左から渡辺通・池田恒興・森長可の肖像画

左から渡辺通・池田恒興・森長可/wikipediaより引用

戦国FAQ

戦場に散った戦国武将たちは実際どんな最期を迎えていたのか?【随時更新】

武士にとっては華々しい最期とも言える討死。

文字通り、合戦の最中、敵に討たれて戦死することですが、その形態は様々ありますよね。

弓や鉄砲で撃たれたり、槍や刀で急所を突かれたり。

あるいは井伊直政のように、

井伊直政の肖像画

井伊直政/wikipediaより引用

関ヶ原の戦いで撃たれた鉄砲傷が、後日、その死に影響したのでは?と目されるようなケースもあります。

いずれも御家や家族のために戦った証。

今回はその一例に注目し、今後、本ページには戦国武将たちの命日を迎えた日に、その最期を追加して参りたいと思います。

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池田恒興と森長可

織田信長の乳兄弟として織田家でも重要なポジションにいた池田恒興。

その娘が森長可の正室であり、二人は義理の父子となりますね。

長可は「人間無骨」という恐ろしい名称の槍を使いこなしたことで知られる強烈な武将であり、しかも森家は信長のお気に入りでもあったので、恒興にとっては「自慢の婿殿」だったかもしれません。

そんな二人、実は討死したタイミングがほぼ同じでした。

天正十二年(1584年)春。2年前の本能寺の変で信長が亡くなり、その後の覇権を巡って豊臣秀吉(羽柴秀吉)vs織田信雄・徳川家康という合戦が起きました。

ご存知、”小牧・長久手の戦い”です。

合戦自体は同年3月に始まり、緒戦後は1ヶ月ほど膠着状態。

ジリジリと動かぬ戦況を打破するため、恒興は秀吉へ献策します。

池田恒興の肖像画

池田恒興/wikipediaより引用

「今のうちに家康の領地である三河を急襲しましょう」

三河といえば家康の最重要拠点だけに、ここを脅かせば徳川軍も小牧山城から出なければならず、そこへ襲いかかれば大打撃を与える可能性が出てきますが、同時にリスクが高いのは言うまでもありません。

ゆえに秀吉もいったん保留。

再度、池田恒興に請われて、ついに三河襲撃「三河中入(なかいり)」の許可を出しました。

実際は秀吉自らのアイデアであり、結果、失敗したため「恒興の提言だった」ということにしたのでは?という指摘もあります。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikipediaより引用

その点はさておき、話を先へ進めますと、軍勢は以下の通りでした。

◆三河中入軍(25,000)

総大将:三好秀次(羽柴秀次)

先陣:池田恒興・元助・照政

二陣:森長可

三陣:堀秀政・長谷川秀一

天正十二年(1584年)4月、彼らは意気揚々と三河へ向かいます。

しかし……。

この動きを察知していた徳川軍は、榊原康政や大須賀康高らの軍が羽柴秀次隊を壊滅させ、その知らせが恒興らに届いたときには、既に家康や信雄の本隊と対峙する状況に追い込まれてしまいました。

徳川軍の本隊と対峙することになったのです。

不利な情勢に置かれた中でも森軍は果敢に徳川へ攻撃を仕掛けますが、乱戦の中、長可が狙撃を受けて討死。

眉間に流れ弾が当たるという壮絶な最期だったとされます。

森長可/wikipediaより引用

一方、森長可の死を受けて動揺した池田軍も押される展開となり、恒興は、徳川家臣・永井直勝の槍を受けて討死したとされます。

恒興も直勝も十文字の槍で戦ったとか。

息子の池田元助も、徳川軍の安藤直次に討ち取られてしまいますが、照政だけは戦場からの離脱に成功しました。

 


