織田信長の肖像画

織田家

鉄砲で狙撃されながら生還した信長|金ヶ崎撤退後も危険だった京から岐阜への道

元亀元年(1570年)4月、浅井長政の離反によって窮地に陥った織田信長

越前朝倉攻めからの撤退を余儀なくされ、命からがら京都まで逃げのびたことは大河ドラマ『豊臣兄弟』第13回放送でも描かれました。

問題はその後です。

信長は、織田軍をどう立て直し、どのように岐阜城へ戻ったのでしょうか。

ドラマの予告編では、すぐに「姉川の戦い」へと流れるような描かれ方でしたが、京都から岐阜城までの距離はルートによって約120~150kmもあります。

なんせ、その道中は六角氏の残党や浅井勢も待ち構えているわけで、どの道を選ぶのかという帰路も重要。

実際に信長は「敵勢力の刺客から鉄砲で狙撃される」という危うい場面があり、約2週間の日数を経て、ようやく岐阜城へと戻っています。

織田信長の肖像画

織田信長/wikimedia commons

本記事では、その全過程を振り返ってみましょう。

 


朽木越えで撤退(4月28日〜30日)

浅井長政に裏切られた元亀元年(1570年)4月28日夜――。

織田信長は、木下秀吉や明智光秀、池田勝正らに殿軍(しんがり)を任せ、自らはわずかなお供を連れての撤退を開始しました。

金ヶ崎城から京都御所までの距離は約100kmあります。

徒歩ならだいたい3日間、馬で急いでも1~2日は要する距離ですね。

※こちらの地図は金ヶ崎城~朽木陣屋~京都御所をむすぶ現代の道路となっています

そこで信長一行は、越前から南進して琵琶湖西岸を進むルートを選んだのですが、一つ、注意が必要なエリアもありました。

朽木元綱の治める朽木領です。

金ヶ崎城と京都御所のちょうど中間(約50km)にある拠点で、もしもこの元綱に命を狙われたら、多勢に無勢でひとたまりもありません。

朽木氏は幕府奉公衆である一方、浅井氏との関係もあり、通行の保証が得られなければ極めて危険な道程でした。

そんな状況で、朽木元綱との話をまとめたのが松永久秀ともされます。

松永久秀の肖像画(高槻市立しろあと歴史館蔵)

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)/wikimedia commons

かくして信長は最大の危機を脱し、4月30日には無事に京都へ到着しました。

 


京都滞在で健在アピール(5月1日〜8日)

織田信長は京に到着した後、すぐに岐阜へは向かわず、5月8日まで滞在を続けました。

残りの軍勢や武将、特に殿(しんがり)を引き受けた豊臣秀吉や明智光秀、池田勝正などを待っていたのもありましょう。

しかし、それだけではありません。

5月に入ると、1日には御所の工事視察を行い、3日には朝廷へ白瓜を献上。

多くの公家衆の見舞いを受け、信長は自らの健在を内外に示しました。

さらには将軍・足利義昭に戦況を報告するだけでなく、京都の有力者からは人質を取り、義昭に預けました。

足利義昭の肖像画

足利義昭/wikimedia commons

今後、岐阜へ戻って、浅井や朝倉との戦いを始めるにあたり、謀反を未然に防いでおくためでしょう。

実際、南近江の守山では六角氏が蜂起しておりましたが、稲葉一鉄父子らが防戦してこれを撤退させています。

それを確認した信長は、5月9日、ついに2万の軍勢を率いて岐阜城までの帰還を始めました。

 

近江の要衝に家臣を配置(5月9日〜13日)

織田軍は岐阜までどう戻ったのか?

