日本を代表する作曲家・山田耕筰――。
その名にピンと来ない方でも、彼の名曲『赤とんぼ』なら誰しも一度は耳にしたでしょう。
明治時代にドイツへ渡り、帰国後の活躍から日本近代音楽の父とも称される人物です。
そんな山田耕筰を2020年朝ドラ『エール』で故・志村けんさんが演じておりますが(ドラマでは小山田耕三)、史実では一体どんな人物だったのか?
偉大なる作曲家の足跡を振り返ってみます。
山田耕筰の父は山っ気たっぷり株式仲買人
山田耕筰の母・久は板倉藩(福島県)士族の娘で、美しい目が特徴でした。
しかし、夫は幕末水戸藩の内戦により戦死。出戻りとなった彼女の実家は、明治維新によって朝敵とされ、三河で暮らしておりました。
そんなある日、久は喧嘩で追われてきた男を庇ったのですが……その噂を聞きつけた板倉藩御殿医の子・山田謙造です。
彼女に興味を抱き、度胸ある久に求婚し、二人は結ばれました。
この謙造が、変わり者でした。幼子を抱えた久を残し、ふらりと放浪してしまうような人物だったのです。
稼業については妻ですらわからない。
金に困ることこそなかったものの、謙造の周囲は幕末の熱気がまだ消え去らないようで、若者が家の中で論議をしていたかと思ったら、いきなり引っ越しを言い出す――そんな不思議な山田家でした。
のちに久は悟ります。
夫は株式仲買人だ――。
金融ブローカーとして濡れ手に粟を狙う謙造に、久は嫌なものを感じていました。
頭脳は明晰ながら、あまりにも自由奔放で無軌道。こんな生活は我が子の教育にもよろしくないと感じていたのです。真面目な武家の娘らしい心持ちでした。
久は、次第にある教えに救いを求めるようになります。
プロテスタントです。
規律正しく、清貧を理想とする思想こそ、久が求めたものに一致。謙造は、そんな妻に最初こそ黙っておりましたが、彼女がプロテスタント信仰を我が子に教えるとなると狡猾な妨害をするようになります。
愛し合っていないわけではない。ただ、憎しみがないわけでもない。
無軌道で荒ぶる父と、頑なに地に足ついた生活を望む母。
明治19年(1886年)、東京の本郷にあるそんな山田家に、耕筰は生まれました。
父を喪い母と鎌倉へ 魚釣りで家計を助ける
山田耕筰にとって、父の記憶はぼんやりとしたものです。
明治29年(1896年)のこと――。
「耕坊!」
大きな声が聞こえてきました。父が何かを吐き出している姿。痰を吐き、息子がそれを取る役目でした。
医師でもある父は、余命幾ばくもないことを悟っていたのでしょう。
それまでは山っ気のある人物でしたが、足を洗い、キリスト教の伝道事業に関わるようになっていきます。
ある日、父が大声で「耕筰!」と息子を呼びつけました。
「坊」をつけない呼び方は珍しい……。何事か?と驚いている息子の耕筰の頬に、突然痛みが走りました。平手打ちをされたのです。
怯えた息子が逃げ去ってから間も無くして、父は亡くなります。
10歳にして山田耕筰は父を失いました。
母子家庭となった山田家を救ったのは母の信仰心。耕筰は巣鴨宮下(現在の南大塚)にあった自営館(後の日本基督教団巣鴨教会)に入ります。
プロテスタントは、貧者の救済を担っていました。山田はこの施設のもとで過ごすことになります。
勉学だけではなく活版場での下働きもせねばならないほど、生活は苦しく、13歳の時、肋膜炎に倒れた耕筰は一命をとりとめるものの、母と鎌倉での半年にわたる静養を余儀なくされました。
とはいえ、幼い彼なりに魚を釣り、少しでも生活費を稼ごうとしました。
地元漁師に「坊っちゃまの道楽」扱いされながら、大波に飲まれそうになりながら、魚を釣り続ける耕筰。周囲の猟師たちも、その姿を見ているうちに、親孝行な子だと認識していきます。
耕筰は、釣った魚で行商までして、母に尽くしました。
東京に戻るまで、そんな母と子の生活が続いたのです。
義兄ガントレットに音楽の素晴らしさを教えられ
引っ込み思案でおとなしい少年は、どこか寂しい環境の中で、感受性を研ぎ澄ませてゆきました。
横須賀に駐留する軍楽の音。
