頭は良い。
素晴らしい声も持っていて、人々を心酔させるカリスマ性がある。
それでいて、実は幕臣たちから疎まれていたのが徳川慶喜。
ご存知、江戸幕府の15代将軍であり、家臣である幕臣たちから疎まれるとは何事か!と違和感を覚える方も多いかもしれません。
歴史の授業では、大政奉還から江戸城無血開城まで、何やら颯爽と軽やかにこなしているし、大河ドラマ『青天を衝け』では“いい人”草なぎ剛さんが演じていたし。
そこで注目したいのが慶応4年(1868年)1月6日です。
この日、徳川慶喜は戦場に近い大坂城を脱出し、江戸へと逃げ帰りました。
戦場とは【戊辰戦争】のことであり、同合戦が始まる前は自ら「薩摩を倒すぞ!」と鼓舞していたにも関わらず、家臣たちを置いてトンズラしたのです。
問題は、その帰路。
大坂から江戸へ向かう船には、自らの側室を同船させていました。

徳川慶喜/wikipediaより引用
その後、明治維新を迎え、政治とは無関係の生活を送ったせいか。
徳川慶喜が追及されるようなことは殆どありませんが、彼は女性にだらしない一面があり、それは父の徳川斉昭から受け継いだものとも見てとれます。
幕末の行方を大きく左右したこの親子にはどんな行状があったのか。
大河ドラマ『青天を衝け』に揃って登場しながら、劇中では描かれなかった負の史実に注目してみたいと思います。
斉昭は精力が強すぎた
2021年の大河ドラマ『青天を衝け』で、徳川斉昭の最期が話題となりました。
愛する妻にキスをして死んでゆくその姿は、愛を感じさせたものですが……。
◆ 竹中直人の“キス死”は台本になかった! NHK大河「青天を衝け」人気を支える名優たちのアドリブ合戦(→link)
野暮なツッコミを承知で言わせていただくと、斉昭は、死の間際にキスなどできない状況にありました。
ときは万延元年(1860年)8月15日。
観月の宴(かんげつのうたげ)の折、厠に立ったところ、突如心臓発作に襲われ、あっという間に急死してしまったのです。
突然死には、こんな噂がたちました。
「彦根藩士の足軽・小西貞義が、庭師に化けて厠から出てきたところを刺殺したらしい。あの急死は井伊直弼の仇討ちだって」
荒唐無稽なゴシップなれど、そう囁かれるほどに評判の悪かったのが斉昭でした。
もちろんそれには理由があり、とりわけ下半身事情が酷い有様で、幕政にも大きく悪影響となっています。

徳川斉昭/wikipediaより引用
斉昭は精力が強い――。
とは、多くの幕末書籍に出てくる決まり文句といえます。
多くは夭折しておりますが、男女合わせ、子供の数は全部で37人。
斉昭は、内親王である正室・有栖川宮吉子女王を重んじ、側室を置きませんでした。
そんな妻ですから、一人の女性というより、むしろ尊王の志を実現するために重んじたのでしょう。
ただし、その正室も含めて斉昭の精力のことは理解しています。
乗馬する吉子に対し、斉昭が
「女が馬に乗るときは、鞍に棒を立てたら落ちないだろう」
と言うと、彼女はこう返したのです。
「御前は前壺に穴を開けたらよろしおすなぁ」
斉昭がどれほどの女好きだったか。
例えば、水戸の偕楽園で梅見をするときの女中たちは恐れ慄き、未婚の証である丸髷を結ったほどです。
既婚であると斉昭にバレると手をつけられてしまう……というのですから、どうしようもありません。
斉昭の大奥ゴシップ
こうした斉昭のゴシップは、皮肉屋の幕臣・大谷木醇堂の『灯前一睡夢』で書き留められていました。
あくまで自分の聞いた範囲と断りつつ、暴かれたゴシップ。
まるで現代の週刊誌記事のような妖しさに満ちています。
とにかく斉昭は、幕政や大奥から不人気なことで有名でした。
最たる理由は、唐橋という大奥の上臈(じょうろう・位の高い女官)です。
京都の公家出身であるという唐橋は、美貌で有名ながら、不犯の誓いを立てていました。それは55人もの子供をもうけた11代将軍・徳川家斉が迫っても拒むほど。

