蜂須賀正勝の浮世絵

落合芳幾画『太平記英勇伝七十八:八菅與六正勝』/wikimedia commons

豊臣家

大仕事を終えた蜂須賀正勝の最期は?そもそも秀吉とはマブダチだったのか

大河ドラマ『豊臣兄弟』で退場を迎えた蜂須賀正勝は、史実でどんな最期を迎えたのか?

小六の名でも知られる正勝は、野盗の親分あがりで秀吉の兄貴分――そんな豪快な人物像が定着していますが、研究者の記述を読むと、イメージとはかなり異なる姿が浮かんできます。

戦場を駆け回るだけでなく、本能寺の変後は毛利との国境を決める超重要な交渉に臨み、一世一代の大仕事をやってのけるのです。

そして阿波一国を息子に譲ると、程なくして最期を迎える。

蜂須賀正勝の浮世絵

落合芳幾画『太平記英勇伝七十八:八菅與六正勝』/wikimedia commons

本記事では、そんな蜂須賀正勝、晩年の活躍を振り返ってみましょう。

 


本能寺後に待っていた一世一代の大仕事

天正十年(1582年)6月2日に本能寺の変が起きたとき。

蜂須賀正勝は秀吉と共に備中高松城を水攻めしている最中でした。

信長横死の一報を受け取った秀吉は、変の二日後には毛利との和議をまとめ、全軍を引き上げて京都へ進軍します。

そして山崎の戦いで首尾良く光秀を討ちとると、同年7月18日、毛利輝元から和睦と勝利を祝う書状を受け取りました。

毛利輝元の肖像画

毛利輝元/wikipediaより引用

この瞬間、正勝にとって一世一代の大仕事が始まりました。

「中国国分(くにわけ)」

つまり中国地方の領土交渉であり、毛利と羽柴の国境線をどこに引くか。

天下取りへ向かう秀吉にとって、背後に控える毛利は非常に厄介な存在ですから、羽柴領へ侵攻させないよう黙らせておくのが絶対条件でした。

そんな最重要交渉を任されたのが正勝だったのです。

果たしてどんな交渉だったのでしょう?

 

毛利との交渉は2年半も続いた

毛利は安国寺恵瓊と林就長を交渉担当に立て、羽柴方からは蜂須賀正勝と黒田官兵衛が出席。

争点は、講和したときに最前線だった「伯耆・備中・美作・備前」での線引きでした。

中国地方の地図

中国地方の地図

主張は真っ向からぶつかります。

◆秀吉方……備前・美作の全域と、伯耆・備中の東半分を主張

◆毛利方……割譲する土地に残っている実効支配地は留保

毛利方の主張がわかりにくいかもしれません。

「割譲する土地」というのは羽柴方の領土となる土地のことですが、そのエリアの中にある「毛利方の実効支配地」については、土地の権益者である国衆などがいて譲れない。

確かに、毛利方としても引けないところです。

一方、正勝や官兵衛にしても、今後天下人になろうとする秀吉の威信がかかっているため、安易には妥協できません。

ただし、交渉が決裂して毛利と敵対なんてことになったら最悪。

それだけにこの綱渡りは、天正十年(1582年)からなんと二年半も続きました。

 


四国の伊予を羽柴と毛利で勝手に取り決め

交渉が決着したのは天正十二年(1584年)末のことです。

妥結の契機となったのは縁組でした。

信長の実子で秀吉の養子になっていた御次秀勝と、毛利輝元の養女の婚姻が成立し、あわせて毛利側の要求も一部受け入れられたことで、交渉はようやく妥結に至ります。

織田信長(右)と豊臣秀吉の肖像画
御次秀勝はなぜ18歳で急死した?信長の実子で秀吉の養子だった後継候補

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交渉に成功した正勝は、黒田官兵衛と共に祝言の差配まで取り仕切りました。

それだけ慎重だったのには理由があります。

交渉の結果、毛利が美作と備中の東部を手放して羽柴方の土地となりましたが、前述の通り、その土地の中には毛利に従ってきた国衆たちもいます。

彼らに代わりの土地を用意する――そこで小早川隆景が強硬に求めたのが四国の伊予でした。

小早川隆景の肖像画

小早川隆景/wikipediaより引用

そう、羽柴と毛利の間では、この時点で四国の長宗我部へ攻め込み、伊予を毛利領とする話が勝手に決められていたんですね。

長宗我部元親は戦う前に降伏を申し出ていましたが、その和睦案は毛利の要求によって白紙に戻され、四国攻めが始まったのです。

この経緯については、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも描かれましたね。

小早川隆景と長宗我部元親の肖像画
なぜ小早川隆景は秀吉に伊予を要求したのか?長宗我部との和睦を壊した毛利の事情

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ただし、正勝がまとめた中国国分が、四国攻めの火種になっていたことまでは知らなかった方も多いかもしれません。

長宗我部にとってはなんとも酷い話であり、しかも、その火消しに行くのも正勝でした。

 

紀州でも四国でも同じやり方だった

蜂須賀正勝は天正十三年(1585年)、四国攻めに先立つ紀州攻めでも同様の役割をこなしています。

太田城に籠城して抵抗を続ける雑賀衆に対し、前野長康と共に窓口となり、城兵の助命と引き替えに早期の開城を実現。

そのまま四国攻めでも同じ役回りが与えられました。

長宗我部元親の降伏後、正勝と官兵衛が讃岐と伊予における国分け(領地分配)の事後処理にあたっています。

長宗我部元親の肖像画

長宗我部元親/wikipediaより引用

そして降伏直後、元親から正勝へ宛てられた閏8月5日付の書状が残っています。

【意訳】秀吉の赦免を得られたのは、ひとえに正勝の取りなしのおかげである。

【参考】『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』

たとえ社交辞令にせよ、丁重な感謝が述べられ、今後もいっそうの指南を願われている。

秀吉との取次として正勝が頼られていたのは、おそらくお世辞だけではなかったのでしょう。

研究者の森脇氏は、中国国分にせよ紀州にせよ四国にせよ、敵対相手の意向を汲みながら双方の妥協点を見出す、正勝の交渉能力の高さを指摘しています。

荒武者のイメージはあくまで物語の印象。

こうした地味な役割こそ、実は正勝の真骨頂だったのかもしれません。

 

阿波一国を受け取ったのは息子で正解だった?