毛利家臣・渡辺通

天文十二年(1543年)第一次月山富田城の戦いで、大内軍が撤退した際のことです。

尼子晴久の守る月山富田城へ大内義隆が攻め込んだもので、当時は毛利元就も大内軍の傘下に組み込まれていました。

この戦を一行でまとめると、以下の通りです。

・堅牢な山城である月山富田城に対して大内軍が力攻めしようとして失敗した

謀将として知られる元就ですから、事前に「調略などを用いたほうがいい」と主張。

しかし、大内義隆にその案を退けられた上、多大な犠牲を払って命からがら撤退することになったのです。

背後から敵に襲われる撤退戦は非常に難しいもの。

それを成功させたのが、毛利家の家臣である渡辺通(かよう/とおる)をはじめとした武将たちでした。

『毛利元就座備図』に描かれた渡辺通

『毛利元就座備図』に描かれた渡辺通/wikipediaより引用

通は、元就の甲冑を身につけ、文字通りの身代わりとなり討死したのです。

現場の「七騎坂」には今日でも看板が立てられており、その功績を伝えています。

ここからは個人的な推測ですが、おそらく元就がこの撤退から間もない頃に現地へ人をやって、通らの遺体を収容させたのでしょうね。

近隣の村人が供養のためその場所を記録した、という可能性もありますが、現代でも「山のど真ん中」といった感じの場所なので、直接関係のない人が頻繁に通りかかる場所でもなさそうですし。

なお、萩の常念寺にも渡辺通の功績を伝える功徳碑が残されています。

 

夏目吉信

「主君の身代わり」といえば、元亀三年(1573年)12月22日に行われた三方ヶ原の戦いを連想する方も多いかもしれません。

家康最大の敗北として有名なこの合戦では、徳川方の家臣が多く討死。

その中でも特に”身代わり”という面が強い二名の武将を見てみましょう。

まず一人目は夏目吉信です。

夏目広次(夏目吉信)

三方ヶ原の戦いを描いた『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』歌川芳虎作/wikipediaより引用

実は永禄五年(1562年)に家康が負け戦をした際、殿を務めて6回(!)も敵を食い止めたという撤退戦の名手でもありました。

その後、三河一向一揆では家康に敵対したものの、他の徳川家臣によって助命嘆願され、再び家康の家臣になったという経歴の持ち主でもあります。

三方ヶ原の戦いの時点で、帰参から10年ほどが経過。

すでに家康の信頼も取り戻していたようです。

浜松城の前を素通りして進む武田軍の背後を襲うべく、家康が出陣していった後、吉信は同城の留守居を任されていました。

しかし、櫓から戦況を見ていたところ、味方の敗色濃厚と悟り、家康を救援するため急遽出陣。

幸いにして家康と落ち合うことに成功すると、吉信は撤退を進言しました。

「ここで討死する!」

そう言い張る家康に対し、吉信は、業を煮やして家康の馬の向きを変え、文字通り尻を叩いて戦場を離脱させると、自ら家康だと名乗りながら、武田軍に突撃。

結果、討死となりました。

彼の名が特に知られているのは、家康が後に法蔵寺(岡崎市本宿町)へ墓を建てたことも大きいのでしょう。

寺には三方ヶ原の戦いでの戦死者を弔う慰霊碑も作られ、それとは別個に吉信の墓が作られた。要は、彼の名を特に称えたいのでは?ということです。

法蔵寺は、家康が幼い頃に手習いや学問をしたとされる寺でもあります。

今川氏からの独立後も手厚く庇護していたそうですから、吉信の最期をそれだけ丁重に扱ったということでしょう。

 

本多忠真

本多忠勝の叔父で育ての親。

忠勝の実父・忠高が天文十八年(1549年)に討死したため、忠真は前年に生まれたばかりの忠勝と兄嫁を保護していました。

本多忠勝の肖像画

本多忠勝/wikipediaより引用

そんな忠真もまた、夏目吉信と同様、三方ヶ原の戦いにおいて自ら殿を務め、迫る武田軍に突撃して討死したとされます。

忠誠心もさることながら、甥の成長に満足していたからなのかもしれません。

三方ヶ原の戦い当時、本多忠勝は20代前半の若武者になっており、元亀元年(1570年)姉川の戦いでは真柄直隆(熱田神宮所蔵の太郎太刀を使えたとされる人)との一騎打ちなどが伝わるなど、一人前以上の猛将となっていたのです。

忠真は「俺の役目はもう終わり」と割り切り、自ら、三方ヶ原を最期の戦場としたのかもしれません。

余談ですが、彼らと同様に三方ヶ原で家康を逃がすため武田軍へ突撃し、生還した人もいます。

鈴木久三郎です。

「鮒のご意見」という講談の元ネタになった諫言でも有名な方ですね。

当初、家康は他の家臣同様「久三郎も討死したのだろう……」と思っていました。

しかし久三郎はケロッとした顔で戻ってきて「大して強くありませんでした」(超訳)とのたまったそうです。心臓に毛が生えているどころの話ではない御仁ですね……。

現実的に考えると、久三郎が戦った時点で武田軍は疲弊しきっていたのかもしれません。

吉信や忠真らにしてみれば「俺らが削ったんだよ!!」と言いたかったでしょう。

 