まずは南近江を通って北上し、その後は浅井勢の攻撃を避けるため南側のルートを進むのが現実的でした。

とはいえ南近江の統治も安定しておらず、京都―岐阜間の通行を確保するため、各拠点に重臣を配置しながら進みます。

地図を確認しながら進めましょう。

まず京都から最も近い宇佐山城(一番左)には森可成(よしなり)。

森蘭丸や森長可の父親で、信長からの信頼も厚い重臣です。

宇佐山城は、琵琶湖西岸から京都へ迫る越前勢への侵攻にも備えていました。

次の永原城(左から二番目)には、同じく重臣の佐久間信盛が配置されました。

そして長光寺城には「鬼柴田」こと柴田勝家が置かれ、旧安土城には中川重政、守山方面では稲葉一鉄父子がつき、六角氏による土豪の蜂起などに対抗します。

柴田勝家の肖像画

柴田勝家/wikipediaより引用

全員が織田家の重臣。

ここで配置された顔ぶれを見れば、信長がこの帰還ルートの確保をいかに重視していたかがわかります。

特に琵琶湖は、付近一体の大きな利権かつ軍事上の重要エリアでもありますから、対浅井という面からもカッチリ固めておく必要があった。

単に岐阜へ帰ればOKというわけでもなかったのです。

 


杉谷善住坊による狙撃(5月19日〜21日)

南近江の各拠点を押さえていった織田軍は、結局、そのまま北上はしていません。

以下の地図をご覧ください。

一番上の赤い拠点が浅井長政のいる小谷城です。

その南側から東へ向かえば、岐阜城までほぼ一直線ですが、言うまでもなく浅井軍と衝突する可能性が高い。

しかも六角義賢が再び立ち塞がったため、信長は、長光寺城や安土城の東側である甲賀の甲津畑から伊勢に抜けるルートに決めました。

目印は、紫色の徒歩マークです。

鈴鹿山脈を渡る道で「千草越え」と呼ばれるこのルート。

険しい山中を進むわけですから、いかに大軍とて細長くならざるを得ず、かなり危険な行軍でした。

そのときです。

二発の鉄砲の音が、突然、山中に鳴り響きました!

信長が撃たれたのです。

撃ったのは、六角氏に雇われた刺客・杉谷善住坊でした。

山中に潜伏して織田軍を待ち構えていた杉谷善住坊が、信長に向けて二発の弾丸を発射!

弾丸は信長の体をかすめたとされ、致命傷には至りませんでした。

すぐさま周囲の馬廻衆が助けに入ったのでしょう。致命傷には至らず、難を逃れています。

そして5月21日、信長はついに岐阜城への生還を果たしました。9日に京都を出発してから13日間にわたる危険な旅程でした。

 

まとめ

金ヶ崎の退き口を経て京都へ戻った織田信長。

その後の行動は単なる逃走ではありませんでした。

京都での健在アピール。

近江における戦略的な拠点構築。

そして狙撃という不測の事態を乗り越えての帰還。

一連の動きは、姉川の戦い、さらに浅井・朝倉討伐へ向かうための重要な軍事・政治上の布石でした。

なお、信長を狙った杉谷善住坊は、もう一度、狙撃にチャレンジしており、最期はかなり恐ろしい結末となります。

よろしければ別記事「信長を襲った刺客の処刑は恐怖の鋸挽き」をご覧ください。

※最初に狙撃した記事はこちら「杉谷善住坊が火縄銃で信長を狙撃」です

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

👨‍👦 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


参考文献

太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
池上裕子『織田信長 (人物叢書)』(2012年12月 吉川弘文館)
藤本正行『信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学』(2003年1月 講談社)
和田 裕弘『柴田勝家-織田軍の「総司令官」』(2023年6月 中央公論新社)
堀新『信長公記を読む(歴史と古典)』(2009年1月 吉川弘文館)
日本史史料研究会/渡邊大門『信長研究の最前線2 (歴史新書y)』(2017年8月 洋泉社)

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BUSHOO!JAPAN(五十嵐利休)

武将ジャパン編集長・管理人。 1998年に大学卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、累計4,000本以上の全記事の編集・監修を担当。月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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