四国攻めのあと、阿波一国は蜂須賀家のものとされます。

しかし受け取ったのは蜂須賀正勝本人ではなく、嫡男の蜂須賀家政でした。

天正十三年(1585年)8月、秀吉が弟の秀長へ示した国分の構想を見ると、家政の阿波拝領はすでに決まっており、居城の場所まで「いの山」と指定されています。

猪山城(いのやまじょう)、のちの徳島城です。

石高は阿波国内17万余石。

ではなぜ父の正勝ではなく息子だったのか?

蜂須賀家政の肖像画

蜂須賀家政/wikimedia commons

『寛政重修諸家譜』によると、秀吉が正勝に阿波を与えようとすると、正勝が秀吉の側近くに仕えることを望み、阿波は家政に譲ったと伝えています。

いかにも忠義の話に聞こえますが、研究者の菊地浩之氏は慎重に見ており、当時すでに家督が家政に譲られていたのだろう、と指摘。

辞退というより、そもそも代替わりが済んでいたというわけですね。

阿波国主への抜擢は、父子二代にわたる貢献に対して、秀吉が報いたものともされます。

しかし、同時に一つ気になることもあります。

秀吉は、家臣に大きな領地を与えておきながら、当人が死ぬと子の代でごっそり取り上げることがありました。

顕著な例が丹羽長秀と蒲生氏郷ですね。

丹羽長秀の肖像
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いずれも当人が亡くなり息子の代になると大幅に領地が減らされますが、最初から息子に所領が与えられた蜂須賀家では同様の心配はありませんでした。

時系列で確認してみるとこうなります。

◆天正十三年(1585年)4月16日 丹羽長秀が死去

◆天正十三年(1585年)8月 蜂須賀家政の阿波拝領が決まる

◆天正十四年(1586年)5月22日 蜂須賀正勝が死去

丹羽長秀の死からわずか4か月後に阿波が与えられていました。

そして正勝が何を考えていたのかは不明ですが、とにかく結果だけ見れば、蜂須賀家は代替わりで領地を失っていません。

いやいや、それは秀吉と正勝が真の親友だったからでしょ?

という見方も浮かんでくるかもしれませんので、最後にそこを確認しておきましょう。

 

秀吉との「マブダチ伝説」は本当か

矢矧橋の上で秀吉と出会ったとか、墨俣に一夜城を築いたとか、二人の間には有名な逸話がいくつもあります。

しかし、これらはいずれも創作。

正勝が巨漢で猛々しい男に描かれていくのは、若き秀吉を引き立たせるための脚色であり、それが現代まで続く小六像の源流になったと考えられています。

では実像はどうだったのか?

正勝の確かな活動が見える最初の史料は、永禄十一年(1568年)5月2日、秀吉が出した段銭の請取状です。

研究者の森脇氏は、このころ織田家中で台頭しはじめた秀吉を補佐するため、正勝は信長から宛がわれた人材だったと推測。

若い頃からの友人というより、信長が付けた年長の与力だった可能性があるということですね。

織田信長の肖像画

織田信長/wikimedia commons

しかも正勝は、信長との主従関係も保ち続けました。

播磨三木城の別所氏が離反すると秀吉から信長への使者となり、天正九年(1581年)に正勝は、信長と直接、何度も書状をやりとり。

むろん、秀吉との仲が悪かったわけではありません。

菊地氏によると、豊臣家臣団は織田や徳川に比べて異様に若く、年長の重臣は蜂須賀正勝、前野長康、生駒親正の三人だけでした。

しかもこの三人はもともと岩倉織田家の家臣で仲も良く、秀吉より十歳上の最古参が三人、身内のように固まっていたとされます。

マブダチというより、口の利ける年寄り衆だったのでしょう。

 

死の半年前、阿波へ寄って息子を頼んだ

そんな蜂須賀正勝の最期は、意外なほど静かなものでした。

天正十三年(1585年)11月、讃岐・伊予の後処理を終えた正勝は、畿内への帰り道に阿波へ立ち寄ります。

そこで正勝は、これまで自分に仕えてきた与力の重臣七名へ、丁重な書状を送りました。

内容は、これからは若い「阿波守」である家政に意見し、盛り立てていってほしいという頼みであり、いきなり国持大名となった息子を気遣う親心がうかがえると森脇氏も指摘。

そして翌天正十四年(1586年)5月22日、正勝は大坂で亡くなりました。

享年61。

没後には従四位下修理大夫の官職が追贈されており、おそらく秀吉の計らいだったのだろうと見られています。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikimedia commons

父を亡くした家政は、その年のうちに完成した猪山城へ移り、検地や城下町の振興を進めていきます。

後に約280年続く蜂須賀家の領国は、ここから始まりました。

野盗の親分が天下人と肩を組んだ――という話ではなく、信長に付けられた年長の与力が、最後は国境を引く交渉役になり、一国は息子に渡して死んだのです。

戦国武将として、立派な成功譚といえるでしょう。

なお、蜂須賀正勝がドラマの中で懐かしがっていた川並衆については以下に関連記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。

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◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅

◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


参考文献

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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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