幕府の体制はおおむね良い方向へ変わりますが、その息子である九代将軍・徳川家重、孫の十代将軍・徳川家治あたりから、再び状況は悪化していきます。
将軍本人の能力やヤル気の問題というより、この時期、新たな挑戦で四苦八苦していたからでした。
その一例が田沼意次の老中抜擢です。
意次自身は経済感覚に優れた人で、実際のところ賄賂まみれの強欲家臣なんかじゃない――という見方が現代では有力な印象ですが、当時は儒教的な価値観が非常に強い時代です。
ヒラ藩士の出身である意次の大出世は、それだけで大きな反感を買ってしまいます。
また、彼の行なった重商主義政策は、儒教的価値観からすれば拝金主義にしか見えません。
しばらくは将軍の信頼によって意次の独壇場が続いたのですが……。
度重なる天災と、徳川家治の死により意次は一気に没落。
幕府内では「やはり血筋の良い人物に”正しい”政治をしてもらおう!」という考えが強くなります。
そこで天明7年(1787年)6月19日に老中となり、【寛政の改革】を進めたのが松平定信でした。
※以下は田沼意次の関連記事となります
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おじいちゃんは八代将軍・吉宗
家治が亡くなると、当然ながら将軍も代替わりします。
生存している息子がいなかったので、御三卿の一橋家から徳川家斉が十一代将軍に就きました。一橋家当主・徳川治済の息子です。
「御三家との違いがわからないよ(´・ω・`)」という方は以下の関連記事をご覧ください。
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実は松平定信も、御三卿の一角・田安家の出身で、吉宗の孫にあたります(将軍・家斉は吉宗のひ孫)。
田沼意次を気に入らなかったメンツからすれば
『徳川の手に政治が戻った』
とも思えたでしょうね。
徳川吉宗は家康に次ぐ実力者だったのか?その手腕を享保の改革と共に振り返ろう
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さっそく、定信は”正しい”政治を行うために改革に乗り出します。
【寛政の改革】です。
定信が数年で失脚しているため、「大ポカした改革」というイメージが強い方も多いかと思われますが、少なくとも目的や理念はしっかりしていました。
寛政の改革の代表的な施策としては、棄捐令・人足寄場設置・寛政異学の禁などがあります。
一つずつ見て参りましょう。
棄捐令 寛政元年(1789年)
天明四年(1784年)12月以前の借金を全てチャラ。
それ以降は幕府が決めた新しい利率でお金を貸すようにする――というものです。
パッと聞いた感じ、かなり乱暴な話ですよね。
鎌倉時代などの徳政令を思い出すかもしれません。
当然、金貸し(当時は「札差」)からすると大損ですが、それでも金を借りる武士が消えたわけではないので、廃業する者は少なかったそうです。
暴利がなくなって健全になった、というところでしょうか。
「そもそも、武士が借金をしなければならないのは何故なのか」
というところにメスを入れないと意味がないと思うのですが、それって後世の我々からの知見であって、当時はそう簡単には行かなかったでしょう。
なにせ武士の給料は米。
米は【銭】に替えなければ生活ができず、結局は【貨幣経済に支配される】という構造的な欠陥があったのです。
【享保の改革】のときには、金銀含有率の低下で通貨の価値を下げて、米の価値を相対的に上げる――なんてことが行われたほどです。
幕末になるとドコの藩も借金苦にあえぎ、逆に、財政が豊かなところほど米頼りではなく、自国の殖産興業、つまり商工業に長けたところでした。
加役方人足寄場の設置 寛政二年(1790年)
他の地域から流れてきた無宿者(ホームレス)や軽犯罪者を収容。
社会復帰を促すための労働をさせる場所です。
現代で言えば、刑務所とかハローワークを合わせたような感じですかね。
これも単独の記事がありますのでので、詳しい話はこちらで。
鬼平犯科帳のモデル・長谷川宣以(長谷川平蔵)ってどんな人だった?
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