日清戦争の折に耳にした、威勢の良い歌。
姉が習ってくるミッションスクールの賛美歌。
明治日本という国家が奏でる音楽を聴いて育ってゆきます。
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プロテスタント信仰のある家族で育った自営館によって、貧しい生活を助けられた山田が、西洋音楽に目覚めるのは当然の流れと言えました。
明治32年(1899年)、耕筰は東京から岡山に移りました。姉の恒を頼り、岡山の養忠学校に入学したのです。
この前年、姉の恒はイギリスから来日していた牧師兼教育者のエドワード・ガントレットと結婚していました。
彼は優しく、実の弟のように彼を可愛がってくれました。このかわいい弟を呼び寄せ「ペテロ」と呼び、教育を施すこととしたのです。ペテロとは聖ペトロから取られた名前です。
夕食を取ると、義兄はオルガンを弾きます。
山田はこの義兄のために楽譜めくりをしながら、ベートーベン、モーツァルト、メンデルスゾーンの旋律を耳にしてきました。
そのうち、楽譜も読めるように……となると楽譜めくりだけでは満足できません。
自ら演奏し、曲を作る――耕筰は一歩ずつ音楽の才能に目覚めてゆきます。
ガントレットはそんな義弟を応援してくれました。英語、速記術、そしてエスペラント語まで指南。期せずして山田は日本におけるエスペラント語最初期の学習者となるのです。
私は音楽家になる
ガントレットは、ともかく義弟のペテロが好きで仕方なかったようです。
よく登山にも同行させ、惜しみなく珍しいおもちゃを買い、電車模型を義兄弟で走らせては二人ではしゃぎました。
そんな義兄は、なまじ外国人の家にいるため反発されやしないかと、山田を気遣い、護身用のピストルまで渡していたというのですから驚かされます。もっとも、実弾はこめていなかったそうですが。
そんなガントレットは、妻と共に話し合っていました。
あの可愛いペトロを、この先もっとよい学校へ行かせるべきではないか?
かくして彼らの愛と支援を受け、山田は明治35年(1902年)、関西学院中学部に転入します。
義兄と離れた寂しさはあったものの、通学は山田が習ったことを練り上げる機会となりました。
そして入学から2年後の秋。
初作品『MY TRUE HEART』を作曲したのです。
それまで音楽に心惹かれたことはありました。義兄ガントレットに薫陶を受け、のめりこんでいきました。そして学校で学ぶこの頃になると、はっきりとした願望が胸に湧き上がってきます。
私は音楽家になる――。
そのためには専門の教育を受けたい。
音楽の道を応援してくれながら世を去った母
このころ柴田という教師が、渡米を計画していました。山田もそれに同行しようと考え初めます。
とはいえ目的が音楽指導ではまずい。
英文学研究という名目ではどうだろうか? と策を練りつつ、母に相談するため、姉夫妻の家に戻ります。
そこで山田が目にしたのは、病に倒れ、看病を受ける母の姿でした。
卒業前に進路の相談をしたい、旅券のこともある。そう語る我が子に、母はやつれた顔で語りかけます。
「お前がここに来た理由。私の余命が短いこと。それに、本当の気持ちもわかっている。何よりも音楽を学びたいのでしょう。渡米して英文学を学ぶというのは口実。見抜いているから。でも、日本にも官立音楽学校はあるのだから、そこでまず学びなさい。その上でどこへでもお行き。兄にも姉にも、母の遺言として言い聞かせるから……」
夫を亡くしたあと、苦労しながら自分を育ててくれた母。その母は、我が子のことを見抜いていました。
母が音楽への情熱のみならず、音楽校の存在や進路まで気にかけていたことに感激し、胸を詰まらせるしかない耕筰。
それからほどなくして母・久は、我が子の奏でる賛美歌を聴きながら世を去ったのでした。
母の死は、ますます彼の決意を強めます。
かくして関西学院中等部を四年で切り上げ、明治37年(1904年)、東京音楽学校予科の受験を目指しました。
