大河ドラマ『豊臣兄弟』の第9回放送で美濃を追い出された斎藤龍興。
ドラマでは尻尾を巻いて逃げ出す負け犬のごとき描かれ方だったが、実はそれほどヤワな人物ではない。
史実ではその後、織田信長に対して三度の合戦に参加し、二度は織田軍を窮地に陥れるほどの戦いを見せている。
では、美濃を追われた龍興はその後どのような最期を迎えたのか。

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikimedia commons
龍興の足跡を振り返ってみよう。
其の壱 本圀寺の変
永禄十年(1567年)8月に美濃を追い出された斎藤龍興は、船で伊勢長島へ向かったとされる。
その後のルートは不明ながら、辿り着いたのは京都。
旧知の間柄であった三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)を頼ってのことだと思われ、実際、最初の戦いは、その三好三人衆と共に戦場へ臨んでいる。
時は永禄十二年(1569年)1月5日のことだ。
美濃から家臣の長井道利(隼人佐)を伴に連れていた龍興は、浪人たちを兵として集め、三好三人衆らと共に京都の本圀寺へ向かった。
狙いは足利義昭である。

足利義昭/wikimedia commons
前年の永禄十一年(1568年)10月、織田信長と伴に上洛を果たした義昭は、室町幕府の15代将軍に就任し「六条の御所」とされる本圀寺に滞在していた。
そこに龍興らが襲いかかった。
いわゆる「本圀寺の変」である。
信長にしてみればたまったもんじゃない。
樹立したばかりの政権を潰されては自身の面目だけでなく京都の治安維持にも関わり、織田家の失墜にほかならない。
京都防備のため、佐久間信盛や村井貞勝、丹羽長秀、豊臣秀吉などの武将と共に5,000の兵を残しておき、同時に日常の市政も任せていた。
しかし、その間隙を縫うようにして本圀寺が襲われたのだった。
義昭を守るのは明智光秀や細川藤孝
三好三人衆や龍興らにしてみれば、織田軍の虚を突く作戦。
信長と義昭の上洛時に四国へ追い出された彼らは、堺から再び上陸しており、新年5日になって本圀寺へ攻め込んだのだった。
龍興たちの兵数は不明である。
一方、本圀寺で義昭を守るのは明智光秀や細川藤孝などで、こちらも兵数はわからない。攻め込んだ龍興らに対し、防戦に応じている程なので、圧倒的な兵数差ではなかったのだろう。

細川藤孝(左)と明智光秀/wikimedia commons
しかも龍興らは、寺側からの和平交渉などに時間を取られてしまい、そうこうしているうちに翌日6日を迎えてしまう。
そこへ織田軍の和田惟政や池田勝正、三好義継らが援軍にやってきた。
これにて襲撃は終了。
もっとも驚くべきは信長の動きかもしれない。
事件の一報を聞くとすぐに城を飛び出し、通常は10日間かかる岐阜から京都までの道のりを2日で到着したという。お伴の者は松永久秀を含めて十騎程度。
信長にとっては、さほどに重要な事件だったのだろう。
一方、斎藤龍興にとっては、十分すぎるインパクトはあったと思うが、まだまだ手は緩めない。
翌年、今度は本願寺と織田軍の戦いにも参戦しているのであった。
其の弐 野田・福島の戦い
よく死なずに済んだよな――織田信長にはそんな場面が幾度もあるが、その中で最も厳しい状況に追い込まれたのが「第一次信長包囲網」であろう。
上記のように畿内周辺エリアの諸勢力が反信長スタンスで取り囲み、次々に合戦を仕掛けていったのだ。
そして斎藤龍興も参戦していた「野田・福島の戦い」は、この包囲網のクライマックスとも言えた。
戦いは、永禄十二年(1569年)「本圀寺の変」から連綿と続いた。
翌元亀元年(1570年)の4月になって織田軍が越前朝倉へ侵攻すると、浅井長政が突如裏切って織田軍に襲いかかり、その2ヶ月後の6月には「姉川の戦い」で両軍が激突。
豊臣秀吉が城番を務めることになる横山城を確保するなどして、戦後の結果は織田方が有利に働く一方、その隙をついて摂津で再び蜂起したのが斎藤龍興や三好三人衆だった。
彼らは野田城と福島城に立てこもり、元亀元年(1570年)8月26日から織田軍との戦いを始める。

