激突『石山合戦図』/wikipediaより引用
そして1576年、【天王寺砦の戦い】で塙直政が本願寺を相手に討死してしまうのですが、これは結果的に順慶へ「漁夫の利」をもたらしました。
大和守護が失われたことで、地元・順慶の存在感が日増しに高まっていったのです。
結果、順慶はすでに重臣となっていた光秀の与力に列せられ、信長と連絡を取りあうようになるのですが、このとき光秀と順慶を取り次いだのが藤田伝吾でした。
伝吾の行動は、ほとんどが奈良興福寺に残された『多聞院日記』で後世に伝わっています。
以後、藤田伝吾は、順慶と光秀の取次役として奔走し、両者の躍進を支えていくのです。
極めて良好だった筒井と明智の関係だが
天正(1573-1593年)に入ってからの光秀は、丹波攻めなどで優れた功績を残します。
一方の順慶も明智に従う形で大和を平定。
両者の関係は極めて良好だったようで、主従関係にありながら友人に近い仲の良さだったとも伝わります。
残念ながら、伝吾が二人の仲を近づけた具体的なエピソードは残されていませんが、両者の関係が良好であり、伝吾が重臣として光秀に信頼されていることから、取次役として大いに活躍したのは間違いないでしょう。
ただし、その一方で藤田伝吾の軍事的功績は、ほとんどよくわかっていません。
順慶の取次だけを担っていたとは考えられないので、おそらく光秀の丹波攻めなどには従軍していたでしょう。
丹波における光秀の合戦で代表的なものが【黒井城の戦い】です。
一度は敗走させられながら、後に調略で崩して制覇――その働きは織田信長にも認められ、

織田信長/wikipediaより引用
明智光秀は綺羅星の如き織田家臣団の中でも、アタマ一つ抜けている状態でした。
当然ながら明智の重臣らも出世を果たし明智秀満や斎藤利三らも城を与えられています。
もしかしたら藤田伝吾もあと少しで城持ちになれていたかもしれません。
しかし、その時期は永遠にやってきませんでした。
そうです。
他ならぬ明智軍が【本能寺の変】を起こしたからです。
光忠を大将とする第二陣の将として襲撃
天正10年(1582年)6月2日――。
光秀は突如として信長に反旗を翻し【本能寺の変】を引き起こしました。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)/wikipediaより引用
決行にあたって親しい家臣らには事前に計画を打ち明け、そのうちの一人が藤田伝吾だったとされます。
後世に伝わる伝吾の功績は極めて少ないものの、この点から光秀の信任を得る人物だったことはわかります。
また、記録によっては「明智姓」の名乗りも認められていたと言われています。
本能寺の変での伝吾は、明智光忠を大将とする第二陣の将として襲撃部隊を指揮。
信長だけでなく、後継者である織田信忠も自刃に追い込み、ひとまずクーデターを成功させました。

織田信忠/wikipediaより引用
その後、光秀は自身の勢力を増大させ、来るべき織田家臣団らとの戦に備えようとしました。
そこで最初に目を付けたのが、姻戚関係にあり親交も厚い細川藤孝と、何度も名前が登場している筒井順慶です。
順慶と光秀の関係性については、本能寺直前、順慶が東国に国替えされるという通達が内々にあり、それに反感を抱いた光秀がクーデターを起こした――そう推測されるほど強固なものです。
順慶も当然ながら本能寺の一件についてはすぐに情報をキャッチしており、上京を切り上げて即座に大和へ帰還しました。
間もなく光秀から誘いがあったと推測され、ここで取次を務めたのもやはり藤田伝吾でしょう。
混乱の中、記録は残されておりませんが、明智政権の左右を占う大事な局面で、伝吾ほど妥当な人物はいなかったに違いありません。
秀吉か、光秀か 迷う順慶を説得すべし
結論から申しますと、明智光秀は、細川と筒井の二大勢力を味方陣営に引き入れることは叶いませんでした。
特に順慶に関しては、光秀がわざわざ洞ヶ峠まで出向いて彼を迎えようとしたものの、そこにたどり着くことなく兵を返したことが伝説となり、いつしか日和見をすることが
【洞ヶ峠を決め込む】
という故事になるほど有名な一件となります。
実際のところ、順慶は最後まで光秀と秀吉のどちらに味方するかを迷っていました。
まず、本能寺の事件後すぐに伝吾が筒井のもとへ派遣されて援軍要請を行ったと見られ、4日には順慶の命令で大和衆の一部を応援として光秀のもとへ向かわせます。
この時点では、光秀の味方といえるでしょう。
ところが、です。
翌日に援軍が帰国してしまうのです。
順慶は彼らを光秀のもとへ向かわせず、呼び戻してしまいました。
「順慶は織田信孝に味方するのではないか?」

