「やる事成す事いちいち裏目に出る時」って誰でもありますよね。
これが戦国時代になると命にも関わりまして、天正十五年(1587年)12月5に終結した【肥後国人一揆】は、ある不運な武将に死をもたらします。
成政は、信長の側近から大名に成り上がった織田家の生え抜きで、立ち位置的には前田利家と似ているかもしれません。
しかし百万石になった利家に対し、成政は不遇の日々。
本能寺の変後は、ことごとく秀吉の対抗勢力については敗北を喫し、ついには今回の一件で切腹へと追い込まれます。
その経緯を見て参りましょう。
※肥後国人一揆の終結日は、国史大辞典において「和仁城が陥落した12月5日」とされ、本記事もそこに準拠しています
※以下は佐々成政・さらさら越えの関連記事となります
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肥後国人一揆は秀吉の政治的判断があった?
本能寺の変(1582年)後、佐々成政はどれぐらい負けていたか?
というと、ざっと以下の通り。
①1583年
賤ヶ岳の戦い
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②1584年
小牧・長久手の戦い
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③1585年
富山の役
豊臣秀吉vs佐々成政→敗北
3年連続で敗退を続け、これでよく切腹(あるいは放逐)されなかったな……というものです。
むしろ運が強い。
と逆に思ってしまうほどで、実際、秀吉と直接対決となった富山の役での敗戦後は、織田信長の二男・織田信雄に命乞いをして貰って助けられています。
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ただ、これも秀吉の温情というよりは、政治・外交上の判断があった可能性も考えられます。
以下の秀吉記事の年表にもありますように、
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当時、豊臣家にはまだ多くの敵(四国・九州・関東・東北)が残っており、実直だった佐々成政は『まだ使い道がある』と考えたのかもしれません。
実際、1587年の九州征伐後に成政は、非常に統治の難しい肥後(熊本県)の大名に任ぜられるのです。
そして、そこでやらかしてしまうのでした……。
成政の検地が原因だった
秀吉の業績で最も有名なものの一つに【太閤検地】があります。
田畑の面積や収穫量を調べることで、取れ高に見合った年貢を課すために行われるものですね。
現代で言えば所得税の徴収って感じでしょうか。
目的は、庶民からお金(お米)を集めることです。
秀吉は本能寺の変後あたりからこの検地を重要視していて、当然、九州征伐後も「お前ら自分のシマできっちり検地をするように!」(意訳)と命じておりました。
自身が百姓あるいは半農の足軽出身とされるだけあって、農民たちが単なるか弱い存在ではなく、平気で隠田(おんでん・領主に隠れて田んぼを耕作)することも当然知っていたのでしょう。
要は、脱税のチェックを領主たちに課したのでした。
しかし、です。
領地化したばかりの肥後国は例外的に検地の対象外としておりました。
成政に対して秀吉は、
【国人たちの所領を認め】
【3年間は検地を行うな】
という通達を出していたのです。
むろん成政も当初は従おうとしました。
しかし、これではいかんせん現実的な領国経営はままなりません。
当然ながら、成政の下にも多くの家臣団がおり、彼等に知行(土地)をあてがわねば生活できないわけです。
そして、ついに検地を断行したのが運の尽きでした。
隈部親永を抑え込み、かえって国中が反発
成政の検地に対し、「約束が違うじゃないか!」とキレたのが隈府城(わいふじょう)の隈部親永(くまべちかなが)。
これを無理やり抑え込んだ成政ですが、この強引なやり方が、かえって他の国人たちの怒りに火を付けてしまいます。
そして国中で一揆が勃発!
天正十五年(1587年)7月のことでした。
国人だけでなく民衆も含めた一揆勢は隈本城(くまもとじょう)を囲み、成政は為すすべなく居城の平山城に入ったまま出られなくなります。
一揆勢の勢いは凄まじく、成政は完全に封じ込まれ、近隣の小早川隆景(筑前)や立花宗茂(筑後)らの援軍を待つことになりました。
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成政は、最終的には餓死寸前にまで追い込まれたとされます。
一揆勢が単なる農民たちだけでなく、戦闘集団の国人たちが先導していたのが大きかったのでしょう。
ちなみに、国人とは地方の小領主たちのことで、国衆とも呼ばれたりします。
大河ドラマ『おんな城主 直虎』の井伊家や『真田丸』の真田一族なんかもそうですね(真田家は後に大名へ)。
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肥後にはそんな国人が50人以上いて、九州征伐の直前は島津家の傘下に入っていましたが、その後、成政の配下扱いになっておりました。
その多くが一斉に蜂起したのですから、そりゃあ苦境に落とされますわな。。
成政の生年がはっきりしないため、一揆が起きたころ何歳だったのか、不明です。
一応、50歳頃と見られ、当時ではかなりの高齢ですから、一説には「病気だったので早く検地をしたかったのでは?」なんてことも言われます。
しかし、国人たちから見れば、そんな事情は知ったこっちゃねえ、とばかりに城を取り囲まれてしまうのでした。
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