小早川隆景・毛利輝元・織田信長・吉川元春の肖像画

戦国FAQ

なぜ織田と毛利は敵対したのか?友好関係だった両者が全面戦争へ突入するまで

織田家と毛利家といえば、戦国時代を代表する大国であり、最初からバチバチやりあっていたイメージがあるかもしれません。

しかし実際は、そうとは言えません。

信長が上洛した永禄十一年(1568年)ごろ両者は友好関係にあり、その翌年には毛利元就の要請を受けた信長が但馬・播磨方面へ秀吉を派遣したこともあったほど。

それがなぜ全面戦争へ突入してしまったのか。

大河ドラマ『豊臣兄弟』でも秀吉の中国方面攻略がいよいよ本格化しております。

その大前提となる織田と毛利の関係を史実面から振り返ってみましょう。

 


最初から敵同士だったわけではない

織田信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)当時、毛利元就は中国地方の覇者ともいえる存在でした。

大内氏や尼子氏との争いに勝利。

安芸・備後・周防・長門など中国地方の8ヶ国に勢力は及び、瀬戸内海にも強い影響力を持っていました。

毛利元就の肖像画

毛利元就/wikipediaより引用

一方の信長は、美濃を手に入れて京都へ進出したばかりの新興勢力です。

尾張、美濃、近江から畿内方面へ一気に勢力を拡大させたとはいえ、地盤の強さなども含めたら毛利に軍配が上がる。

あくまで遠方の有力大名であり、毛利にせよ織田にせよ、すぐに戦う相手ではありませんでした。

両家は足利義昭を中心とする秩序の中で、表向きは協調関係にあったのです。

実際、信長と元就の間には使者のやり取りもあり、両者の関係は「同盟」とまでは言えなくとも、決して険悪なものではありませんでした。

それがなぜ崩れてしまったのか?

 


備前・播磨の境目で代理戦争が始まっていた

織田と毛利が直接ぶつかる前から、両者の中間地帯では火種がくすぶっていました。

具体的には、備前・播磨の境目です。

天正元年(1573年)末、信長が浦上宗景に備前・播磨・美作の支配を認める朱印状を与えたことが発端となります。

これに反発した宇喜多直家が天正三年(1575年)初頭に毛利の傘下に入って浦上から離反し、両陣営の代理戦争となりました。

信長が支援→浦上宗景

毛利が支援→宇喜多直家

いわゆる代理戦争というやつですね。

宇喜多直家の木像

宇喜多直家/wikipediaより引用

信長からすれば、毛利が宇喜多を支えて東へ影響力を伸ばしてくるのは厄介。

毛利からすれば、信長が浦上を使って西へ圧力をかけるのは警戒すべき動き。

まだ全面戦争ではない。

されど境目では、すでに小競り合いが現実となり、さらにそこでキーパーソンが登場します。

足利義昭です。

 

京都を追われた足利義昭が毛利を頼った

天正元年(1573年)7月、京都から追放された足利義昭

今さら何なのか?

室町幕府は終わったのでは?

そう解釈されることも多いですが、当時の義昭本人にそんな気は毛頭なく、「将軍」という肩書きはまだ十分に利用価値がある。

足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)

足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)/wikimedia commons

義昭が各地を転々としながら、備後国の鞆(とも・現在の広島県福山市)へ移ったのは天正四年(1576年)2月のことです。

鞆は瀬戸内海の交通の要衝であり、毛利の勢力圏。

つまり義昭は、毛利の庇護下に入り、その後は各地の大名へ御内書を出し、反信長活動を続けました。「鞆幕府」という呼び方もあるほどです。

このような義昭を、毛利は喜んで迎え入れたのか?

というと、話は中々複雑です。

織田家との戦争は莫大な負担となります。

そのため当主の毛利輝元や、重臣の小早川隆景、吉川元春など毛利勢の間では、義昭の扱いや織田家との関係について、激しい議論があったとされます。

結果、天正四年(1576年)5月、毛利は義昭の要請を受け入れ、信長との敵対を決断します。

義昭を抱えることは「将軍を奉じる」という政治的名分になる。

信長の軍事行動を放置すれば、いずれ毛利の領国まで攻め込まれるリスクもある。

そこで毛利は、義昭の権威を利用しながら、対織田における防衛戦略を展開することとし、その第一歩が本願寺でした。

 