織田信孝(神戸信孝像)/wikipediaより引用
そんな噂が洛中で流れる中、順慶は再度、明智への援軍を派遣。
がしかし、9日にはまたもや彼らを呼び戻してしまったのです。
山崎から敗走し、光秀と共に散る
なぜ筒井順慶は、これほどまでに揺れ動いていたのか?
というと、光秀との関係を優先したい思いがあった一方、怒涛の勢いで帰京してくる羽柴秀吉軍(豊臣秀吉)の情報を握っていたからだと言われています。

絵・富永商太
結局、6月10日の時点で、順慶は「秀吉方につく」という決断を下したようです。
この日に伝吾がふたたび誘いに来たのですが、順慶はこれを断り、起請文を持たせた家臣を秀吉陣営へ派遣しました。
こうして、順慶を味方につけるミッションに失敗した伝吾。
戦以前の働きぶりや両者の関係性を鑑みると、「順慶を味方にし損ねた」というより「あと一歩のところまで順慶の心を動かした」というほうが正確かもしれません。
実際、順慶は出兵要請がありながら山崎の戦いでは傍観者に徹し、後に秀吉から叱責されています。
秀吉の【中国大返し】で戦場へ誘い出された明智軍。
当初は味方に想定していたであろう細川藤孝や筒井順慶が不在のまま【山崎の戦い】に挑みました。
伝吾は光秀本隊に属して戦い、ほどなくして明智軍は敗走へと追い込まれます。

「山崎合戦之地」の石碑(天王山/京都府乙訓郡大山崎町)
仮に伝吾が順慶の説得に成功していれば?
光秀は戦場から離脱して逃走を始めました。
伝吾も本隊に属していたこともあって、光秀に付き従っていたようです。

明智光秀/wikipediaより引用
しかし、醍醐・山科のあたりに差し掛かった際、彼は「落ち武者狩り」によって負傷し、それ以上の逃走は叶わなくなりました。
光秀は同じく付き添っていた三沢秀次に介錯を命じると、腹を切って自害します。
この際、伝吾も主君に殉じて自害したと伝わります。
「歴史にifは禁物」とよく言われます。それでも敢えて考えてみたい。
仮に伝吾が順慶の説得に成功していれば、山崎の戦いに勝つことはできたのでしょうか?
勝利とまでは思えませんが、大和衆が味方になっていればもうマシな「負け方」になったのではないか?
総崩れになるような展開ではなく、睨み合いが続いた後に、毛利や上杉、徳川なども動き……と、ifはいくら考えてもifですね。
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【参考文献】
谷口研語『明智光秀:浪人出身の外様大名の実像(洋泉社)』(→amazon)
小和田哲男『明智光秀・秀満(ミネルヴァ書房)』(→amazon)
渡邊大門『明智光秀と本能寺の変(筑摩書房)』(→amazon)
田端泰子「明智光秀の親族・家臣団と本能寺の変」『女性歴史文化研究所紀要』18巻(京都橘大学女性文化研究所)
海音寺潮五郎『明智光秀をめぐる武将列伝』(→amazon)





