大河ドラマ『豊臣兄弟』で菅田将暉さんが演じ、一躍注目を集めている竹中半兵衛。
稲葉山城をわずかな手勢で乗っ取り、信長の命令に逆らってまで黒田官兵衛の嫡男・松寿丸を救った――これだけ聞けば確かに天才であり、義の人である。
しかし日本に「軍師」という職務は存在せず、フィクションが先行した部分も多い。
史実の半兵衛は本当に天才だったのか? 36歳で早世した生涯を史実から検証してみよう。
どんな家に生まれたのか?
竹中半兵衛が生まれたのは天文十三年(1544年)。
秀吉のもとで半兵衛と官兵衛の二人が「両兵衛」とか「二兵衛」と評価されたのは、同年代の親しい参謀というイメージが働いているからであろう。
父は大御堂城主の竹中重元(しげちか)だが、竹中家は弘治二年(1556年)、半兵衛13歳のときに苦境に追い込まれてしまう。
斎藤道三と斎藤義龍の間で「長良川の戦い」が起き、父の重元が道三に味方したのだ。

斎藤道三(左)とその息子・斎藤義龍/wikimedia commons
この戦いで道三は討たれ、敗軍の将となった重元もすぐに義龍から攻め込まれ、大御堂城を捨て、近江との国境に近い不破郡へ転進すると、永禄元年(1558年)に岩手氏から菩提山城を奪い取り、同城へ移った。
その後は近江六角氏と美濃斎藤氏の間で危ういバランスの中でどうにか生き残るも、重元は永禄五年(1562年)に亡くなり、半兵衛は19歳で家督を継いだ。
義龍が、永禄四年(1561年)に急死していたのは、半兵衛にとっては僥倖であっただろう。
このころ美濃三人衆の一人である安藤守就の娘を正室に迎えており、斎藤氏との繋がりは整っており、斎藤龍興に仕えることになった。
斎藤氏の家臣団も、たびたび織田軍の侵攻を阻むなど、まだ結束を保っていた。
しかしその一方で、肝心の斎藤龍興が……。
なぜ稲葉山城を乗っ取ったのか?
竹中半兵衛の名を最も高めたのは、何と言っても「稲葉山城乗っ取り事件」であろう。
快川紹喜による書状には次のように記されている。
永禄七年(1564年)2月6日の昼頃、竹中半兵衛が岳父の安藤守就と共に稲葉山城を強奪した。
その際、斎藤飛騨守など六人が討死。
主君の斎藤龍興は、義龍の代から六人衆として知られる重臣・日根野弘就や竹腰尚光らと共に城から逃げ、周辺の各拠点に入って半兵衛たちと対峙。

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikimedia commons
稲葉山城下は放火され、火の海となってしまった。
この一件には家中でも動揺が一気に動揺が走り、義を持ち合わせない恥知らず共が、半兵衛と守就に従った。
最後はなかなか辛辣ながら、美濃の有力僧侶である快川紹喜の書状であるため、史実から大きくは逸脱してないであろう。
『信長公記』では一切触れられず、小瀬甫庵『太閤記』ではさらに細かく記されるも、誇張が考えられるので割愛。
半兵衛の動機は今なお不明だが、斎藤龍興に対して何らかの不満があり、乗っ取り計画を実行したと思われる。
いずれにせよ、わずかな手勢(実際の数は不明)で、まるでマンガのように手際よく城を奪ってしまう――さすが天才!という評価が生まれたわけだ。
いつから秀吉や信長に仕えたのか?
稲葉山城乗っ取り事件から3年後の永禄十年(1567年)夏。
美濃三人衆の織田への寝返りにより、結局、斎藤龍興は追い出され、美濃は織田信長のものとなる。