石山本願寺への兵糧支援と木津川口の戦い

元亀元年(1570年)以降、織田家と激しい戦争を繰り返してきた本願寺。

その本願寺に味方をするとなれば、織田家に対して宣戦布告したも同然――それを知った上で毛利は物資の支援から始めます。

毛利お得意の水軍を使い、瀬戸内海や大坂湾を通じて兵糧や武器などを運び込むのです。

石山本願寺の周囲は複雑な水路の入り組む特殊なエリアで、毛利水軍にはうってつけの場。

『石山合戦図』

織田軍と石山本願寺が11年にわたって激突『石山合戦図』/wikipediaより引用

織田軍の隙をつき、兵糧や武器の運び入れを成功させます。

もちろん織田家も黙って見過ごすわけにはいきません。

そこで両軍が激突したのが天正四年(1576年)7月「第一次木津川口の戦い」でした。

本願寺へ物資を運ぼうとする毛利水軍と、それを阻止したい織田水軍が木津川口で激突。

結果、毛利水軍の快勝となりました。

毛利方は"焙烙火矢"などの武器を駆使して織田水軍を撃破したのです。

この戦いが、全面戦争へと突き進んだ"直接のキッカケ"と言えるでしょう。

なお、信長は2年後の天正六年(1578年)11月に「第二次木津川口の戦い」で鉄甲船を投入し、毛利水軍を退けて補給ルートを遮断します。

これが本願寺降伏(天正八年・1580年)の一因となり、詳細は以下の記事からご覧ください。

九鬼嘉隆(左)と滝川一益の肖像画
信長考案の鉄甲船|毛利・村上水軍を破ったのは鉄に覆われた巨大船だった?

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信長は秀吉に中国方面攻略を命じた

毛利との対立が本格化すると、信長は中国方面への攻略に着手しました。

その司令官を任されたのが、大河ドラマ『豊臣兄弟』でもお馴染み羽柴秀吉です。

秀吉は天正五年(1577年)10月、播磨へ出陣。

同エリアには小寺氏・別所氏・赤松氏・宇野氏など多くの国衆がいて、小寺氏の家臣だった黒田官兵衛が秀吉に姫路城を提供し、協力を申し出ます。

黒田官兵衛の肖像画

黒田官兵衛/wikimedia commons

そこで一旦は制圧に成功したかに思えました。

しかし……。

織田につくか、毛利につくか。

実際は、情勢を見ながら揺れ動いていた播磨の国衆たち。

その動きは天正六年(1578年)2月、織田家にとっては最悪な形で噴出します。

三木城の別所長治が毛利方へ寝返り、上月城の尼子勝久が毛利軍に討ち取られると、今度は有岡城の荒木村重まで離反するなど、播磨周辺の情勢は一気に混沌と化したのです。

羽柴軍は三木城、織田軍は有岡城の包囲戦に大きな負担を強いられることになります。

一方、毛利軍も好き好んで織田軍との戦争へ突き進んだわけではありませんでした。

 

毛利も傍観はできない

毛利輝元は祖父・毛利元就が築いた広大な領国を受け継いでいましたが、実際はその維持だけでも大変なものでした。

毛利輝元の肖像画

毛利輝元/wikipediaより引用

九州方面には大友氏がいて、山陰・山陽の国衆とも常に緊張を強いられる。

中国地方の西から東へ大軍を動かすのは、簡単なことではありません。

それでも毛利は、足利義昭を抱え、石山本願寺を支援し、播磨方面の調略にも関与していきました。

なぜか。

信長が秀吉を使って播磨へ進出してくる以上、毛利の領国を守るため致し方ないのです。

毛利にとって織田との戦争は、領土的野心というより、生存をかけた防衛戦と言えました。

 

全面戦争は複数の火種が重なって起きた

流れを整理しましょう。

①備前・播磨の境目で、浦上宗景と宇喜多直家の代理戦争が起きた

②京都を追われた足利義昭が毛利領の鞆(とも)へ

③毛利が反信長を旗幟鮮明

④毛利水軍が石山本願寺へ兵糧を運び「第一次木津川口の戦い」で織田水軍を撃破

⑤信長が秀吉に中国方面攻略を命じて播磨へ進出

ご覧のとおり、毛利と織田の戦いは大国同士が一気に激突するのではなく、播磨・但馬・備前・美作の国衆と城をめぐる泥臭い争奪戦でした。

「信長が毛利を攻めた」

「毛利が信長を裏切った」

そういった単純な一言では片づけられない、この戦争。

様々な要素が積み重なった結果、最初は友好的だった両者も引き返せない合戦へと突入していったのです。

そしてこの中国攻めの最中に「本能寺の変」が勃発するのでした。

なお、秀吉による中国攻めで注目の「三木の干し殺し」と「鳥取の飢え殺し」については、以下の記事に詳細がございます。

戦国時代屈指の凄絶な籠城戦となった「鳥取の渇え殺し」と「三木の干し殺し」。豊臣秀吉と黒田官兵衛はいかにして2つの城を兵糧攻めしたか。史実から振り返る。
鳥取の渇え殺しと三木の干し殺し|秀吉と官兵衛が仕掛けた凄絶な飢餓の包囲戦

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戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


参考文献

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五十嵐利休

武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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