苦労して合格を果たすものの、家族の目は冷たいもの。姉の恒が5円を仕送りしている中、労働もする苦学生としての日々が始まりました。
しかし耕筰は、ここで貴重な青春の日々を送ることができました。
奇人変人揃いの音楽学校で青春を謳歌
音楽学校に通う同級生たちは、奇人変人揃いでした。
それが妙に馬が合う。
引っ込み思案で、一人遊びや義兄との交流ぐらいしか思い出のない山田ですが、音楽学校で知り合った学友とはのびのびとした日々を過ごすことができました。
当時はバンカラが流行し、スポーツでは「天狗倶楽部」が盛り上がった時代。音楽を学ぶ学生たちも、エネルギッシュなものでした。
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チェロ、トランペット、そしてピアノ。
そうした楽器を外国人教師から習う合間に、いたずらをし、可憐なお嬢さんの姿にうっとりする。いや、ダメだ、色に負けてはならないと振り切る。そんな上野の日々でした。
明治41年(1908年)の本科卒業後は、研究科へと進学。音楽指導をしながら自らも学ぶこととなりました。
そして明治43年(1910年)には、東京音楽学校での学習を終えることとなっていたのです。
卒業直前、チェロを教えるハインリヒ・ヴェルクマイスターは山田にこう言いました。
「山田くん、卒業後はドイツへ行くのだ。楽しみだろう?」
「いや、そんな、学費がありません」
「何を言う。学費の心配をするのは私だ」
「冗談はやめてください! ドイツ留学は、ああ、もう、本当に毎晩夢に見ているくらいですけど……」
「からかってなぞいるものか。岩崎小弥太男爵に手紙を出してみたまえ」
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岩崎小弥太とは、三菱財閥のトップ。
あの岩崎弥太郎の甥っ子に当たってみろ、と言うのです(小弥太の父が弥太郎の弟)。
岩崎小弥太「国家のためにも音楽を学んで欲しい」
山田は驚きました。
しかし、冗談で言うようなこととも思えない。
華麗なる岩崎一族という富豪の好意にすがるのもどうなのか? いや、むしろ、芸術のために富豪が金を払うのは進歩かもしれない。
親友とも相談し、ひとしきり悩んだ山田はそう意を決して、男爵の邸宅を訪れると、思いのほか岩崎は好意的に出迎えてくれました。
「国家のためにも音楽を学んで欲しい」と語りかけてきたのです。
ここで山田は誤解があるとはいけないと考え、自分の経歴を語り始めました。
活版工として苦労した幼年期。
両親の不仲、家庭に問題があったこと。
そこまではよいとして、こんなことまで。
「私はこの通り色白で、そのせいで軟派(当時は異性愛者であり、かつ軽薄であるというニュアンス)だと思われていて、幸田先生(女性教師)の燕(若い男の愛人)だという噂まであるんです! それをふまえて留学の許可を得られるのであれば……」
山田耕筰は、晩年の写真が教科書等に使われているため、おじさんのイメージがあります。
しかし、若いころは繊細そうな美青年でした。その美貌ゆえに、いろいろなことを噂され、悩んでいたのです。

山田耕筰(17歳当時)/wikipediaより引用
そのあとも山田は、苦悩を語ります。
「国家のために音楽と言われましたが、私は、自分のために学ぶしかできません!」
「いや、いいんだよ。重大な責務を負うと思わないでくれ。安心して勉強しなさい」
岩崎は澄んだ目で承諾。かくして留学が決まります。
軍事と密接な政商イメージの強い三菱財閥ですが、小弥太には文化芸術を保護する理解があったのですね。
山田の人生は、明治という時代が色濃く反映されています。
幕末の動乱に苦しんだ母。
維新後に変化を遂げる日本経済で手腕を発揮した父。
キリシタン禁制が解かれ、プロテスタントに救われ、賛美歌を聞いていた一家。
布教のために来日した外国人と結婚した姉。
西洋音楽を教え、彼をかわいがってくれた義兄。
西洋文明を学ぶ若者を見守り、励ました外国人教師。
その留学を援助する富豪。