豊臣家臣・一柳直末

「戦場では何があるかわからない」

それは至極当然の話ですが、本当に”不慮の事故”としか言いようがない経緯で亡くなった人もいます。

豊臣秀吉の家臣・一柳直末(ひとつやなぎ なおすえ)がその一人です。

一柳直末は小田原征伐の緒戦である山中城(静岡県三島市)攻略に参加していた際、城方からの銃撃で流れ弾を受けて討死してしまいました。

当然、彼の隊は混乱に陥り、弟の一柳直盛が代わりに指揮を取ってなんとかその場を収めています。

山中城跡の障子堀

山中城障子堀を別の角度から

 

鬼島津の長男・島津久保

「鬼島津」で知られる島津義弘、その長男の島津久保(ひさやす)。

島津義弘の肖像画

島津義弘/wikipediaより引用

当時の島津家は、義弘の兄である島津義久が当主であり、久保はその娘婿となって、島津家の次期当主になる予定でした。

しかし慶長の役で朝鮮に渡海した際、現地で病死してしまうのです。享年21。

久保については、餓死説もあるという点が凄まじいところでしょう。

慶長の役では「物資の運搬やそれを運ぶ船の調達が滞ったために餓死者が続出した」と指摘されていて、その一人だった可能性があります。

久保の死に際しては、殉死者が三名出たり、山伏になって供養した家臣がいたり、舅の義久が「南無阿弥陀仏」を一文字ずつ冠した哀悼の和歌を詠んだり、人格が偲ばれる逸話が多々あるのも物悲しいところ。

久保の代わりに島津家を継ぐことになった島津忠恒(後に家久)が非常識な行動をしまくるので、それと比較された可能性もありますが。

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伊達家の家臣・原田宗時

伊達家の家臣。

主君・伊達政宗に従って慶長の役で渡海しています。

しかし、慶長の役が休戦となる直前の文禄二年(1593年)に釜山で風土病を患い、政宗の許可を得て帰国する途中の対馬で、力尽きてしまったとされています。

先の島津久保といい、享年29であり、慶長の役における豊臣軍が凄まじい状況に置かれていたことがうかがえますね。

 

『信長公記』

『信長公記』には、行軍中に凍死者が出たという記録が散見されます。

参考までに、そちらもまとめておきましょう。

・永禄十二年(1569年)1月

足利義昭の御所が襲われた「六城の合戦」を知って急遽信長が上洛した際、「大雪の中を強行したため人夫や下働きの者の中に凍死者が数人出た」との記載

・天正元年(1573年)10月

織田家による北伊勢攻略中、激しい風雨のために人足たちの中で凍死者が出たとされています。

何日頃のことなのかはっきりしないのですが、直後に「10月26日に信長が岐阜へ帰還した」とあるので、その前のことかと。

・天正十年(1582年)3月28日

武田征伐の直後、織田信忠が諏訪へ向かった時のことです。

どんな人が亡くなったのか不明ですが、「一時的な豪雨と風のため非常に寒く、凍死者が出た」といいます。

凍死や現代でいうところの熱中症については、当時そういった知識がなく「単なる病死」と扱われていた可能性もありそうです。

前述の通り、今後、本ページには他の戦国武将についても追記して参ります。

よろしければご一緒に御冥福をお祈りください。

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参考文献

  • 峰岸純夫・片桐昭彦(編)『戦国武将・合戦事典』吉川弘文館、2005年3月。ISBN:978-4-642-01343-7(ISBN-10:4642013431)
    出版社公式サイト(書誌情報)
    Amazon:Amazon商品ページ
  • 太田牛一(著)/中川太古(訳)『現代語訳 信長公記(新人物文庫)』KADOKAWA、2013年10月(紙:2013年10月9日/電子:2013年10月25日)。ISBN:978-4-046-00001-9(ISBN-10:4046000015)/ASIN(Kindle):B00G6E8E7A
    出版社公式サイト:KADOKAWA(書誌情報)
    Amazon:Kindle版
  • 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相(角川新書)』KADOKAWA、2024年12月10日。ISBN:978-4-040-82494-9(ISBN-10:4040824946)
    出版社公式サイト:KADOKAWA(書誌情報)
    Amazon:Amazon商品ページ
  • 国史大辞典編集委員会(編)『国史大辞典』吉川弘文館、1979年3月。ISBN:978-4-642-00501-2(ISBN-10:4642005013)
    ジャパンナレッジ公式サイト

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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