野田城福島城の戦い
本願寺も蜂起
龍興ら守備側の軍勢は8,000程で、主な武将は以下の通り。
◆野田・福島の戦い
・斎藤龍興
・長井道利
・細川昭元
・篠原長房
・安宅信康(あたぎのぶやす)
・十河存保(そごうまさやす)
・三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)
対する織田軍は信長本隊が3,000程で、その他は40,000の大軍。
兵力的には織田軍が圧倒しているが、野田城と福島城の背後には石山本願寺の顕如が居て、不穏な空気を醸し出している。

顕如/wikimedia commons
元亀元年(1570年)8月26日に始まった戦いは、なかなか熾烈なものとなった。
斎藤龍興がどこまでリーダーシップを発揮していたか、その点は不明である。
家督を継いでから約10年、織田信長と真正面でやり合ってきた経験値は群を抜いており、「物怖じしない」という一点の強みだけでも味方には励みとなったであろう。
足利義昭が2,000の兵を率いていることもあってか、戦いは織田方有利に進み、またもや敗北か和睦か……というところで事態は急転。
本願寺の顕如が突如、三好三人衆につき、織田方へ攻撃を始めたのだった。
顕如は伊勢長島にも攻撃を要請しており、伊勢尾張の国境エリア・小木江城では、一揆勢に攻め込まれた信長の弟・織田信興が自害へ追い込まれている。
しかも、こうした動きに呼応して浅井朝倉連合軍が約3万もの兵を連れて上洛を始め、信長の背後に迫ってくる。
もはや織田軍は「野田・福島の戦い」を放棄するしかない。
結局、信長は浅井朝倉連合軍を迎え撃つため、近江へ向かって北上するしかなかった。
なお、この続きが気になる方は弊サイトの別記事「志賀の陣と宇佐山城の戦い」をご覧いただきたい。
其の参 美濃入国計画
野田・福島の戦い後の斎藤龍興が次にしたことは?
実は元亀二年(1571年)8月頃、美濃での復権を目指し、国内進入を画策していたことが明らかになっている。
越前から美濃へ南下する予定だったようで、朝倉氏のもとへ向かいながら、同時に本願寺から美濃国内の寺社へ斎藤龍興への協力をお願いする書状を出させている。
要は本願寺のお墨付きで、信長を内側から撹乱してやろう!ということだろう。
自身は越前から南へ、かつての側近・日根野弘就には伊勢から北へ、南北から織田方を挟撃してやろうという魂胆だ。
が、しかし、現地寺社の僧侶は龍興が来ることに苦慮しており、実際に、龍興の入稿が成就した記録も残されていない。
残念ながら計画倒れに終わったのであろう。
其の肆 刀根坂の戦い
元亀三年(1572年)末、織田信長に再び、人生最大クラスのピンチがやってきた。
同年12月に同盟相手の徳川軍が武田信玄とぶつかると、「三方ヶ原の戦い」で圧倒的な強さにボロ負けしたのである。
信玄の、次なる狙いが信長であることは明白。

絵・富永商太
もはや兵のやりくりもままならず、まさしく四方八方を塞がれた織田信長だったが、今回もまた土壇場での豪運が発揮される。
すぐそこまで迫っていた武田軍が急遽進軍を取りやめ、国へ帰ってしまったのだ。
あまりにも不自然な行動ゆえ「武田信玄が死んだのでは?」という噂も流れ、実際その通りだったのだが、信長と袂を分かっていた足利義昭はそのまま方針を曲げることなく信長に敵対。
同年7月、織田を相手に「槇島城の戦い」で敗れて京都から追放されると、返す刀で信長は浅井の小谷城へ攻め込んだ。
するとそこへ、朝倉義景が越前から軍を率いてやってきた。
しかし、事ここに至っても覇気のない義景は、織田軍に夜討ちを仕掛けられると、そのままあっさり敗走してしまう。
実はその朝倉軍の中に斎藤龍興もいた。
織田軍の猛追に押されて、次々に首を取られていく朝倉軍。
そのピークは刀根坂(現敦賀市)となっていて、龍興もまた「刀根坂の戦い」で首を取られてしまっている。
享年は27(あるいは26)。
結局、入国作戦が未遂に終わったまま朝倉軍と共に討たれてしまい、斎藤龍興のリベンジも終わった。
なお、龍興や信長の美濃攻略については、それぞれの別記事「斎藤龍興は本当に“バカ殿”だったのか?」「なぜ信長は美濃攻略に7年以上もかかったのか?」を併せてご覧いただければ幸いです。
参考書籍
木下聡『斎藤氏四代:人天を守護し、仏想を伝えず』(2020年2月 ミネルヴァ書房)
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)』(2015年9月 戎光祥出版)
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
【TOP画像】斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikimedia commons