彼自身は国家を背負うのは大変だと困惑しても、音楽に生きるということは、のぼりゆく日本という国あってのものです。
許嫁の素子を残し、彼は旅立ちました。
やはり不合格だったのか……慰めるように握手をされた
耕筰24歳――。
岩崎男爵邸の階段から一ヶ月後の春、ベルリンの王立高等音楽学校に山田の姿がありました。

1908年に撮影された王立アカデミー/wikipediaより引用
日本からはるばる来たとはいえ、まだ入学できるかどうかも不明です。
不安で仕方ない山田は、下宿先の婦人までこんなことを言われました。
「はるばる海外からいらしてあの学校を受験ですって! 合格は難しいんですよ。他の学校を試してから受験なさっては? いきなりだなんて、無茶です」
覚悟の上とはいえ、現地の人にそう言われてはますます自信を失ってしまいます。
それでも学校で作曲部長であったマックス・ブルッフ教授の自宅を訪れました。
教授に、日本で書いてもらった紹介状と作品を渡すと、彼は自身が病気療養中だと断った上で、次席であるヴォルフ教授に宛てる名刺をくれたのでした。
そして試験当日。
受験番号47で、ガチガチに緊張しながらテストを受け、下宿に戻るとあの婦人からは「試験室に入れただけでも名誉なこと」と言われてしまう始末。
誰もが受かるはずがないと言われ、試験発表当日を迎えました。
自分は赤線を引かれているし、髭をはやした紳士が慰めるように握手をしてくれるし、やはり不合格だったか……山田はすっかり落胆してしまいました。
そして三等書記官であった武者小路公共(武者小路実篤の兄)に、その結果を報告します。
「駄目でした。教授らしい紳士が慰めてくれました……」
「その方はファッレンと言っていたのかな?」
「さあ、ノンレンだったと思いますけど」
「それは合格ということだよ!」
なんと、47人中3人という狭き門を山田は通過していたのです!
山田は驚きながら学校へ戻って授業料を支払い、学生証を受け取ると、嬉し涙を滲ませながら東京宛に電報を何本も打ったのでした。
遊び人も多い留学仲間の中で
かくして留学生活が始まりました。
ここでも生真面目な山田らしいものがあります。
留学費用はあるとはいえ、倹約第一、遊ばないよう心がけていたのです。だらけきった留学仲間には怒りすら覚えていました。
若い女性教師の家に下宿するものの、お色気展開をしてきてまじめに勉強できないので、金を置いてさっさと飛び出す。
当時の日本のドイツ留学といえば、あの『舞姫』モデルのようなこともあったとされています。まじめに勉強しない留学生が多い中、山田は違いました。
軟派どころか、硬派です。
英語と違いドイツ語は全くできないため、必死で習うしかありません。
教師はドイツ人姉妹、その家にはフランス人女性も下宿しています。彼女らはドイツ語を覚えていく山田を褒めており、勉強ということで会話もしていたようです。
それでも、彼女らがどんな女性であるかは、最低限のことしかわかりません。このあたりはあくまで本人の回想ですので、後年のこともふまえて受け止めましょう。
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山田が極めて女性について真面目であったのは、彼には貞操を捧げるべき許婚がいたからでした。
関西学院時の同級生・徳久恒利の家を訪れた際、その妹の素子という女性と出会いました。決して美人ではないものの、二人は心が通い合うものを感じるようになったのです。
当時の山田は、もっと目立つ女性たちが写真を持ち歩いているという噂が耳に入るほどで、他にも交際できそうな相手がいました。
それでも、山田は素子が忘れられません。
自身の複雑な家庭環境や将来を目指している夢を打ち明けたうえで、この二人は許婚となっており、心の中には、あの儚げな素子という許婚の姿がいつもありました。
なお、明治とは日本史上でも特異的な価値観があった時代でもあります。上流階級、知識人男性が貞操を守ること、童貞で結婚することを尊んだ時代なのです。
山田も、そんな明治の青年でした。
許嫁から届いた残酷すぎる手紙とは?