徳川家斉/wikipediaより引用
そんな美貌の噂ゆえか、とんでもない事件が起きます。
唐橋がつとめる徳川家斉の八女・峰姫が小石川邸に向かった折、斉昭が強引に関係を結び、懐妊させてしまったのです。
いったん人間関係を整理しておきますと……。
主人の峰姫は激怒しました。
家斉に訴えると、唐橋は堕胎させられ、京へと戻ります。
それでも斉昭はひそかに唐橋を呼び寄せ、茨城で囲い者にしたのです。何かと理由をつけ、水戸に帰っては逢瀬を楽しんだというのですから普通じゃありません。
ハッキリしていることがあります。
それは斉昭の性格です。
唐橋に手をつけたのは、美女だからということは当然考えられます。
しかし、それだけでしょうか?
斉昭は分家でありながら本家を潰すように動いた――幕臣たちがそう振り返っています。
つまり将軍の誘いをはねつけた美女をものにすれば、将軍の面目を潰せるという考えもあったのではないでしょうか。
そしてその結果、斉昭は大奥で徹底的に嫌われました。

橋本(楊洲)周延画『大奥』/Wikipediaより引用
元から「大奥なんぞあるから軟弱になる」と持論を展開し、狩猟で獲ってきた動物の死骸を大奥で見せびらかしていた斉昭です。
大奥からすれば、将軍の誘いすら断るほど潔癖な女性が操を踏みにじられ、堕胎までさせられたということになります。
徹底して嫌われるのも当然の話でしょう。
それが後に息子・慶喜の【将軍継嗣問題】まで影響し、一橋派が一網打尽に失脚させられるという幕政の混乱を招いたのでした。
老中首座の阿部に取り入り
しかし、そんな斉昭に、幕政に復帰する転機が訪れます。
老中首座に就いた阿部正弘です。
良く言えば人当たりがよい。悪く言えば八方美人。
誰の好意でも受け止める阿部正弘をターゲットにした斉昭は、せっせと阿部に取り入り、周囲からは「提灯持ち」とまで陰口を言われるほどでした。
斉昭も阿部を「チョウチンナマズ」だなんて呼んでいたというからゲスいというか……。

阿部正弘/wikipediaより引用
確かに阿部は開明的で、幕府屈指の力量ではありましたが、とてつもないミスをしました。
外国人排斥主義の天皇にリップサービスしたばかりか、斉昭に甘い態度をとったことです。
斉昭は幕政に入り込むと「異人を皆殺しにすれば解決でござる!」とことあるごとに言い募り、混沌の元凶となりました。
彼には掌中の珠があったのです。それが一橋家に養子入りさせていた慶喜でした。
13代将軍・徳川家定には子ができそうにない。
他の御三家に連なる子息は若すぎる。
その点、年齢でも器量でも、慶喜はうってつけである。しかし……。
「あの方は父親がオンブオバケだからなぁ」
斉昭が父であることが大きなマイナスに働いたのです。
これは松平春嶽も後に痛恨とともに振り返っています。
「慶喜を推す斉昭の強さ、親バカぶりにすっかり騙されてしまったのではないか?」と……。
春嶽だけでなく、慶喜を将軍にするため動いた者の多くは同様の感慨を抱いたことでしょう。むろん、その前に世を去ってしまった島津斉彬は違うでしょうが。
慶喜は京都で側室相手に羽を伸ばす
女性の尊厳を平気で踏みにじり、大奥に嫌われていた斉昭。
しかも「倹約しろ」とせっつくものだから、ますます人気は下がります。
ゆえに息子の慶喜が将軍を目指すにしても「あの父親の子では……」という時点で非常に不利でした。
斉昭と慶喜の味方である島津家出身の篤姫が奮闘したところで、どうにもならないほど。
というか慶喜自身にも、お世辞にも品行方正とは言えない一面がありました。
慶喜の妻となったのが京都から来た美賀君です。

美賀君(一条美賀子)/wikipediaより引用
大河ドラマ『青天を衝け』でも描かれましたが、精神不安定でゴシップをばらまき、一橋派の顔を曇らせた彼女。
そんな美賀君から逃げるようにして、京都に滞在したときの慶喜は自由を謳歌しました。
これまた当時のゴシップネタとして残されています。
「京都の一橋邸に婦人が入り、後宮ができるそうですよ」
「平岡円四郎が禁裏のお局からいただきたいと申し入れて断られたとか。それでもなんとか、公家に根回しして頼んだとか、慶喜公直々に頼んだとか、止められたとか……」
「なんでも慶喜公はお妾をホトガラ(写真)で選んだそうですよ」
こんなゴシップ情報が京都に残されています。
京都滞在の志士たちが派手な女遊びをした時代ですし、慶喜にスキャンダルの一つや二つあってもおかしくはないでしょう。
雑事をこなす側近の平岡円四郎が不憫ではあります。
ともかく上方では、慶喜が愛した中でも一番知名度の高い女性が登場します。

