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【戦国史が一変した天正十年】
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生還者
◆信長の側近として仕えていた黒人初の侍・弥助。
信長の、ほとんど最後まで側にいたとされる弥助は、その後、二条新御所にいた織田信忠のもとへ走り、結局、明智軍に囚えられて、京都内の教会へ引き渡されたと言います。
『信長公記』の作者・太田牛一に現場の様子を伝えてくれていたら、そりゃもう、凄まじく面白いんですけどね。
なお、死の直前に敦盛を舞ったと『信長公記』には記されていません。著者の遊び心なオチだということを野暮ながら付け加えさせていただきます。
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逃げて!ヤッさん
◆家康と信長はどんな関係だったのか?
武田信玄からの凄まじいプレッシャーを浴びせられながらも、ついに織田家を裏切らなかった家康は、やはり信長の強さを信じていたのでしょう。
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しかし、ここは信玄や信長を偲んでいる場合じゃござーせん。
摂津の堺にいた家康は、三河へ戻るべく死の行軍にチャレンジします。
本多忠勝にも背中を押されて突き進んだその道は、伊賀の山中を通って伊勢・尾張へと抜ける地獄の帰り道でした。
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天正十年にあったことマトメ
◆甲州征伐→武田勝頼が滅ぼされる
◆備中高松城の戦い→最も有名な水攻め開始
◆本能寺の変→信長が横死
◆山崎の戦い→秀吉が光秀に勝つ
◆清洲会議→秀吉vs勝家始まる
◆天正遣欧少年使節が出発→4人の少年は欧州へ
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