そんな山田は、夏季休暇後、愛する素子から一通の手紙を受け取ります。
久しぶりに届くその手紙には、驚愕の事実が書かれていました。
義理の母と長いこと確執があったこと。
その義母に押し切られ、ある医師に嫁ぐよう強制されたこと。四番目の後妻とならねばならない。
この身は嫁いだとしても、心は永久にあなたのもの。哀れと思い、手紙だけでも送って欲しい――。
素子の父は後妻を迎えており、素子の実母ではありませんでした。この義母と対立し、心苦しい思いが常に素子にはありました。
彼女がどれほど苦闘をしたのか、山田には理解できるのです。
山田はベッドに倒れ伏し、一晩中涙にくれました。
呆然として朝を迎えても、苦しみばかりが募ってきます。手紙を書けと言われたところでできない。それどころか、もう、気が抜けてしまい、勉強をする気も起こらない。魂が抜けてしまったかのようでした。
それでも山田には、逃避ができました。
哀切をメロディにして昇華させることが、彼にはできました。
悲嘆の曲調を作り上げると、それが日本人初の西洋音楽の調べとなるのです。
運命が彼をこの悲嘆に突き落としたかのようでもあります。残酷ではありますが、山田自身がそう感じていたことですらありました。
何もかもが旋律となって昇華されていく
許嫁から別れを告げられた山田。
その目には、ドイツの風景や街並み、そして白夜、絵画、道ゆく人々の姿が映ります。
耳には、風の音や鳥の声が入ってきます。
日本からは、友人の励ましの手紙も届きます。
その中には、驚愕の経験もありました。
なんと、学校視察にやってきたヴィルヘルム2世が、山田に興味を見せたのです。
「日本人が音楽だと? 不思議だ。しっかり勉強したまえ」
カイザー(皇帝)の激励する濁声も、山田の脳裏に刻まれたのでした。
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悲嘆も、経験も、異国でであった可憐な少女の面影も……何もかもが彼の中で旋律となって昇華されていく。そんな日々。
交響曲、管弦楽曲、オペラ……山田の作る曲は「日本人初」とされるものばかりでした。
28歳となった大正3年(1914年)、山田は帰国を果たします。
実はこの年、岩崎の主催する東京フィルハーモニー会に管弦楽部が創設されました。
ドイツから帰国した山田は、その指揮者にはまさしくうってつけ。さっそく指揮を委ねられ、翌年には第一回公開演奏会が開催されます。ただし、この楽団は定期演奏会を開いただけで解散されました。
この歳に永井郁子と結婚するものの、翌年には離婚。女優の村上菊尾(本名・河合磯代)とスピード再婚を果たします。
どうにも山田には、スキャンダラスな噂がつきまとうようです。
同時代の三浦環にもそんな誤解があったものですが、この“永井郁子”の名前とスピード離婚、再婚については少し頭の隅にでも入れておいていただければとは思います。
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カーネギー・ホールで自作の交響曲を演奏
公私ともに波乱のあった山田ですが、彼ほどの実力があれば、引く手数多。
すぐさま次いで小山内薫と「新劇場」を結成します。
大正7年(1918年)には渡米し、一年半ほど滞在しました。
このとき、カーネギー・ホールで自作の交響曲『勝どきと平和』の演奏を果たしています。
翌年には、交響詩『暗い扉(と))』、『曼陀羅(まだら)の華』等による2回目の演奏会を指揮したのでした。
山田は国際的にも高い名声を誇りました。
昭和6年(1830年)には45歳で招聘されてフランスへ。昭和11年にはレジオン・ドヌール勲章を受けています。47歳となった昭和8年(1932年)には、ソヴィエト連邦へ招かれて妻とともに赴いております。
30代は彼自身が最も精力的に創作活動に打ち込んだ時代でもあり、日本の音楽史においても重要な時代です。