織田信長/wikimedia commons
では竹中半兵衛はいつから織田家に仕えたのか?
確実視されるのは元亀元年(1570年)以前だ。
『絵本太閤記』では秀吉が“三顧の礼”で迎え、永禄十年以前から仕えていたとされるが、あくまで創作であろう。
一方『信長公記』では元亀元年(1570年)姉川の戦いで、半兵衛の弟・竹中重矩(重隆)が遠藤直経を討ち取るという武功が記されており、この頃に半兵衛も仕えていたと目される。
なぜなら、その戦いの直前に近江浅井方の堀秀村が織田方の調略に応じており、その交渉の窓口になった樋口直房と半兵衛が旧知の間柄だったからである。
そして姉川の戦い後、浅井の本拠地・小谷城を監視するための横山城に秀吉が城番として入り、半兵衛が守将を任せられている。
秀吉の不在時に城を守る役割であり、実際、長政からの攻撃を撃退したという。
また、半兵衛の息子である竹中重門『豊鑑(とよかがみ)』では、元亀元年に秀吉が浅井攻めの先陣を志願し、その際、信長から半兵衛を預けたことが記されている。
同時期から秀吉の与力として活躍していったのはやはり間違いなさそうだ。
その後、秀吉は対浅井の最前線で死闘を繰り広げ、天正元年(1573年)8月、小谷城の戦いでついに織田軍が浅井長政を滅亡させるとき、お市の方や浅井三姉妹の救出にも成功。
以降、長浜城主となる。
半兵衛の活躍は特筆されてはいないが、長浜領内で約1千石の領地が与えられた。
城攻めでの実績はあるのか?
長浜城主となってからの秀吉は、その後も織田家のあらゆる合戦に参じた。
天正三年(1575年)5月長篠の戦いを皮切りに、越前一向一揆討伐や石山合戦(対本願寺)、あるいは松永久秀の信貴山城攻めなど。
長篠の戦いでは「武田勝頼の陽動作戦を竹中半兵衛が見抜く」というエピソードが『太閤記』に記されているが、やはり創作であろうか。
『信長公記』に竹中半兵衛(重治)の名が初めて登場するのはやや遅く、天正五年(1577年)10月のことだ。
織田信長の命により中国攻めに取り掛かった秀吉が、播磨の平定に臨み、黒田官兵衛と合流。

黒田官兵衛/wikimedia commons
姫路城を拠点に周辺勢力を押さえると、翌11月には宇喜多直家の守る上月城への攻撃を開始した。
このとき半兵衛の名が記され、官兵衛と共に福原城へ迫り、短期間で両城が攻め落とされたことが記されている。
あまりにも首尾よき展開である。
いささか出来過ぎでは……という懸念はその通りで、次に待っていたのが“一度は降った者たちの離反”だった。
天正六年(1578年)、三木城の別所長治、そして有岡城の荒木村重が共に毛利氏に寝返り、秀吉たちの前に立ちはだかったのである。
その結果、播磨の各諸将らも相次いで毛利方に転じ、さらには荒木村重の説得に向かった黒田官兵衛がそのまま幽閉されるという最悪の展開を迎えた。
何より激怒したのが織田信長だ。
「官兵衛の息子を処分せよ!」
信長は、黒田官兵衛も荒木村重に続いたと考え、人質として預かっていた長男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害命令を出したのである。
この絶体絶命の状況を一身に引き受けたのが竹中半兵衛だった。
なぜ松寿丸を命がけで救ったのか?
黒田官兵衛はこの場で寝返るようなことはしない――そう考えた半兵衛は、松寿丸を匿うことを決心。
おそらく秀吉にも事前に伝えておいたであろう。
その上で別の首を用意して織田信長に差し出し、稲葉山城乗っ取り事件での同志であった不破矢足に命じて松寿丸を避難させた。
半兵衛の決断は正しかった。
荒木村重に幽閉されていた官兵衛は天正七年(1579年)11月、約1年後に救出され、裏切っていなかったことが明らかになったのである。
しかし、官兵衛が謝意を伝えたい半兵衛は、すでにこの世にはいなかった。
病魔に蝕まれた身をおして三木城の包囲網に向かい、天正七年(1579年)6月13日、36歳の若さで亡くなっていたのだ。
竹中半兵衛に、病弱な天才というイメージがつきまとうのは、こうした最期のためだろう。

竹中半兵衛/wikimedia commons
日本に軍師という職務はなく、天才という評価も見る角度によって様々。
半兵衛の肩書は、フィクションが先行した物語性の強いものだが、信長からの叱責という危険を承知で松寿丸を匿った勇気は厳然たる事実である。
松寿丸から成人した黒田長政は、終生このときの恩を忘れず、半兵衛の孫や不破矢足の子らを高禄で抱えたという。
参考書籍
洋泉社MOOK 歴史REAL『戦国最強の軍師黒田官兵衛と竹中半兵衛』(2013年10月 洋泉社)
木下聡『斎藤氏四代:人天を守護し、仏想を伝えず』(2020年2月 ミネルヴァ書房)
宮島敬一『浅井氏三代 人物叢書』(2008年2月 吉川弘文館)
【TOP画像】竹中半兵衛/wikimedia commons