新門辰五郎/wikipediaより引用
このお芳がいかにして慶喜の妾となったのか?
新門の親分は、禁裏の防火を担うため、子分二百名を率いて堂々と上洛してきました。江戸の誇りを京都に見せつけるべく乗り込んだようなものです。
果たしてこれは、美人の娘が慶喜のお手つきだったからそうなったのか?
それとも側役が「あの親分の娘、なかなか器量よしでして」と吹き込んだのか?
彼女との関係が後か先か、因果関係が特定できません。
この身分違いの恋=シンデレラストーリーに皆は興味津々。
お召しになったお芳が慶喜と寝室に入ると、御中臈と、御坊主(剃髪した女中)が侍ったと言います。寝物語で政治工作を封じ、暗殺を防ぐため、大奥なりの工夫なのです。
しかし、お芳からすればとんでもない話。
「なんでえ、おまえさんたち、これからすることを覗こうってえのかい? 冗談じゃねえ、いやらしいんだよ!」
そうお芳から怒鳴られて、二人は逃げ出しました。
かようにキャラクター性十分な浅草娘を相手に、慶喜は羽を伸ばしていたのですが、後に彼女を連れていたことが、大問題へと発展してしまいます。
お芳が開陽丸に乗り込んだから大変だ
鳥羽・伏見の戦い前夜――。
慶喜は『討薩表』を記し、家臣たちの士気を鼓舞しました。
そうだ! 今こそ薩摩を討つべきだ!
そう奮い立つ幕府の将兵ですが、戦略ミスもあって【鳥羽・伏見の戦い】に敗北。
一方で大坂城は、煮えたぎるような興奮に沸き立っていました。

ナポレオン3世から贈られた軍服姿の徳川慶喜/wikipediaより引用
今度こそ、慶喜公が御出馬なさるべきだ! さすれば勝つ! せめて城を枕に討ち死にをしよう!
しかし、主戦論が息巻く中、慶喜の姿が忽然と消えたのです。
一体何があったのか?
実は逃亡の直前、会津藩の神保修理長輝が慶喜に東帰(江戸へ戻ること)を勧めたという話があります。
・大政奉還したのにボタンの掛け違いで戦闘に至ったからには、おとなしく罪に服する
・あるいは東から捲土重来を狙う
言い分としてはこの辺り。
ただ、このことは神保側と慶喜側の間で、証言の行き違いがあり、明確にされていません。
確かなことは神保夫妻の運命です。
神保の言動に会津藩士が激怒し、切腹処分となったのです。
さらに神保の未亡人・雪子は会津戦争において娘子軍として従軍し、戦死を遂げました。
鳥羽・伏見の戦いで、錦旗が翻ったからには朝敵にだけはなれない――慶喜がそう思い詰めたのも理由にされたりしますが「錦旗が本物かどうか……あれは胡散臭いぞ」というのは当時から散々指摘されています。
ともかく慶喜は、拉致するようにして会津藩主・松平容保と桑名藩主・松平定敬を引き連れ、軍艦に乗り込みました。
容保を連れていくにも関わらず、会津藩士にそのことを告げなかったのは、反対されると面倒だから。
容保は涙ながらに抵抗するも、慶喜が主命をふりかざすため、それこそ血を吐くような思いで軍艦に乗り込んだのです。