山田は総合芸術楽劇『堕ちたる天女』や『青い焰』、『マリア・マグダレーナ』、『野人創造』など、多くの曲が送り出してゆきます。
その活躍は音楽にはとどまりません。
三木露風「牧神会」に参加。
北原白秋とともに、日本独自の詩と音楽を生み出すべく、雑誌『詩と音楽』を創刊し、「音楽の法悦境」「立体音楽堂の構想」といった独自の作曲論を展開しました。
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北原白秋作詞、山田耕筰作曲により、新たな音楽を芸術と感性にもたらそうと、二人は協力したのです。
私達が音楽の時間に習うような童謡は、まさしくこの二人が始めたものでした。
※映画『この道』
少年時代の古関が山田に怒りを覚える
充実した歳月のあと、元号は大正から昭和へと変わります。
昭和2年(1927年)、日本初のトーキー映画『黎明』の音楽を担当したのも山田でした。
一方、このころ、福島県と愛知県で、何通もの手紙が行き交っておりました。
福島からの手紙は、内気な古関裕而という少年から。
愛知からの手紙は、勝気な内山金子という少女からのものです。
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まだお互い顔をあわせたことすらないものの、熱い恋心に燃えていた二人。
内山はイギリスの音楽コンクールに入賞した古関に楽譜を送って欲しいと頼み込み、古関は写しを送ると約束したのでした。
ロマンチックなこの文通が、やがておよそ一世紀を経て、2020年の朝ドラ『エール』で再現されるのですから、有名人とはなかなか大変なものです。
さて、山田の話にどうしてこの文通が出てくるのか?
手紙で山田について言及されているからなのです。音楽を愛する若い二人にとって、山田はまるで神のような大作曲家でした。
しかし、その文面は次第に「腐った品性」と山田を罵倒するものとなっていくのです。あんな男はいつか超えてやるという古関の野心も、恋する内山ならば吐露できました。
なぜ、文通でそんな展開になったのか?
雑誌で報じられたスキャンダルを古関が信じてしまったのです。
福島の純朴な古関にとって、
「山田耕筰氏と受難の永井郁子(初婚、スピード離婚したソプラノ歌手)女史」
「恋神現る――意味深長の長椅子」
「奪はれた唇……彼も喘ぎ彼女も喘ぐ」
という記事はあまりにも扇情的でした。
これを受けた古関から、金子への手紙にはこう書かれておりました。
私も、つひ一・二ヶ月前迄は、氏を崇拝してました。しかし、あの『主婦の友』の三・四月に連載された山田耕筰の内面を知った時、私は極度に、憤慨しました。
彼の芸術は立派だかも、知らないが、あの、腐った品性を、読んだ時、彼の作品にも、その悪性がしみ込んで居るかと思ふと。
日本随一の偉大な作曲家と崇拝してた、山田耕筰。今は彼を信ずる事が、出来なくなりました。
自分は、芸術に於て、山田耕筰氏以上にならい、否、断然山田耕筰氏を抜かうと思つてます。しかし、人格は、もう考へる丈けで、いやになります。
(誤字は文中のまま)
だからといって、ここまで罵倒されるというのも山田には酷な話かもしれません。時間もかなり経過してはいます。
このあと、古関と内山は文通を経て結婚に至り、音楽家を目指すことになります。
ロンドン行きの夢を絶たれて、福島で悶々としている古関夫妻。そんな彼らが昭和6年(1930年)上京できたのは、コロムビアレコードに対して相談役であった山田が、古関ならばよろしいと太鼓判を押したからなのでした。
日本が戦争へ向かう中、古関裕而という作曲家は、このあと時局が求め制限するまま、兵士の背中を押す軍歌を作曲することとなります。
それは山田も同じことでした。
大日本帝国の音楽家として
北原白秋と山田のコンビが作った童謡に『待ちぼうけ』があります。
この歌に出てくる話は、日本ではなく中国古典由来のものです。
『韓非子』の「守株待兔(しゅしゅたいと・くひぜをまもりてうさぎをまつ)」を童謡としたのです。
どうして日本ではなく中国なのか?
それは満洲国で歌われる「満洲唱歌」として作られたものであったから。中国の故事を日本人が作詞作曲することこそ「五族共和」の体現とされたのでした。
音楽と政治は決して無縁ではありません。
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山田も、拡張する大日本帝国の音楽家としての歩みをたどるようになります。
昭和15年(1940年)、オペラ『夜明け』(のちに『黒船』に改題)が初演され、この公演に対して翌年には朝日文化賞が贈呈。
昭和17年(1942年)には帝国芸術院会員に名を連ねました。
日本音楽文化協会会長に就任したのは昭和19年(1944年)のこと。
古関が歌謡曲で民衆を駆り立て、慰問団に参加するのであれば、山田は軍服を見にまとい、軍刀を身につけ、挺身隊を結成し、各地を演奏旅行で回りました。
大御所らしく、日本人を鼓舞する音楽を作り続けたのでした。
※皇紀2600年奉祝曲『神風』
古関と違い、山田は徴兵まではされません。だからといって、戦争と無縁であると言い切ることもできない。
皇紀2600年奉祝曲の指揮をとっていたのは、山田なのです。
中止となった夏季東京と冬季札幌のオリンピック。そして万博まで一体化して構想されていた企画に音楽面で参加し、その先頭にいたのは山田でした。
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終戦後の昭和20年(1945年)、音楽評論家の山根銀二から戦争犯罪責任を追及された山田。
これに対して「果して誰が戦争犯罪人か」を書いて反論します。
この件については、山田も、批判した山根も、古関にせよ、皆五十歩百歩であるとは感じられます。
むしろあの時代、反戦を唱えて音楽を作り発表できたのか? という状況です。
戦意高揚につながらないものは音楽ですらない。
音楽だけではなく、芸術そのものが軍需品であったことは確かです。
三浦環のように、祖国が勝てるわけがないと冷静な目で世を見て、時局に賛同せずにいた音楽家はごく少数の例外でした。
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ただ、そこを見て見ぬふりをして通り過ぎるか、認識するか。
ナチスドイツにおける文化人のように犯罪を認定されてはいないものの、だからといって忘れてよいものでもないはずです。
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明治から昭和にかけての日本そのもの
戦後になり、ヒットメーカーとなった古関。
彼は昭和を見続けた作曲家となりました。
一方、山田にはそこまでの長い時間はありません。
昭和23年(1948年)62歳のとき、脳溢血で倒れます。
昭和25年(1950年)には第一回放送文化賞を受賞。翌年には「山田耕筰賞」を設立し、後進を見守るようになりました。
さらにその2年後の昭和31年(1956年)には、70歳にして文化勲章を受賞しています。
この歳、長年連れ添った妻・菊尾と離婚し、辻輝子と2度目の結婚をしています。
そして昭和40年(1965年)末、世を去りました。
享年79。
山田耕筰は、日本人ならば誰もが知る音楽の巨人です。
ただ、必ずしも好意的に見られていたわけではありませんでした。
結婚の経緯にすっきりしないものを感じる方がいても、おかしくはありません。古関が手紙で罵倒するほどのスキャンダルがあったとしても、不思議はないのかもしれません。
セクシャルハラスメント、#Metooという概念が誕生する遥か前のこと。そうした恋愛遍歴は大目に見られ、かつ芸術家ともなればそうしたものであったことは確かです。
そうしたプライベートのみならず、戦時中はのちに論争となったほど軍部に協力したことも事実です。
山田にせよ、古関にせよ、音楽と政治、国の歴史は切り離せないということでしょう。
古関裕而の人生とは、昭和史の体現でした。
山田耕筰の人生は登りゆき、そして落ちた、明治から昭和にかけての日本の体現といえるのでしょう。
『エール』でそうした音楽と戦争、近現代史の関わりがどう描かれるのか。
注目したいところです。
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文:小檜山青
【参考文献】
山田耕筰『山田耕筰自伝 若き日の狂詩曲』(→amazon)
辻田真佐憲『古関裕而の昭和史』(→amazon)
『国史大辞典』
他