緋色の陣羽織を着た松平容保/wikipediaより引用
ここまでは涙があふれそうな顛末です。
しかし、話はここで終わりません。
慶喜らが乗る停泊中の軍艦に、一艘の小船が近づいてきます。なんとその上には、あのお芳がいるではありませんか。
「ええい、いかに寵愛を受けたとはいえ不届なやつ!」
そう追い払われそうになるも、お芳得意の啖呵でも切られたのか。結局、彼女は開陽丸に乗り込みました。
彼女の姿を見た者たちは呆然とします。
家臣を煽っておきながら、自分だけ東へ向かう。それだけでも言語道断なのに、よりにもよって女連れとは……。
武士の誇りとは?
武家の棟梁とは?
この人を公方様として仰いできた家臣の立場とは?
あまりに無惨な幕府瓦解の姿がそこにはありました。
なお、お芳は明治になると実家に戻されています。
聡明だが臆病な父子
斉昭と慶喜父子に振り回された者は大勢おります。
会津藩士や幕臣ともなると、まず激怒が先立つ。
大坂城から東帰するあたりを回想するとなると、怒りと軽蔑のボルテージがあがり、ただならぬ迫力があります。
そういったバイアスを差し引いて、冷静に慶喜の性格分析をできる人物がいます。
一橋派として斉昭に振り回され、慶喜に付き合いきれず苦労した松平春嶽で、彼はこう分析しています。

松平春嶽(松平慶永)/wikipediaより引用
慶喜は聡明である。感心せずにはいられない。
だが、これはあまり世間では知られていないものの、肝っ玉が小さい。臆病なのだ。
この性質は、父譲りと思われる――。
慶喜は家康の再来とはされます。
しかし、人間の器量とは、聡明さだけでは測れない。
確かに家康は【三方ヶ原の戦い】で武田勢の猛攻から逃げたとされます。
それでも一度は信玄に立ち向かい、敗戦を受け入れての逃亡ですから問題ない。勝敗は兵家の常でしょう。
では慶喜は?
ほぼ戦場に出ません。
慶喜が颯爽とした姿を見せた戦場は、味方が有利であり、窮鼠猫を噛もうとしていた【禁門の変】ぐらいのもの。あとは出陣を乞われても、のらりくらりとかわしていたのです。

禁門の変(蛤御門の変)を描いた様子/Wikipediaより引用
こうした性質は、こと女性に関しても表れていると思えてきます。
嫌がらせのように唐橋に手をつけておきながら、堕胎させるままにし、こっそり茨城で囲う斉昭。
吉子の目をおそれてか、身分の低い女中を狙って手をつけるあたりにも、臆病な性質が見えます。
慶喜は子沢山ではありますが、それでも母親である側室は身分の違いもあってか、細やかな愛情を示した類の逸話はさしてありません。
この父子は「安全圏であれば傲慢に振る舞い、そうでなければ縮こまる」という悪しき傾向を感じるのです。
斉昭と慶喜親子をどう評価すべき?
歴史とは、見る側の意識や世相が反映されます。
第二次世界大戦を経験した世代は、慶喜と近衛文麿を重ねる傾向が出ます。
無責任な国の上層部と慶喜を重ね、苦さを噛み締めてたのです。
樺太出身の綱淵謙錠(つなぶち けんじょう)は、終戦を学徒動員された第七師団で迎えました。
樺太という故郷を失った綱淵は、慶喜が薩摩を討つべく出した命令と、自分一人逃げ帰ったことをどうしても戦争と重ねてしまったと言います。
慶喜は軍の上層部であり、戊辰戦争で戦った人々は、樺太に残された人々と重なって思えたのです。
戦中派であり、同窓生の多くを戦争で失った山田風太郎は、慶喜の「豚一」をこう皮肉っています。
豚肉を食べる一橋公だから「豚一」だが、男10人、女11人を産ませた点も“豚”に思えなくもないと。

隠居生活で狩猟を楽しんでいた慶喜/wikipediaより引用
こうした戦中派の辛辣な評価を、我々はどう見るべきか。
果たして時代のせいだとして軽んじてよいものか。
斉昭のように強烈な自己愛で社会を引っ掻き回す人物。
慶喜のように無責任極まりなく、人の気持ちを軽んじる小心者。
こうした権力者を無批判に称え、持ち上げることは危険ではありませんか。
そんな連中に乗せられた結果を、戦争体験者は知っているからこそ、ああも厳しい評価になる。
平和な令和日本だからといって、大河ドラマで父子のキャラクターを過剰におもしろがり、「いい人すぎる」と持ち上げる危険性について、どうしても考えてしまいます。
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【参考文献】
野口武彦『幕末パノラマ館』(→amazon)
野口武彦『慶喜のカリスマ』(→amazon)
半藤一利『幕末史』(→amazon)
半藤一利『もうひとつの幕末史』(→amazon)
一坂太郎『明治維新とは何だったのか』(→amazon)
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
山田風太郎『人間臨終図鑑』全3巻(→amazon)
他





